川原慶賀とは?「シーボルトのカメラ」で、日本の動植物細密写生画の先駆者!

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川原慶賀・タイ図

皆さんは川原慶賀という絵師をご存知でしょうか?実は有名なシーボルトとも深く関わった人物なのです。

そこで今回は川原慶賀とシーボルトについてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.川原慶賀(かわはらけいが)とシーボルト

(1)川原慶賀とは

川原慶賀(1786年~1860年?)は、江戸時代後期の洋風絵師で、出島出入り絵師として、風俗画・肖像画に加え生物の細密で詳細な写生画を描きました。「慶賀」という大変おめでたい「画号」ですが、本名は種美です。

彼は最初、絵を町絵師の父・川原香山に学び、1811年頃からは「唐絵目利(からえめきき)職」兼御用絵師の石崎融思(1768年~1846年)に師事し、頭角を現しました。石崎融思は洋画風の写生に優れ、長崎画壇の大御所となった絵師です。

「唐絵目利職」は長崎奉行の直轄下にあって、舶載画の鑑定や輸入品の図写を仕事としたため、写生的な画風を要求されました。しかし融思の画風は、在来の狩野派の画風に多少の写生画法や西洋画法を加味するにとどまっていました。

やがて彼は出島のオランダ商館への出入りを許され、1817年には来日した出島オランダ商館長(カピタん)のブロンホフの家族肖像画を描いています。

ブロンホフ家族図・川原慶賀

彼はこのほかにも、異国の風俗と日本の浮世絵を融合させた独自の画風で、長崎の風俗画や風景画、出島での商館員達の生活などを描いています。

人物画・川原慶賀

1823年にシーボルトがオランダ商館付き医師として来日すると、日本の動植等の蒐集(しゅうしゅう)を始めたシーボルトの注文に応じて、彼は『日本』という本の挿絵のために、精細な動植物の写生画を描きました。

さらに1825年にはジャワ島バタヴィアから招聘されたオランダ人画家デ・フィレーネフェから本格的な西洋画の画法を学び、習得しています。

1826年のオランダ商館長の江戸参府の際にはシーボルトに同行し、道中の風景画・風俗画・人物画等も描いています。

こうして彼はシーボルトの「カメラ」となって、日本の動植物の細密写生画や、庶民の姿、日本の風景などを浮世絵をベースにしながらも西洋画の遠近法や影などの技法を駆使して写実的に描いたのです。

1828年に起きた「シーボルト事件」の際には、多数の絵図を提供していた彼も長崎奉行所で取り調べられ、叱責を受けています。

シーボルト追放後も、後任のドイツ生まれの薬剤師で生物学者のハインリヒ・ビュンゲルの指示を受けて、同様の動植物画・写生図を描いています。

1836年には「慶賀写真草」という植物図譜を著しています。これは日本における「ボタニカルアート」の先駆けと言えます。

写実的な動植物画としては、すでに伊藤若冲(1716年~1800年)の「動植綵絵」(下の画像)がありますが、これは写実的ではありますが独創的な絵画です。

伊藤若冲・鶏図伊藤若冲・鶏と花図伊藤若冲・群鶏図

画家の個性を出さずに、写生・写実に徹した動植物図鑑的な絵としては、やはり日本では彼が最初ではないかと思います。伊藤若冲が「芸術家」であったとすれば、彼は「職人絵師」に徹したと言えます。

1842年に、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に、当時長崎警備に当たっていた鍋島氏と細川氏の家紋を描き入れたところ、これが「国家機密漏洩」とみなされて再び捕らえられ、江戸及び長崎所払いの処分を受けました。

長崎を追放された彼は、別姓「田口」を使った絵を残していますが、1846年には長崎に戻ったとも言われています。

その後の消息はほとんど不明ですが、1853年に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた「唐蘭館図」(下の画像)は開国後に描かれていること、慶賀の落款のある1860年作と推定される絵が残っていることから、少なくとも75歳までは生きていたようです。

唐蘭館図・蘭船入港図唐蘭館図・玉突き図

(2)シーボルトとは

シーボルト

シーボルト(1796年~1866年)はドイツの医師・博物学者で、日本に二度来日しています。

彼は1823年にオランダ商館付き医師として来日すると、1824年に最先端の西洋医学を学ぼうとする日本人のために、出島の外に医学教育を行う「鳴滝塾」を開き、塾生たちの指導に当たりました。

彼はまた、当時ヨーロッパで日本に対する関心が高まっていたことから、日本をヨーロッパに紹介するために、出島を拠点にして川原慶賀に写実的な絵画を描くように依頼しました。

来日後間もなく一緒になった日本人女性・楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうけています。楠本イネは「オランダおいね」の異名で呼ばれましたが、日本人女性初の産科医となりました。

余談ですが、彼は自著の中で「otaksa」(紫陽花)を紹介し、「アジサイは日本で『オタクサ』と呼ばれている」と命名の由来を説明しています。しかし植物学者の牧野富太郎は日本国内でこのような呼称が確認できなかったことから、シーボルトの愛妾・楠本滝(お滝さん)の名を潜ませたと推測しています。

しかし、1828年に、当時「国禁(国外持ち出し禁止)」であった日本地図などを国外に持ち出そうとして発覚し、彼は「国外追放の上、再渡航禁止」の処分を受け、それを贈った幕府天文方・高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死しました。これが「シーボルト事件」です。

この事件の経緯は、樺太東岸の資料を欲しがっていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などを贈り、その見返りに景保が伊能忠敬が作った「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに贈ったものです。

1854年に日本が開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、彼の国外追放処分も解除されたため、1859年に「オランダ貿易会社顧問」として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となっています。

2.川原慶賀の動植物の細密写生画

(1)動物

カブトガニ・川原慶賀キツツキ図・川原慶賀毛ガニ図・川原慶賀カジキ図・川原慶賀フグ図・川原慶賀シャコ図・川原慶賀カニ図・川原慶賀

(2)植物

キンセンカ図・川原慶賀ザクロ図・川原慶賀シャクナゲ図・川原慶賀ツワブキ図・川原慶賀ナスビ図・川原慶賀ハス図・川原慶賀ビワ図・川原慶賀ムクゲ図・川原慶賀川原慶賀ジネ図野菜図・川原慶賀

川原慶賀の植物図譜(埼玉県立近代美術館)

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