私は今年75歳で、まもなく「後期高齢者」に仲間入りしますが、最近「江戸時代の長生きした老人たちはどのように過ごしていたのだろうか?」「どのようなことを考えて老後を生きていたのだろうか?」としきりに考えるようになりました。
1.江戸時代は「人生五十年」
明智光秀の謀反(本能寺の変)に逢った織田信長は「人間(じんかん)五十年下天のうちを比ぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり」(*)と幸若舞「敦盛」の一節を吟じて自害したと言われています。
(*)これは「人の世の50年の歳月は下天(天界の一つ)の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味です。 現代において、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合がありますが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではありません。
ところで一般に、江戸時代は「人生五十年」だったと言われています。
「俳聖」と言われた松尾芭蕉(1644年~1694年)はちょうど50歳で亡くなっていますし、芭蕉と同時代の俳人で浮世草子・人形浄瑠璃作者でもある井原西鶴(1642年~1693年)は、「浮世の月見過ごしにけり末二年」と人生50年、自分は余分に2年も生きて、この浮世で月見をしてきたと辞世を残しています。
そういう意味で、江戸時代の場合、40歳あるいは40代は死を思うのに十分年齢で、現代とは比較にならないほど死を身近に感じられたことでしょう。
2.江戸時代も実は「高齢化社会」だった!?
ところで、西鶴は『日本永代蔵』で「若き時、心を砕(くだ)き身を働き、老いの楽しみ早く知るべし」(若いうちに一生懸命働き、早く隠居して人生を楽しむべきだ)と、「そのためにおかねを大事にし、分限長者(ぶげんちょうじゃ)という億万長者になるべし」と説いています。
江戸時代は、「高齢化へ踏み出していた時代」でもあり、70、80歳という長寿もそれほどめずらしくはなかったようです。そして、江戸時代は「隠居天国」で、高齢社会の現在からみると、時代の大いなる先取りだったと思えます。
芭蕉や西鶴のように50代で亡くなると、老後資金など不要です。しかし、70、80歳までとなると、それなりの手だてが必要なのは、現在も江戸時代も同じです。隠居生活の経済基盤は、同居か仕送り、分限長者の資産というのは現在と変わりありません
3.江戸時代の長寿者の老後の過ごし方
では、江戸時代の長寿者は老後をどのように過ごしていたのでしょうか?
(1)一般的な理解
①暮らし
江戸時代、隠居生活は恵まれた百姓のみで、それ以外の老人は老後も働ける限りは働きました。
しかし重労働は体力的に難しいので、稲の穫り入れ後の落穂拾い、稲の品種計量などの軽作業などをしていたようです。
江戸時代、学者が書いた農書が出回り、文字による伝達・普及によって、老人の蓄えてきた知識は顧みられなくなったという説があります。しかし地域の年配者の持つ技術と、長い人生経験に基づく教えは農民の間で伝承され続けました。
江戸時代の証文・不義密通やアルコール依存の息子に見られるように、村にもめごとがあった際に、その仲裁に期待されていた存在が老人でした。老人は現実社会の利害関係からある程度超越しており、人生経験も豊富だからです。
子供と老人は神や仏の世界に一番近い存在あり、現代のように老人を劣等者と見なすことはありませんでした。明治以降は、近代科学の知識や技術が猛威を振るい、老人の知識や技術を飲みこんで行きました。
②介護
江戸時代、介護は男性家長の役割でした。家の中に介護者がいないお年寄りは、親類縁者はもとより、村人たちに支えられていました。村の長である、比較的裕福な「名主」はもとより、「五人組」というご近所ネットワークもここでその力を発揮。その他村人も介護に当たりました。
③平均寿命
17世紀の平均寿命は30歳でしたが、19世紀には30代後半になりました。成人すれば江戸時代は70歳くらいまで生きる人も珍しくありませんでした。
庶民は武士より短命で、女性は妊娠死亡率が高かったので女性は男性より短命でした。平均寿命が短い要因は、天然痘にかかって死亡する乳幼児が多かったからです。
(2)一般庶民のリアルな「エゴ・ドキュメント」がないので詳しくはわからない
落語には、八つぁん・熊さんや与太郎に社会の常識を教える「(長屋の)大家(おおや)さん」や「(町の)御隠居」がよく登場しますが、江戸時代の長寿者(長寿の老人)は、老後をどのように過ごしたのでしょうか?
一般庶民のリアルな「エゴ・ドキュメント」(*)としては、日記を書いていた人も必ずいるに違いありませんが、それはあくまでも「私的なもの」で「公開されることはない」ため、我々後世の者が容易に目にすることはできません。いわば「歴史の闇に埋もれた庶民の声なき声」です。
そのため、将軍や藩主、著名な学者や文人のように事績や逸話の残っている歴史上の有名な人物のほかは、学者や武士の残した「残日録(ざんじつろく)」のような「日記」や「随想録」、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』(**)のような時代小説や江戸時代を描いた映画やドラマでしか窺い知ることはできません。
(*)「エゴ・ドキュメント」とは、一人称で書かれた資料を示す歴史用語で、手紙、日記、旅行記、回想録、自叙伝といった形態の史料です。公的な記録からではなく、語り手の視点から外側の世界を見ることでこれまで気づかなかった側面に光が当てられます。一方で主観的な思い込みや記憶違いといったことも入り込んでくるのでその扱いには慎重を要します。
余談ですが、12月4日にNHKスペシャルで「エゴ・ドキュメントから迫る | 新・ドキュメント太平洋戦争1941 開戦」を放映していました。興味のある方はぜひ下をクリックしてご覧ください。
[NHKスペシャル5min.] エゴ・ドキュメントから迫る | 新・ドキュメント太平洋戦争1941 開戦 | どーがレージ | NHKオンライン
(**)『三屋清左衛門残日録(みつやせいざえもんざんじつろく)』は、用人として仕えた先代藩主の死去に伴い、新藩主に隠居を願い出て、国元で隠居生活に入った三屋清左衛門の残日録という形態の時代小説です。隠居の日々は暇になるかと思われましたが、実際には友人の町奉行が抱える事件や、知人やかつての同僚が絡む事件の解決に奔走することになります。さらには、藩を二分する政争にも巻き込まれていきます。
余談ですが、私のこのブログ『団塊世代の我楽多(がらくた)帳』も、日記ではありませんが、ある意味で「庶民の声なき声」として、「老後の私が何を考え、どんなことに興味を持っていたのか」を私の家族だけでなく多くの人に知って欲しいという思いもあるのです。
できれば、率直な感想などをコメントで頂ければなお嬉しいです。
(3)(ご参考)遊女の「エゴ・ドキュメント」である「日記」が改ざんされた事例
長谷川貴彦編の『エゴ・ドキュメントの歴史学』には次のような話が出ています。
江戸の遊女たちの日記が、役人によって書き換えられたことがありました。江戸末期、新吉原の遊郭の抱え遊女16人が共謀して店に放火し、直後に名主宅に駆け込んで自首するという事件が起き、その調書が残されています。その調書の基になったのが遊女たちが書いた日記です。そこには店主の横暴、暴力、搾取ぶりが綴られています。遊女たちが書くのは簡単な漢字が交じった平仮名の未熟な文章で、それを役人が漢字に変換し添削しているのです。
西洋の話も紹介されています。16世紀初頭、ローマ北部の小都市でベレッツァという女性が、魔術によってある人物を殺害したとして魔女裁判にかけられました。当初は否認しますが拷問によって魔女であると自白、最後は自死してしまいます。ベレッツァは当時の民衆女性としては珍しく読み書きができ、自ら「告白」を書いたのですが、それを審問記録に転写する際に大幅な改ざんが行われたのです。 要するに、当時の社会規範に沿う形で彼女を魔女に仕立て上げたのです。
4.江戸のご隠居の生き方を紹介した本『江戸の定年後ー”ご隠居”に学ぶ現代人の知恵』
中江克己氏のこの本は、私と同じような疑問から出発して、さまざまな事例を紹介しています。
「定年後の人生をいかに充実させていくか」「人生の総仕上げをどうするか」など、さまざまな可能性を求めて模索する人を観察しているというだけならばいたって普通です。
しかし、それだけにとどまらず、「江戸の老人たちは隠居後、どのように生きていたのだろうか」という疑問を抱いたというのです。そして、さまざまな資料を読み進めた結果、ひとつの事実に行き着いたのだそうです。
それは「人生50年」とされ、寿命は短かったといわれる江戸時代にも、長命で元気な老人がたくさんいたということ。多くの老人たちが隠居暮らしを楽しんでいただけでなく、なかには隠居してから見事な変身を遂げ、大きな仕事をした人も少なくないと言うのです。
人は誰しも、不安を抱くことなく、精神的な余裕を持ちながら定年後を過ごしたいと思うものです。ところが生きていく上ではいろいろな事情が絡みついてくるだけに、実際にはなかなか自信を持つのは難しくもあります。歳を重ねて肉体的に老いて行けば、自信を失いがちになったとしても無理はありません。
しかし、それでも希望を抱き、つねに「これから」という気持ちをもちつづければ、元気に生き抜くことはできる。
それは本文に登場する江戸の元気な老人たちから学ぶことができるし、彼らのたくましい生き様を見れば、こちらにもその元気が伝染してくるのではないだろうか。(本書「はじめに」より引用)
全体が5章に分けられた本書においては、まず江戸の隠居暮らしと理想の老後について触れています。次いで取り上げられているのは、ずばり健康問題です。元気に寿命を保つには健康が大切だということで、江戸人たちの健康法などに触れているのです。
さらに興味深いのが第3章以降です。
第3章では貝原益軒、加賀千代女、杉田玄白、良寛、大久保彦左衛門ら、天寿を全うした人たちの長い記述に焦点を当てています。
続いて第4章では、隠居後にそれまでとはまったく違った道を歩み、人生の晩年を飾った人が取り上げられています。
50歳で隠居したのち本格的に天文学と測量術を学び、正確な日本地図作成に第二の人生を捧げた伊能忠敬からは、好奇心と熱意の大切さを学ぶことができます。また、そこに至る以前、つまり婿養子として商才を発揮してエピソードにも心惹かれるものがあります。
佐原鞠塢(さはら・きくう)は、もともと商人だったものの40代で商売から身を引き、以後は趣味的生活に入ったという経緯の持ち主です。その趣味とは詩集の刊行と園芸で、いうまでもなく後者の象徴が向島百花園です。彼は趣味を貫きつつ利益を生み出しました。
その他、武士から著述家へ転身した神沢杜口(かんざわ・とこう)、大工の棟梁から落語家となり、江戸落語を再興した烏亭焉馬(うてい・えんば)、隠居後に幕臣として活躍しながら狂歌師としても才能を発揮した大田南畝(おおた・なんぽ)、隠居後に才能を開花させた歌川広重、女ひとりで生き抜いた幕末歌人の大田垣蓮月(おおたがき・れんげつ)らの「定年後」も、それぞれが個性的です。
大まかにいえば、真似のできない人生を送ったといえる彼らに共通しているのは、老後の時間を大いに楽しんだという点です。とはいえ当然のことながら、それの多くは貧乏などの苦難を経た末にもたらされたものです。
障害に直面すると、人はその時点で諦めの境地に陥ってしまいがちです。しかし、苦難をも「プロセス」として受け入れ、乗り越えてしまえば、その先には希望があります。一人一人の道のりが、そんなことを実感させてくれます。
最後の第5章では、人生最後の「死」について語られ、山本常朝、十返舎一九、葛飾北斎の死が取り上げられています。