前に「中村天風とは?松下幸之助や大谷翔平も感銘した中村天風の哲学と名言とは?」という記事を書きました。
中村天風(1876年~1968年)は帝国陸軍で高等通訳官を務めていた1906年に肺結核を発病します。症状はひどく、死を覚悟したということです。
弱った心身を立て直す方法を模索した彼は、1909年、33歳のときに単身欧米に渡り、最先端の医学を学びます。しかし、病の解決法はなかなか見つかりませんでした。
この旅の途中に彼が、友人から「芸術の国フランスには、幅広い芸術家がいる。この人は、ただのオペラ女優ではない。哲学を持っている人だ。教えられることが多いよ。訪ねて行けよ」と勧められて、フランスの舞台女優サラ・ベルナールの邸に一時居候していたことを知り、彼女に興味を持ちました。
サラ・ベルナールは、当時65歳を超えていたはずですが、27~28歳にしか見えなかったそうです。
「お若いですな」と彼が言うと、彼女は「女優には年齢はありません」とにっこり微笑んだそうです。彼は彼女の美しさと、粋な喋り方にすっかり魅せられてしまいました。
彼女はある日、「カントの自叙伝」を読むように彼に勧めました。
カントは胸に奇型的な痼疾(こしつ)を持っていたそうで、時に訪れてくる巡回医師は少年カントに「この病は一生治らないだろう。だがあなたの心は病んではいない。これからは、辛い、苦しいと言わずに、自分のやりたいことをやりなさい」と諭しました。
それから少年カントは哲学を志し、大カントと言われるほどの哲学者になったということです。
彼は、朝から夜まで病に苦しみ、恨み続けていましたが、これを読んで自分の生き方の誤りを痛烈に感じたそうです。
この体験が、後年に彼が唱えた「心身統一法」での「たとえ身に病いがあっても心まで病ますまい」という教えにつながったのです。
1.サラ・ベルナールとは
サラ・ベルナール(1844年~1923年)(本名:ロジーヌ・ベルナール)は、パリ生まれで天才として伝説化したフランスの大女優です。
フランスの「ベル・エポック」(美しい時代)(*)と呼ばれた時代を象徴する大女優です。
(*)「ベル・エポック」とは、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、及びその文化を回顧して用いられる言葉です。
普仏戦争(1870年~1871年)前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。女優としての地位を不動のものとしたのは、文豪ヴィクトル・ユゴー作『リュイ・ブラース』の主演を務めたことによります。
ヴィクトル・ユゴー(1802年~1885年)に「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ちましたが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられています。ジャン・コクトー(1889年~1963年)は「聖なる怪物」と呼びました。
キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。社会史の観点からは、一つの文化圏・消費経済圏を越えて国際的な人気を博した「最初の国際スター」としてしばしば言及されます。
また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」(*)という新芸術様式・運動の中心人物でした。
(*)「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)とは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動です。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴です。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたりました。
2.サラ・ベルナールの生涯
サラの母親のジュディト=ジュリー・ベルナール(1821年~1876年)は、婦人帽子を売る貧しい売り子であり、ネーデルラントに住むユダヤ系の行商人の娘でした。サラの母親はパリに来て高級娼婦となり、「ユール(Youle)」の源氏名で知られていました。父親が誰かは知られておらず、サラは父親の素性については常に沈黙を保っていました。
その後、小さいうちに母に見捨てられてしまったサラは、フランス北西部のカンペルレという町の叔母に育てられます。
運良く、叔母の愛人だったシャルル・ド・モルニー(ナポレオン3世の異父弟)が支援をしてくれたおかげで、学校に入ることができました。
彼女は演劇学校卒業後、1862年コメディー・フランセーズにデビューしましたが、その後私設劇場を転々とします。
1875年コメディー・フランセーズの正式座員となります。1879年ユゴーの「リュイ・ブラス」の女王役で評判となり、英国、米国を巡演し世界的名声を得ました。
1880年コメディー・フランセーズを退団し、その後「椿姫」「トスカ」などロマン派的悲劇のヒロインを演じ大成功を収めました。
1890年にポルト=サン=マルタン劇場(パリ10区)で公演した「ジャンヌ・ダルクの成り行き」出演中に受けた怪我が悪化して、膝の骨結核になってしまったため、彼女は、1915年3月12日、70歳のときに、ボルドーのサン=オーギュスタン病院で右足を切断しました。ギプスをしていた彼女の膝は壊疽を起こしていたのです。
1899年サラ・ベルナール座を設立し、「ハムレット」の男役ハムレットを演じました。
彼女は右足を切断した後も、座ったままで演技をし続けました(木製であろうがセルロイド製であろうが義足をつけることを拒んでいました)。
彼女はまた愛国精神に富み、第一次大戦時には持ち運びできる椅子を持参してドイツと戦う前線の兵士たちのところへ慰問を続け、「椅子のおばさん」と呼ばれることを望んだそうです。
彼女は天性の美貌と美声に加えて、卓越した演技力で人気を博し、世紀末の演劇の華で、国葬の栄誉を受けました。
3.女優以外の彼女の一面
(1)美のパトロン
彼女はグラフィックデザイナー・イラストレーターのアルフォンス・ミュシャ(1860年~1939年)やガラス工芸家・金細工師・宝飾デザイナーのルネ・ラリック(1860年~1945年)らの才能を開花させた「美のパトロン」でもありました。
1894年、当時無名の画家だったミュシャに、サラ主演の劇曲『ジスモンダ』のポスター制作の依頼が舞い込んだ際、 ミュシャは彼女のために豪華で装飾性の高いポスターを制作しました。
そのポスターは人気となり、またたく間に、ミュシャは”アール・ヌーヴォー”の代表的な芸術家となりました。
サラのポスターに用いられたミュシャ独自のスタイルは、演劇世界だけではなく、消費社会の到来の合わせて商品のポスターにも応用されていきました。
ミュシャと同年に生まれたラリックも、サラ・ベルナールに才能を見出された一人です。
1894年、サラの舞台装飾をきっかけに、プライベートの装飾具も手掛け、ジュエリー作家としての道が開けていきました。1900年のパリ万博では、見事グランプリを受賞し、アール・ヌーヴォーを牽引しました。
(2)欧米をまたにかけて興行した一大プロデューサー
フランスの他にイギリスやアメリカへも一座を率いて大興行を行うなど、女優だけではなく事業家としての側面も持っていました。
(3)戦争の際に劇場を野戦病院として開放するなどの社会貢献
また、1870年に始まった「普仏戦争」の際には、当時の劇場「オデオン座」を、国や財界の支援を受けて野戦病院として開放するなど、女優や興行主以外の面でも活躍しました。
そのような社会に対しても貢献する姿が、多くの人々の尊敬を集めました。
(4)恋多き女
彼女の私生活は激動に満ちたものでした。20歳の頃にのちに著述家となる一人息子、モーリス・ベルナールを出産しています。父親はベルギーの上院議長ウジェーヌ・ド・リーニュ公の長男、アンリ=マクシミリアン・ド・リーニュ公子だと言われています。
恋多き彼女の傍らには、いつも恋人がいました。
医師のサミュエル=ジャン・ド・ポズィのほか、芸術家ではギュスターヴ・ドレやジョルジュ・クレラン、俳優ではムネ=シュリ、リュシアン・ギトリ、ルー・テレジェンが、彼女の親友ないし恋人であったと推定されています。
ヴィクトル・ユゴーや、プリンス・オブ・ウェールズもそうであったという人もいます。
彼女の肖像画を複数描いた女流画家のルイズ・アベマとは、同性愛的関係にあったことを示す資料もあるそうです。下の画像はルイズ・アベマが1875年に描いた彼女の肖像画です。
4.サラ・ベルナールの言葉
・命が命を生む。エネルギーがエネルギーを生む。
人が豊かになるのは、自分自身を投じることによってである。
・40歳を過ぎて、名声というものの喜びとみじめさを知っている人間は、自分を守る方法を知っている。
・あなたの言葉はわたしの料理。あなたの呼吸はわたしのワイン。あなたはわたしのすべてなの。
・俳優は自分の才能を大きく見せる傾向がある。自分の風貌がリア王に適していても、ハムレットを演じたがる。
・ひとたび幕が上がれば、俳優は自分ではなくなる。役に入り込み、作品や観客のものとなる。
・すべての新しいアイデアはフランスで生まれるけど、簡単に受け入れられることはない。まずは外国で成功を収めなければならないようね。
・過去のことであっても、伝説は勝者であり続ける。
・どんな美しい女も年にはかなわない。だからといって年齢通りに老ける必要はない。女は自分で考えて決めた分だけ年をとればいい。