写真屋さんで現像を頼んだ時にもらえるミニフォトアルバムに、下の画像のような絵を見たことはありませんか?
これは、「アール・ヌーヴォー(*)の旗手」と呼ばれ、時代の寵児となったアルフォンス・ミュシャの作品です。
(*)「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)とは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動です。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴です。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたりました。
1.アルフォンス・ミュシャとは
アルフォンス・ミュシャ(1860年~1939年)は、チェコ出身のアール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナーです。
彼はアール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作しました。彼の作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴です。
イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道十二宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられます。
2.アルフォンス・ミュシャの生涯
1860年、彼はオーストリア帝国領 モラヴィアのイヴァンチツェに生まれました。1879年ウィーンへ移住し、舞台美術などを手がける工房で助手として働き、美術への技術や教養を深めていきましたが、1881年に雇用主のビジネスが火事に遭い、ミュシャも失業してしまいました。
彼はモラヴィアへ戻り、クーエン・ブラシ伯爵と出会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなりました。エゴン伯爵の援助を受け、1884年からミュンヘン美術学校に入学し、古典的な写実的描写表現を会得しました。
1887年に同校を卒業後、パリへ向かい、アカデミー・ジュリアンで勉強を続けました。学業に加え、雑誌や広告イラストを手がける印刷所でも働いていました。
そんな中、1895年に急遽、人気舞台女優サラ・ベルナール(1844年~1923年)(下の写真)出演の演劇『ジスモンダ』のポスターを手がけることになりました。
これは、ベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注することにしたのですが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてた彼に飛び込みで依頼したものでした。
威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、文字通り一夜にして彼の「アール・ヌーヴォーの旗手」としての地位を不動のものとしました。
またサラ・ベルナールにとっても、この『ジスモンダ』が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなりました。その後もミュシャは「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」など、サラ・ベルナールのポスターを制作しています。
彼はまた、煙草用巻紙(JOB社)・シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)・自転車(ウェイバリー自転車)などの広告イラストやポスター、書籍の挿絵などを幅広く手がけました。
1900年パリで開催された万国博覧会で、「ミュシャ・スタイル」は国際的に認知され、ボスニア・ヘルツェゴビナとオーストリアのパビリオンの装飾を手がけました。
1910年、故郷チェコへ戻り、彼の代表的な絵画作品である「スラブ叙事詩」を制作し始め、完成までに20年かかったと言われています。
1900年代は、政治的に激動の時代であり、1918年オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家の紙幣や切手、国章のデザインが彼に依頼されました。
その後、1939年ナチスドイツによって、チェコスロバキア共和国が解体されると、彼は反ナチスと見なされ逮捕されます。厳しい尋問を受けた彼は、当時78歳の高齢だったこともあり、その後間もなく息を引き取りました。
優美で華やかな女性、風になびく豊な髪、流れるような衣装、装飾的なモチーフが特徴で、そのデザインは世紀末を輝かせ、当時の芸術家の模範とされました。
現代でも「ミュシャ・スタイル」としてその装飾様式は愛され続けています。
なお、ミュシャの挿絵やイラストは、明治時代の文学雑誌『明星』において、挿絵を担当した藤島武二(ふじしまたけじ)(1867年~1943年)によって盛んに模倣されました。
下の画像は、藤島武二による与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙絵(1901年)です。
2.アルフォンス・ミュシャの作品
(1)JOB社の煙草
(2)「ジスモンダ」のポスター
(3)黄道十二宮
(4)夢想
(5)装飾パネル連作・四季
(6)スラブ叙事詩
(7)モエ・エ・シャンドン社のシャンパンのポスター
(8)ウェイバリー自転車の自転車のポスター