ヨーロッパで有名な女帝と言えば、イングランドとアイルランドの女王だったエリザベス1世(1533年~1603年)、ロシア帝国のエカテリーナ2世(1729年~1796年)、イギリスのヴィクトリア女王(1819年~1901年)などが頭に浮かびますが、マリー・アントワネット(1755年~1793年)の母でオーストリア女帝のマリア・テレジアも忘れてはならない存在です。
ではいったいマリア・テレジアとはどのような女性でどんな生涯を送ったのでしょうか?
1.マリア・テレジアとは
マリア・テレジア(1717年~1780年)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世(1685年~1740年)の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファン(1708年~1765年)の皇后にして共同統治者です。
オーストリア大公(在位:1740年~1780年)、ハンガリー女王(在位:同左)、ボヘミア女王(在位:1740年~1741年、1743年~1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られています。
オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代から正式に、夫の家名「ロートリンゲン(ロレーヌ)」との複合姓(二重姓)で、「ハプスブルク=ロートリンゲン家」となりました。
彼女はハプスブルク家の家領を継承し、プロイセンのフリードリヒ2世と「オーストリア継承戦争」を戦い、敗れてシュレジェンを割譲しました。しかし次に「外交革命」によってフランスと結び、再び「七年戦争」で戦いました。
多民族国家であるオーストリア帝国の中央集権化を図るなど、事実上の女帝としてオーストリアを統治しました。
2.マリア・テレジアの生涯
(1)生い立ちと幼少時代
1717年、彼女はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネ(1691年~1750年)の長女として誕生しました。
彼女は母親譲りの美貌を持ち、市民からの人気も高かったということです。
それまで「ハプスブルク家」(*)は、「サリカ法」に基づく「男系相続」を定めていました。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのも彼女と妹のマリア・アンナ(マリアンネ)だけだったことから、「後継者問題」が表面化してきます。
(*)「ハプスブルク家」とは、結婚政策を駆使して神聖ローマ皇帝となり、中世ヨーロッパ最大の君主となった名門貴族の家柄です。
愛と美と性を司るギリシャ神話の女神アプロディーテー(ヴィーナス)と、トロイア王家のアンキーセースとの間に生まれ、古代ローマ建国の祖となったアイネイアースの子孫は「ユリウス氏族」と呼ばれ、ユリウス・カエサルをはじめとする古代ローマ随一の名門貴族となりましたが、ハプスブルク家はこの「ユリウス氏族の末裔」で、スイス北東部の地方貴族が発祥です。
中世以来、神聖ローマ皇帝位を継承した有力な家系で、スイスからオーストリアに侵出し、ドイツ王の地位を兼ね、ネーデルランド、ブルゴーニュ、スペイン、ボヘミア、ハンガリーなどヨーロッパの広大な領土のほか、新大陸にも支配地を持ちました。
また、フランスのヴァロア、ブルボン家、プロイセンのホーエンツォレルン家などと激しく覇権を競いました。第一次世界大戦まで存続しましたが、敗戦によって消滅しました。
(2)ハプスブルク家の相続問題
<ホーフブルク宮殿>
<シェーンブルン宮殿>(夏の離宮)
彼女の結婚については、オイゲン公はバイエルンとの縁組を勧め、在ベルリンのオーストリア大使やカール6世の侍従長らはプロイセン王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世・大王)との縁組を推薦しました。
しかし「ロートリンゲン(ロレーヌ)家」は、「第二次ウィーン包囲」においてオスマン帝国を敗走させた英雄カール5世(シャルル5世)の末裔で、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことからカール5世の孫との縁組が決定しました。
1736年に彼女はフランツ1世シュテファンと結婚しました。結婚に際してフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るために、ロートリンゲン(ロレーヌ)公国をフランスへ割譲しなければならず、代わりにトスカーナ大公の地位を得ました。
1740年に彼女は、父カール6世の定めた「プラグマティッシェ=ザンクティオン」(ハプスブルク家の家督相続法)によって、ハプスブルク家の家督を相続し、オーストリア大公妃兼ボヘミア王、ハンガリー王に即位しました(在位1740年~1780年)。
オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべき」という進言を退けて、父カール6世は「プラグマティッシェ=ザンクティオン」(ハプスブルク家の家督相続法)を出して、国内及び各国に彼女の「ハプスブルク家世襲領の相続」を認めさせたのです。
なお、女性が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のフランツ・シュテファンを就かせました。
彼女とフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満で、結婚後4年のうちに3人の大公女が誕生しました。
しかし「反オーストリア諸国」の煽動もあってフランツは批判を受けるようになりました。1737年にフランツはトスカーナ大公となり、1739年1月に夫妻でトスカーナを訪問しています。フランツは同地の財政を立て直し、以後オーストリアの財政基盤となりました。
(3)オーストリア継承戦争
相続問題の見通しの甘さは、1740年のカール6世の崩御後すぐに露呈します。周辺諸国はカール6世の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」とする「プラグマティッシェ=ザンクティオン」(ハプスブルク家の家督相続法)を公然と無視して、娘の相続を認めず領土を分割しようと攻め込んできます。
1740年に彼女がハプスブルク家の家督を相続し、オーストリア大公妃などに即位すると、プロイセン王国の国王フリードリヒ2世はその相続の条件としてシュレジェンの割譲を要求しました。
さらにバイエルン公カール=アルブレヒトは神聖ローマ皇帝位を望み、フランスのブルボン朝ルイ15世も同調し、オーストリアに対して開戦しました。これが「オーストリア継承戦争」(1740年~1748年)です。
開戦すると、プロイセン軍がオーストリア領内に進撃し、シュレジェンを占領しました。オーストリアに対しては、フランスと対立していたイギリスが支援しましたが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はありませんでした。
窮地に立った彼女は乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いて1741年9月11日にハンガリーに赴き、ハンガリー国王として国会に登壇し、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに「協力して抵抗すること」を呼び掛けました。
その結果、プロイセンとの戦いを互角で乗り切り、シュレジェンは失ったものの、他の家督相続は認められました。
また、神聖ローマ帝国皇帝の地位は、1742年にバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家)カール7世が選出されていましたが、1745年には彼女の夫・ロートリンゲン家のフランツ1世が即位しました。
「オーストリア継承戦争」は、1748年に「アーヘンの和約」で講和となりましたが、シュレジェンの奪回は果たせませんでした。
(4)改革と外交革命
敗戦後、「シュレジェン泥棒」であるプロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジェンの奪回をめざした彼女は、ハウクヴィッツを登用しての内政改革やダウン将軍による軍制改革に乗り出し、宰相カウニッツの補佐によって国力の回復に努めました。
外交では、フランスのブルボン家と結び、さらにロシアとの関係を強めてプロイセンを孤立させることに成功しました。先の戦争で、敵はフランスではなく、プロイセンであることが明白になり、英国との利害関係も一致していなかったからです。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世以来長期にわたって敵対していたフランスと手を結んだことは、当時非常な驚きをもって迎えられ、「外交革命」と呼ばれました。これを画策したのはオーストリアの宰相カウニッツとルイ15世が寵愛したポンパドゥール夫人でした。
彼女は個人的には「フランスの閨閥政治」を嫌悪していましたが、多額の資金を使い、ポンバドゥール夫人を通じて国王ルイ15世を懐柔しました。
彼女と同様にフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝(1709年~1762年)とは、難なく交渉がまとまりました。しかし交渉地がウィーンとサンクトペテルブルクの中間地のザクセンのドレスデンだったため、プロイセンは両国の接近を察知しました。
プロイセンは先手を打って1756年1月16日にイギリスと「第4次ウェストミンスター条約」を結びました。そこでついにオーストリアとフランスは5月1日に「ヴェルサイユ条約」をもって同盟を結びました。
こうして作られた「プロイセン包囲網」は、マリア・テレジア、エリザヴェータ女帝、ポンパドゥール夫人という3人の女性にちなんで、「3枚のペチコート作戦」とも呼ばれます。
またこれに伴い、生後間もないマリー・アントニア(マリー・アントワネット)とルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との婚約も内定しました。
(5)七年戦争
上の画像は「七年戦争」の有名な戦いを描いた絵画で、左上から時計回りに「プラッシーの戦い(1757年6月)」「カリヨンの戦い(1758年7月)」「ツォルンドルフの戦い(1758年8月)」「クネルスドルフの戦い(1759年8月)」です。
「プロイセン包囲網」の成立を知ったプロイセンのフリードリヒ2世は愕然とし、包囲網を打破すべく1756年に先制攻撃を仕掛けました。これが「七年戦争」(1756年~1763年)です。
オーストリア軍は今回は十分な準備を終え、しかもフランス軍とロシア軍の支援を受けて優位に戦いました。一方プロイセンを支援したのはイギリスでしたが、イギリスはアメリカ大陸とインドにおいてフランスとの激しい植民地戦争を展開していましたので、ヨーロッパ大陸に関与する余裕がありませんでした。
こうしてフリードリヒ2世は絶体絶命の危機に陥りましたが、1762年にロシアのエリザヴェータ女帝が死去し、後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世贔屓だったため、対プロイセン戦線から脱落しました。その結果、フリードリヒ2世は息を吹き返しました。
また、イギリスとフランスの「フレンチ=インディアン戦争」でもイギリス優位になったことを受けて、1763年2月15日に講和条約の「フベルトゥスブルク条約」が締結され、プロイセンのシュレジェン領有が確定しました。
(6)夫の死去と息子ヨーゼフ2世との共同統治
1764年3月、かつて帝位をヴィッテルスバッハ家(バイエルン系)のカール7世に奪われた経緯から、長男のヨーゼフをローマ王(ローマ皇帝の後継者)に推挙し、可決されました。
1765年8月に夫のフランツ1世が死去して以降は息子のヨーゼフ2世(1741年~1790年、在位:1765年~1790年)が皇帝となり、彼女の共同統治者としての地位は続きました。
彼女は息子ヨーゼフを愛していましたが、その開明的な姿勢に不安を感じ、実権を与えませんでした。ヨーゼフ2世はヴォルテールやルソーなどの啓蒙思想に関心を持ち、フリードリヒ2世に近い考えを持っていたからです。
ヨーゼフ2世がフリードリヒ2世に持ち掛けられた「ポーランド分割」に加わろうとした時は、頑強に反対しましたが、最終的には折れてヨーゼフの判断に従いました。
また、婚姻政策にはその後も熱心で、娘のマリー・アントワネットをフランスの王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)の妃に送ってフランスとの関係を維持しようとしました。
3.マリア・テレジアにまつわるエピソード
(1)16人の子宝に恵まれる
1736年に彼女はフランツ1世シュテファンと結婚しました。夫妻の仲はすこぶる円満で、16人の子宝に恵まれています。
これは父カール6世が後継者問題で悩み、彼女自身もハプスブルク家の家督相続問題でプロイセンなど諸外国からの干渉に直面し、戦争にも巻き込まれたため、できるだけ子供を産もうと考えていたからとも言われています。
なお、ルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットのことを心配して何度も手紙を出していますが、1793年にマリー・アントワネットがフランス革命の嵐の中で断頭台の露と消える前の1780年に彼女が亡くなったのはせめてもの救いかもしれません。
(2)実質的な「女帝」
彼女は厳密には「女帝」ではありません。彼女はオーストリア大公(形式的には「大公妃」)であり、ハンガリー国王とボヘミア国王を兼ねていたというのが正しいのです。
また、その期間は1740年~1780年の40年間にわたる長期間でしたが、その前半の1740年~1765年は夫のフランツ1世(ロートリンゲン公、後にトスカーナ大公)、後半の1765年~1780年は息子のヨーゼフ2世がその「共同統治者」でした。
彼女自身は女性であったため神聖ローマ皇帝にはなれず、夫のフランツ1世が皇帝となっています(1745年~1765年まで)。
フランツ1世の死後はヨーゼフ2世が皇帝となりました。なお、神聖ローマ皇帝は形式的には依然として選帝侯による選挙で選ばれました。
したがって、彼女は形式的には「帝妃」、そして「帝母」という立場に過ぎませんでした。しかし夫のフランツは政治にあまり関心がなく、息子のヨーゼフには政治を任せきれないと彼女は考えていましたので、実際に帝国を切り盛りしたのは彼女であり、「実質的には神聖ローマ皇帝であった」と言うことができます。
(3)ハンガリー国王として国会で協力を呼び掛けた言語は「ラテン語」
「オーストリア継承戦争」の時、窮地に立った彼女は乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いて1741年9月11日にハンガリーに赴き、ハンガリー国王として国会に登壇し、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに「協力して抵抗すること」を呼び掛けました。
彼女の母国語はドイツ語ですが、この時の言語は、「ラテン語」でした。
ドイツ語でもハンガリー語でもなく、当時国際的な外交で使われていたイタリア語でもなく「ラテン語」だった理由は、当時ハンガリーの公用語が「ラテン語」だったからです。
当時のハンガリーでは、公文書がラテン語で書かれたのはもとより、議会演説もラテン語で行われていました。
当時ラテン語は「古典の共用語」として広く学ばれており、また国際的な学術用語でもあって、大学ではまだ講義も多くはラテン語で行われていました。
ただ18世紀に国の公用語がラテン語というのは他にあまり例がありません。その理由は、ハンガリーの複雑な歴史と民族(言語)構成から、国の共通公用語としてラテン語が適していたためです。