前に「平家物語は誰が何の目的で書いたのか?また、どのようにして流布したのか?」という記事を書きましたが、『今昔物語集』についても同様の疑問が湧いてきました。
しかし『平家物語』の作者については、吉田兼好(兼好法師)が書いた『徒然草』でも言及されているのに対して、『今昔物語集』についてはそのような書物がないため、あくまでも推測の域を出ませんが、私なりに推理してみたいと思います。
1.『今昔物語集』とはどういう物語か?
芥川龍之介の小説『鼻』や『羅生門』は、『今昔物語集』から着想を得たものです。特に『鼻』は、夏目漱石に激賞され彼の出世作となりました。
『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)は、平安時代末期に成立したと見られる説話集で、1059話(ただし、本文を欠くものが19話あり)を収録しています。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けています。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっていることに由来する便宜的な通称です。
仏教史・霊験譚・因果応報譚が多いですが、俗世界の話柄も豊富です。俗語をまじえた自由な和漢混淆(こんこう)文で書かれ、登場人物も貴族・僧・武士・農民・医師・遊女・盗賊・乞食から、鳥獣・妖怪変化にまで及んでいます。
ちなみに天皇の話も出てきます。奇行をもって世上に話題を提供した(庶民に親しみ深い)花山天皇が2回、いかがわしい噂のあった陽成天皇が1回出てきます。ただし、いずれも話の主役は名もなき庶民です。
11世紀後半に起こった大規模な戦乱である「前九年の役」(1051年~1062年)、「後三年の役」(1083年~1087年)に関する説話を収録しようとした形跡が見られる(ただし後者については説話名のみ残されており、本文は伝わっていません)ことから、1120年代以降の成立であると推測されています。
一方、『今昔物語集』が他の資料で見られるようになるのは1449年のことです。 成立時期はこの1120年代~1449年の間ということになりますが、「保元の乱」(1156年)、「平治の乱」(1160年)、「治承・寿永の乱」(1180年~1185年)など、12世紀半ば以降の年代に生きた人ならば驚天動地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていません。
したがって上限の1120年代からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られています。成立とほぼ同時期の写本と考えられる鈴鹿家旧蔵本(鈴鹿本、国宝)の綴じ糸について「放射性炭素年代測定」を実施した結果も、最も古いもので1000年から1200年の年代を示しており、成立年代を裏付ける結果となっています。
『今昔物語集』は、当時考えられる全世界(インド・中国・日本)を説話によって描き出し、すべての事柄とできごとに統一と秩序を与えようとする試みでした。その構想は、古代末期の価値観の動揺、社会的行き詰まりが、意識的にも無意識的にも影響して生まれたと考えられています。説話の舞台は中央から辺境に及び、登場人物も国王や貴族から下層の老若男女、妖怪(ようかい)、動物と多様です。
編者はおおむね旧(ふる)い価値観に立ちながらも、従来の文学が目を向けることのなかった新しい世界を取り上げ、とくに、山林修行民間布教の聖(ひじり)、武士、盗賊などの精神と行動を具体的に描き出しています。
したがって、その文学精神は古代的であると同時に、中世文学の出発を予感させる作品ともなっています。また、即物的な漢字片仮名交じり文体は、叙情や人間の微妙な内面を表現するには適していませんでしたが、非伝統的、非貴族的な対象に対しては十分効果を発揮しています。『平家物語』などの和漢混交文の先駆とみなされています。
(1)構成
天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部構成となっています。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっています。
インドの説話を集めた「天竺部」では釈迦の誕生と生涯、釈迦が説いた説法、衆生教化と入滅、釈迦入滅後の弟子たちの活動、釈迦の前世の話などが収められています。
「震旦部」は中国の説話が集められたものです。中国への仏教渡来、流布の歴史、大般若経、法華経の功徳、霊験譚に加えて、孝子の説話や中国の史書や小説に見られる物語なども含まれています。
日本は「仏法部」と「世俗部」に分かれていて、「仏法部」では日本への仏教渡来、流布の歴史、法会の縁起や功徳、法華経の功徳、霊験譚、僧侶の往生譚、観世音菩薩、地蔵菩薩の霊験譚、世俗の人の出家往生、天狗や冥界との往還に関する説話などを収録しています。
「世俗部」では藤原氏の列伝や芸能譚、武士の活躍、妖怪変化の類、歌物語や恋物語にいたるまで多岐にわたる説話が収められてます。
仏教にまつわる話が中心ですが、そこにとどまらずさまざまなジャンルの物語を収録しているのが特徴です。
いくつかの例外を除いて、それぞれの物語はいずれも「今昔」(「今は昔」=「今となっては昔のことだが、」)という書き出しの句で始まり、「トナム語リ傳へタルトヤ」(「と、なむ語り伝えたるとや」=「〜と、このように語り伝えられているのだという」)という結びの句で終わります。
その他の特徴としては、よく似た物話を二篇(ときには三篇)続けて紹介する「二話一類様式」があげられます。
(2)原話
『今昔物語集』に採録されている説話は、『宇治拾遺物語』や『古本説話集』、『宇治大納言物語』などにも採録されており、互いによく似ています。
共通する説話の数は『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』間では81、『今昔物語集』と『古本説話集』の間では31、『宇治拾遺物語』と『古本説話集』の間では22に上ります。
大多数は互いによく似ており、中には一言一句一致する場合さえあります。したがって、『宇治大納言物語』を除くこれらの3書がそれぞれに取材した資料が同じであったか、そう言ってもよいほど近い関係にあったことを示しているように思われます。
『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』と『古本説話集』の3書が取材した資料は、散逸した『宇治大納言物語』(11世紀に成立)ではないかとも考えられます。ただし、その証拠は何もありません。
『宇治大納言物語』の名は南北朝時代(1336年~1392年)を境に急に見られなくなります。南北朝時代以降は文献にこの名が記されていても、実体は『宇治拾遺物語』や『小世継』であると推定できます。『宇治大納言物語』はおそらく南北朝の戦乱か応仁の乱のころに散逸してしまい、その書名だけが他の作品と混同されるようになったようです。『宇治大納言物語』がこの世から消え去った頃、奇しくも『今昔物語集』が文献の上に初めて姿を現わしてきます。
本朝世俗部の話には典拠の明らかでない説話も多く含まれています。
(3)文体
原文(鈴鹿本)は平易な漢字仮名交じり文(和漢混淆文)(ただし、ひらがなではなくカタカナ)で書かれ、その文体はあまり修辞に凝らないものです。一方、オノマトペ(擬態語)の多用などにより、臨場感を備えています。芥川龍之介は『今昔物語鑑賞』で、「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評しています。
極力、どの地域の、何という人の話かということを明記する方針で書かれ、それらが明らかでない場合には意識的な空欄を設け、他日の補充を期す形で文章が構成されています。
例えば、典拠となった文献で「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という書き出しから始まる説話があり、その人名が具体的には伝わっていない場合であっても、その話を『今昔物語集』に収録する際には「今ハ昔、 ノ国ニ トイフ人アリケリ」という形で記述され、後日それらの情報が明らかになった場合には直ちに加筆できる仕様になっています。
このような編纂意図から発生した意識的な欠落部分が非常に多いのが、本説話集の大きな特徴です。
2.誰が何の目的で書いたのか?
(1)作者(編者)(私の個人的推測)
井澤長秀(肥後細川藩士、国学者、関口流抜刀術第三代)は、『今昔物語』の作者を『宇治大納言物語』の作者ともされている源隆国としました(『考訂今昔物語』)が、現在では否定説が有力です。『鳥獣人物戯画』を書いたと言われる鳥羽僧正覚猷(1053年~1140年)が作者だとする説もあります。
「作者」というか、多くの説話を収集してこの『今昔物語集』を編纂した「編者」は複数ではなく、一人の僧侶(たぶん鳥羽僧正)で、源隆国作の『宇治大納言物語』をベースにして、長い年月をかけてさらに多くの説話を追加収集して纏めたのではないかと私は思います。
もちろん、説話収集作業の手伝いをした複数の人間はいたかもしれません。
ただし「説話の収集」といっても、日本各地の説話を聞き書きをしたわけではなく、あくまでも基本的には「文献資料」に残る説話を調べて纏めたものです。
中国の仏教説話集『三宝(さんぼう)感応要略録』『冥報記(めいほうき)』『弘賛法華伝(ぐざんほっけでん)』および船橋家本系『孝子伝』、日本の『日本霊異記(りょういき)』『三宝絵詞(さんぼうえことば)』『日本往生極楽記』『本朝法華験記(ほっけげんき)』『俊頼髄脳(としよりずいのう)』が主要な確実な資料です。
また、現在伝わらない源隆国(みなもとのたかくに)(*)作の『宇治大納言(うじだいなごん)物語』や、いくつかの仏教説話集も有力な資料となったと考えられています。こうして、本書は、それまでの説話集のさまざまの系統を集大成するものとなっています。
(*)源隆国(1004年~1077年)は、平安時代後期の公卿で、醍醐源氏、大納言源俊賢の子です。幼名は宗国。官位は正二位権大納言で、「宇治大納言」と称されました。豊富な逸話の持ち主で、奇行や暴露癖があったことが知られています。宇治平等院南泉坊で往来の人々に物語を語らせ、これを書き留めて説話集をつくったということです。
(2)執筆動機と目的(私の個人的推測)
仏教の布教を主目的とした「法話」ではなく、「仏教説話」を含めた「昔から伝わる面白い話」を後世に残し、広く知ってもらう目的で纏めたのではないかと思います。
執筆動機は、当時も「昔話」「説話集」の類はありましたが、多くの書物に分散して記載されているため、読者の便宜のためにこれを一つの書物にまとめて「説話集の集大成」としたいということだったのではないかと思います。
あくまでも「昔話」の収録を目的としているため、「執筆時期に近い戦乱などの歴史的事件にまつわる説話」は意識的に取り上げていません。これは「戦記物語に任せる」という立場のようです。
3.どのようにして流布したのか?
(1)書写(写本)
(2)活版印刷の本
「流布」といっても、『平家物語』のように琵琶法師の語りなどによって広く知られたわけではありません。
伝本のほとんどが江戸時代の「書写」(写本)で、それらはすべて、鎌倉時代中期を下らない「鈴鹿本」を祖本としますので、中世にはほとんど流布しなかったようです。中世文学に直接的な影響を与えた形跡もありません。
江戸時代に本朝部世俗篇の一部が刊行されています。近代に入って、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)がその説話を素材に『鼻』『羅生門(らしょうもん)』『芋粥(いもがゆ)』などの小説を書き、そのころからようやく文学的価値が注目されるようになりました。
現存する『今昔物語集』の写本は、「鈴鹿本」がもとになっています。「鈴鹿本」は1833年(天保4年)には「奈良人某」、1844年(天保15年)には神官・国学者の鈴鹿連胤(すずかつらたね)(1795年~1871)の所有であり、この時期に国学者の伴信友(ばんのぶとも)(1773年~1846年)が調査して、諸本の祖本であることを指摘しています。
ちなみに鈴鹿連胤は、古典書写や蔵書家として非常に有名な人物で、曽孫の鈴鹿三七も蔵書家として有名です。
この『今昔物語集』の写本は、連胤以前から鈴鹿家に伝来したものではなく、鈴鹿家で書写したものでもなく、奈良の某家に長らく秘蔵されていたものを、鈴鹿連胤が購入したことが判明しています。
その後、鈴鹿家に伝えられ、1920年(大正9年)、鈴鹿三七の『異本今昔物語抄』という小冊子によって世に知られました。最終的に、1991年、子孫から京都大学付属図書館に寄贈され、1996年6月27日に国宝に指定されました。
なお全31巻のうち、8巻・18巻・21巻が欠けているのは、書写のために貸し出したものが返却されなかったのか、あるいは火災や戦乱などによって散逸したのかもしれません。