有島武郎の「或る女」のモデルは佐々城信子で、国木田独歩の最初の妻だった!

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佐々城 信子

前に「『蒲団』で有名な自然主義作家田山花袋。モデルの男女の人生にも大きな影響!」「徳富蘆花はモデル小説・不如帰で悪者扱いした大山捨松に、危篤時まで謝罪せず。」という「モデル小説」の問題についての記事を書きましたが、有島武郎の小説「或る女」にも実在のモデルがいます。

1.有島武郎の小説「或る女」について

(1)「或る女」とは

或る女」(あるおんな)は、有島武郎が大正時代に発表した長編小説

自我に目覚めた明治の新しい女性早月葉子が、現実生活の中で生きる方向を失い、苦悩する姿を重厚なリアリズムで描いた有島武郎の代表作です。

1911年1月『白樺』の創刊とともに「或る女のグリンプス」(*)の題で連載を始め、1913年3月まで16回続きました。
(*)「グリンプス (glimpse) 」とは、ちらりとみること。一瞥(いちべつ)すること。また、その印象。

これは前半のみで、その後、後半を書き下ろしで「或る女」と改題して、1919年叢文閣から『有島武郎著作集』のうち二巻として前後編で刊行しました。

佐々城信子をモデルとしたものですが、結末は創作です。実際の信子は武井勘三郎との間に一女をもうけ、武井が亡くなったあとも日曜学校などをしながら71歳まで元気に生きました。

(2)「或る女」の登場人物とそのモデル

・早月葉子:佐々城信子

・木部孤笻:国木田独歩

・倉地三吉:武井勘三郎

・古藤義一:有島武郎

・木村貞一:森広(札幌農学校の二代目校長の息子で、有島も会員だった札幌独立キリスト教会の日曜学校長を務めたあと米国へ留学。農学校で同級生だった有島と米国で再会し、佐々城信子の話をした際には落涙したそうです

・早月親佐:佐々城豊寿

・五十川女史:矢嶋楫子

・田川夫妻:鳩山和夫・鳩山春子

・内田:内村鑑三

(3)「或る女」のあらすじ

まだ十代の頃に、作家の木部孤笻と恋愛し家族の反対を押し切り強引に結婚したが、木部の俗っぽさに失望して結婚を破綻させた早月葉子は、妖婦的性格を帯びた、恋多き美女だった。また彼女には木部との間に定子という幼い娘がいるが、それを木部に隠し、乳母に預けていた。

そしてその娘や妹たちを日本に残して、亡き母の示唆によって米国シアトル滞在中の実業家、木村貞一と結婚するためアメリカ行きの船に乗る。それは木村への愛というより、日本からの逃避、華やかなアメリカでの生活を夢見てのものだった。

見送りには木村の友人である古藤が同行してきて、恋多き女である葉子に、葉子の悪評を気にせず結婚しようとしてくれている木村のためにも良妻として改心するように忠告するが、葉子は内心嘲笑する。

葉子の母は女権拡張運動を行っており、葉子も新時代の女としての理想を持っていたが、美貌であり、女としての魅力もまた、男社会で成功するために利用して良いという考えを持っていた。だがそのために妖婦として悪評が募り、母の友人で、葉子がおじさまと慕っていた日本を代表するキリスト教指導者、内田にさえ見放されていた。

葉子は船内で葉子の世話を依頼されていた上流階級の貴婦人である田川夫人を嘲弄し、また岡という若く富裕だが、どこか気弱で初心な、留学生の青年などを魅了してたちまち田川夫人を押し退けて船中の社交の花形となる。

また婚約者を持つ身でありながら、野性的魅力を持つ、船の事務長倉地と恋におちてしまう。ただ彼には既に妻子がいた。葉子はシアトルで木村に会うと失望して、そのまま病気を口実に帰国の船で日本へ帰り、妻子のある倉地と生活をともにし始める。

倉地は葉子に妻子とは離縁したと言い、葉子を喜ばせる。二人は隠れ家で愛に満ちた二人だけの生活を送り、葉子は幸福を感じる。しかし、それが田川夫人の策動により新聞により報道され世間の非難を浴び、倉地は職を失い、葉子は親戚一同から縁を切られる。

窮した葉子は木村にアメリカから送金させ、それを倉地との生活費や自分の贅沢にあてる。木村は送金の度に葉子への愛を書き連ねた手紙を送ってきた。木村は倉地と葉子の関係を勘づいていながら、自身のキリスト教道徳と葉子への未練から葉子に送金し続けるが、葉子は送金だけさせ返事も書かなかった。

だがそれでも次第に倉地の失業と葉子の贅沢により、二人の生活は窮迫していく。また葉子は倉地が自分に飽きつつあるのではとの恐怖に襲われだす。そこで葉子は妹の愛子と貞世を寄宿舎から引き取り生活に活気を出そうとする。

またそこに船中で知り合った岡が訪ねてくる。岡は葉子の帰国を知り、葉子に会うために留学を取りやめて自分も帰国してきたのだった。二人は再会を喜びあい、それから岡は度々遊びに訪ねてくるようになった。

だがこの頃生活に窮した倉地は友人である正井などと共に、船員時代に築いた海軍軍人などとのコネを駆使し、海軍の機密情報を集めては外国に売るという売国的手段で生計を立てるようになっていた。

葉子は衝撃を受けるが、自分のために倉地がそこまで身を落としたことに倉地の愛を感じ、自分への誇りを感じた。だがそこに徴兵され軍営にいた古藤が訪ねてきて、木村を利用している葉子を責める。

葉子は古藤の言葉を幼いと思いつつ、核心をついた批判に罪悪感を感じる。また葉子は子宮の病によって次第に体を蝕まれつつあった。その上、倉地が妻子とまだ別れていないのではないか、他に愛人がいるのではないか、自分の妹の愛子とも関係しているのではなどの病的な妄想と猜疑心に取り憑かれるようになる。

さらに病により衰えていくように思われる自分の容姿にひきかえ、日々美しくなっていく妹たちに次第に嫉妬と憎悪の念を抱くようにさえなる。特に以前から自分に反抗的かつ倉地のお気に入りであり、自分への岡の愛を奪ったように感じられる愛子には辛く当たるようになる。

また倉地の仕事もだんだん破綻しだし、正井から葉子は脅迫され金を奪われるようにさえなる。さらに貞世が腸チフスで入院するにあたり、葉子の錯乱は頂点に達し、貞世と倉地に暴行まで振るうに及び、葉子は入院させられてしまう。

そのすぐ後、倉地までが失踪し、愛子や岡も見舞いに来なくなり、葉子は倉地への激しい執着を抱いたまま手術後の疼痛に苦しむのであった。

(4)「或る女」の評価

発表当時は、「モデル小説」であり通俗的であるとして評価されませんでしたが、戦後になって、日本近代に珍しい本格的純文学として評価されるようになり、1970年以降、のちコロンビア大学教授となるポール・アンドラが博士論文の主題とし、フェミニズム批評の対象ともなりました。

文芸評論家の本多秋五は「日本のリアリズム文学の最高作品」と評しています。

また文庫版などで広く読まれ続けていますが、結末を懲罰とする見方もあり、評価は一定していません。

2.「或る女」のモデル・佐々城信子とは

佐々城信子(ささき のぶこ)(1878年~1949年)は、国木田独歩の最初の妻で、有島武郎の小説「或る女」のモデルとなった女性です

医師・伊東友賢(のち佐々城本支)と星艶(のち佐々城豊寿)の間の私生児として生まれました。相馬黒光(*)は従妹です。

(*)相馬黒光(そうま こっこう)(1876年~1955年)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家です。相馬夫妻は彫刻家の荻原守衛のパトロンでしたが、彼女と荻原守衛との関係については「荻原守衛(荻原碌山)とは?人妻の相馬黒光への激しい恋情と苦悩が創作の原動力!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

青山女学校に学びますが、神戸女学院にも一時期のみ通い、田山花袋の小説「蒲団」のモデルとなった岡田美知代と面識がありました。

1895年(明治28年)、日本キリスト教婦人矯風会の主力メンバーであった母親が自宅で日清戦争の従軍記者を招いた晩餐会を開催したのをきっかけに、『国民新聞』紙上での従軍記『愛弟通信』で少し知られた国木田独歩に恋されて駆落ち同然に結ばれます。

しかし、独歩の貧困に耐えかねて、結婚後わずか5か月で出奔。離婚後の1897年(明治30年)に、独歩の子・浦子を出産しますが、父の娘として入籍された浦子は生後3週間で里子に出されます。

1901年(明治34年)父・本支が急死すると、農務省の農業練習生として米国留学中だった森 広との結婚のため鎌倉丸に乗りますが、船の事務長で妻子もある武井勘三郎と恋に落ち、シアトルへ到着後、そのまま同船で帰国しました。

この事件は『鎌倉丸の艶聞』として「報知新聞」に連載され、独歩はこれによって、信子が自分の子を産んでいたことを初めて知りました。

『鎌倉丸の艶聞』は、船中で女のバトルを繰り広げた鳩山春子(鳩山和夫の妻)の意趣返しで広められたようです。

ちなみに鳩山和夫(1856年~1911年)は東大教授や衆議院議員を務めた人物で、長男は鳩山一郎(元首相、弁護士)、次男は鳩山秀夫(東大教授、弁護士、代議士)で、鳩山威一郎(大蔵次官、外相を歴任)は孫で、鳩山由紀夫(元首相)・鳩山邦夫(元法相・文相)は曽孫です。

帰国後は武井と佐世保で旅館を経営し、そののち東京に戻って一女を儲けます。1921年(大正10年)に武井が亡くなったあとは、妹の看病のために栃木県真岡市に移り、第二次世界大戦中も日曜学校を開き、71歳で亡くなるまで静かに暮らしました。

真岡時代に一時暮らしていた建物が、岡部記念館「金鈴荘」として現存します。

1902年(明治35年)に鎌倉で信子の姿を見かけた独歩は短篇「鎌倉夫人」にそのことを描きます。独歩死去後公刊された「欺かざるの記」には、信子との恋の経緯が詳しく書かれています。

しかし実際には、結婚後に独歩は策を弄し、嫉妬から信子の外出を禁じ、一銭一厘にいたるまで支出を管理するという一方的なものでした。

信子と結婚予定だったものの武井勘三郎と駆け落ちされた森 広の友人だった有島武郎は、1911年(明治44年)から『白樺』に、信子をモデルとした「或る女のグリンプス」を連載し、後半を書き下ろして「或る女」として1918年(大正7年)に刊行、ヒロイン早月葉子が死んでしまう結末にしました。

信子は有島に抗議に行こうと思っていましたが、1923年(大正12年)、有島は『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と情死してしまいました。

3.有島武郎とは

有島武郎

有島武郎(ありしま たけお)(1878年~1923年)は、大正時代の小説家・評論家です。

学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受けます。1903年に渡米。ハバフォード大学大学院を経て、ハーバード大学で1年ほど歴史、経済学を学んでいます。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加します。

代表作に「カインの末裔」「或る女」や、評論「惜しみなく愛は奪ふ」があります。

1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で、中央公論社の『婦人公論』記者で愛人だった波多野秋子(1894年~1923年)(下の写真)と心中しました。

波多野秋子

(1)生い立ちと幼少時代

東京・小石川(現文京区)に旧薩摩藩郷士で大蔵官僚・実業家の有島武と妻・幸子の長男として生まれました。祖父の宇兵衛も同じく郷士でした。

4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移ります。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和女学校(現青山学院横浜英和小学校)に通います。この頃の体験が後に童話「一房の葡萄」を生むことになります。

10歳で学習院予備科に入学し、寄宿生として過ごし、19歳で学習院中等全科を卒業します。その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったということです。

(2)青年時代

内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年(明治34年)にキリスト教に入信します。農業学校卒業後に軍隊生活を送った後に1903年8月25日、横浜から渡米。

米国ではハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けます。

ヨーロッパにも渡り、1907年(明治40年)4月11日に帰国。この頃、信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れます。アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしましたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがありませんでした。

帰国後は再び軍務(予備見習士官)や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていましたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌『白樺』に参加します。

「かんかん虫」「お末の死」などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍しました。

(3)結婚と長男の誕生

1909年(明治42年)、東京にて陸軍少将の神尾光臣の次女神尾安子と結婚します。

1911年(明治44年)、札幌で教職を務めていた時、長男行光(ゆきみつ)(1911年~1973年)が誕生します。行光は後の俳優の森雅之(下の写真)です。

森雅之

(4)妻と父を亡くした後、本格的に作家生活に入る

1916年(大正5年)に妻・安子(肺結核により平塚の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入ります。「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「迷路」を書き、1919年(大正8年)には「或る女」を発表しました。

『中央公論』1918年7月に、新しき村を批判する評論「武者小路兄へ」を発表しました。

しかし創作力に衰えが見え始め「星座」を途中で筆を絶ちます。

(5)波多野秋子と知り合い、愛人関係となる

1922年(大正11年)「宣言一つ」を発表し、北海道狩太村(現ニセコ町)の有島農場を開放します。

1923年(大正12年)、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱きます(有島は妻と死別後は再婚せず独身を通しました)。

(6)秋子の夫にバレて脅迫を受け、心中する

ところが秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになります。そして1923年6月9日、2人は長野県軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げました。7月7日に別荘の管理人により発見されましたが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたということです。

複数残されていた遺書の一つには「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていました。

2009年(平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が札幌市にある「北海道立文学館」で一般公開されました。

辞世の歌は

・幾年の 命を人は 遂げんとや 思い入りたる 喜びも見で

・ 修禅する 人のごとくに 世にそむき 静かに恋の 門にのぞまん

・ 蝉ひとつ 樹をば離れて 地に落ちぬ 風なき秋の 静かなるかな

であるとされ、文芸評論家の唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられています(「自殺について」1950年(昭和25年))。

師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明しました。

北海道に縁が深いことから、北海道新聞社により「有島青少年文芸賞」という文学賞が実施されています。

なお、魯迅が紹介したことから中華人民共和国での知名度が高く、教科書にも掲載されて広く読まれています。

4.国木田独歩とは

国木田独歩

国木田独歩(くにきだ どっぽ)(1871年~1908年)は、明治時代の小説家・詩人・ジャーナリスト・編集者です。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。

幼名を亀吉、後に哲夫と改名しました。ペンネームは独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。

田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心しました。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされます。

また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。ロシア語などへの翻訳があります。

(1)生い立ちと幼少時代

1871年8月30日、旧龍野藩士・国木田専八と淡路まんの子として、千葉県銚子に生まれました。ただし、母まんの連れ子説もあります。

1874年、専八はまんと独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えました。

1876年に、専八は司法省の役人となり、山口裁判所勤務のため山口に移住しました。その後、専八は中国地方各地を転任したため、独歩は5歳から16歳まで山口、萩、広島、岩国などに住みました。

少年期、学校の成績は優秀で読書好きである反面、相当な悪戯っ子でした。喧嘩の時に相手を爪で引っ掻くことから「ガリ亀」と渾名されたそうです。自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられます。

錦見小学校簡易学科、山口今道小学校を経て、山口中学校(現:山口県立山口高等学校)に入学。同級の今井忠治と親交を結びました。

(2)青年時代:学生と教師生活

1887年、学制改革のために山口中学を退学すると、父の反対を受けつつも今井の勧めで上京。翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学しました。

吉田松陰や明治維新に強い興味を持ち、学生運動にも加わりました。しかし徳富蘇峰と知り合いになり大いに影響を受けると、その後一転して文学の道を志しました。

この年に処女作「アンビシヨン(野望論)」を『女学雑誌』に発表したほか、『青年思海』などの雑誌に文章を寄稿するようになります。

さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝します。1889年7月10日、「哲夫」と改名。1890年9月には英語政治科へと転科しました。

ワーズワースやツルゲーネフ、カーライルなどを好みました。1891年1月4日に植村正久より洗礼を受けました。この年、学校改革と校長・鳩山和夫への不信のために同盟休校を行ない、間も無く退学しました。

同年、麻郷村(現・山口県熊毛郡田布施町)の家族が移り住んでいた吉見家に身を寄せ、釣りや野山の散策をしてしばらく過ごします。

月琴という弦楽器が上手で、月夜の晩によく奏でていたそうです。近所の麻郷小学校で英語の教鞭を執ることもありました。

吉田松陰の門弟で、狷介な老人として知られる富永有隣を訪ね刺激を受けて、廃校となった小学校の校舎を借りて波野英学塾を開設。弟の収二や近隣の子供を集めて英語や作文などを熱心に教えました。後に富永有隣をモデルとした「富岡先生」を著しています。

8月に田布施町麻里府村に仮住し、石崎家に家庭教師として出入りするうち、石崎トミと恋仲となりました。翌年トミに求婚しますが、トミの両親に反対されて思いを遂げられず、後、失意のうちに弟と共に上京しました。

独歩が余りにも熱狂的なクリスチャンだったことが原因とされます。その後「酒中日記」や「帰去来」など田布施を舞台にした作品を多数発表しています。

1892年2月から1894年の2年間、柳井に居住しています。1893年2月3日、没後に出版されることになる日記「欺かざるの記」を書き始めます。

同年、徳富蘇峰に就職先の斡旋を依頼。蘇峰の知人でジャーナリストの矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯市の鶴谷学館に英語と数学の教師として赴任し(1893年10月)、熱心に教育を行います。

しかし、クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌1894年7月末に退職します。佐伯滞在の初期に、独歩に同行して鶴谷学館に学んだ弟・収二とともに下宿したのは、館長・坂本永年の居宅でした。

(3)記者から文筆家へ、二度の結婚

1894年、『青年文学』に参加。民友社に入り、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となります。この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となります。

帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会の幹事 佐々城豊寿の娘・信子と知り合います。熱烈な恋に落ちますが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまいます。

信子は、母・豊寿から監禁された上、他の男との結婚を強要されたということです。独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、石狩川の支流である空知川の森林地帯に土地の購入を計画します。「空知川の岸辺」はこの事を綴った短編です。

1895年11月、信子を佐々城家から勘当させることに成功し、徳富蘇峰の媒酌で結婚。逗子で二人の生活が始まりましたが、余りの貧困生活に耐えられず帰郷して両親と同居します。

翌年、信子が失踪して協議離婚となり、強い衝撃を受けます。この顛末の一部は後に有島武郎によって『或る女』として小説化されました。

一方、信子側からの視点では、信子の親戚の相馬黒光が手記「国木田独歩と信子」を書いており、独歩が理想主義的である反面、かなり独善的で男尊女卑的な人物であったと記されています。

傷心の独歩は、蘇峰や内村鑑三にアメリカ合衆国行の助言を受けますが実現しませんでした。

1896年(明治29年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現・東京都渋谷区)に居を構え、作家活動を再開します。同年11月、田山花袋、松岡國男(のちの柳田國男)らを知り、1897年「独歩吟客」を『国民之友』に発表。さらに花袋、國男らの詩が収められた『抒情詩』が刊行されますが、ここにも独歩の詩が収録されました。5月、小説「源叔父」を書きます。なお、「欺かざるの記」の記述はこの頃までです。

1898年、下宿の大家の娘・榎本治(はる)と結婚します。治は、後に国木田治子(1879年~1962年)(下の写真)の名前で小説を発表し、独歩社の解体までを描いた「破産」を『萬朝報』に寄稿。『青鞜』の創刊にも参加しています。

国木田治子

(4)小説家・編集者として活躍

二葉亭四迷の訳「あひゞき」に影響され、「今の武蔵野」(後に「武蔵野」に改題)や「初恋」などを発表し、浪漫派として作家活動を始めます。

1901年に初の作品集『武蔵野』を刊行しますが、当時の文壇では評価されませんでした。さらに「牛肉と馬鈴薯」「鎌倉夫人」「酒中日記」を書きます。1903年発表の「運命論者」「正直者」で自然主義の先駆となりました。

これらの作品は後に、1905年に『独歩集』、1906年に『運命』と纏められて刊行され、高く評価されましたが、作品発表当時の文壇はまだ尾崎紅葉と幸田露伴が主流の、いわゆる「紅露時代」であり、時代に早過ぎた独歩の作品はあまり理解されず、文学一本では生計を立てられませんでした。

1899年には再び新聞記者として『報知新聞』に入社。翌年には政治家・星亨の機関紙『民声新報』に編集長として入社します。

編集長としても有能でしたが、すぐに星が暗殺され、1901年に『民生新報』を退社。再び生活に困窮して、妻子を実家に遣り、単身、その頃知遇を得ていた政治家・西園寺公望のもとに身を寄せます。その後、作家仲間の友人達と鎌倉で共同生活を行いました。

1903年には、矢野龍渓が敬業社から創刊を打診されていた、月刊のグラフ雑誌『東洋画報』の編集長として抜擢され、3月号から刊行開始します(龍溪は顧問)。

しかし、雑誌は赤字だったため、9月号から矢野龍溪が社長として近事画報社を設立し、雑誌名も『近事画報』と変更しました。

1904年、日露戦争が開戦すると、月1回の発行を月3回にして『戦時画報』と誌名を変更。戦況を逸早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮しました。

また派遣記者の小杉未醒の漫画的なユニークな絵も好評で、最盛期の部数は月間10万部を超えました。また、日露間の講和条約であるポーツマス条約に不満な民衆が「日比谷焼き打ち事件」を起こすと、僅か13日後には、その様子を克明に伝える特別号『東京騒擾画報』を出版しました。

それに先立つ1905年5月の日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後に備えて、培ったグラフ誌のノウハウを生かし、翌1906年初頭にかけて新しい雑誌を次々と企画・創刊します。

子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けに芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』などです。

多数の雑誌を企画し、12誌もの雑誌の編集長を兼任しましたが、日露戦争終結後に『戦時画報』からふたたび改題した『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きの良いものもありましたが、社全体としては赤字であり、1906年、矢野龍渓は近事画報社の解散を決意しました。

そこで独歩は、自ら独歩社を創立し、『近事画報』など5誌の発行を続けます。独歩の下には、小杉未醒をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマンも加わりました。

また、当時人気の漫画雑誌『東京パック』にヒントを得て、漫画雑誌『上等ポンチ』なども刊行。単行本としては、沢田撫松編集で、当時話題となった猟奇事件「臀肉事件」の犯人・野口男三郎の「獄中の手記」なども発売しました。

(5)病没

翌1907年に独歩社は破産。独歩は肺結核にかかります。しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命』が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になっていました。

神奈川県高座郡茅ケ崎村にあった結核療養所の南湖院で療養生活を送ります。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表し、1908年には見舞いのためのアンソロジーとして田山花袋、二葉亭四迷、岩野泡鳴らが『二十八人集』を刊行して励まそうとしますが、病状は悪化。

同年6月23日に38歳(満36歳)で死去しました。絶筆は「二老人」。戒名は天真院独歩日哲居士

葬儀は当時の独歩の名声を反映して、多数の文壇関係者らが出席し、当時の内閣総理大臣西園寺公望も代理人を送るほどの壮大なものでした。

友人の田山花袋は、独歩の人生を一文字で表すなら「窮」であると弔辞で述べています。なお、独歩の死後2か月後に次男が誕生しています。

遺骸は茅ケ崎で荼毘に付したたのち、東京市麻布区(現・東京都港区)の青山霊園に葬られました。

墓石の「独歩国木田哲夫之墓」の文字は田山花袋の揮毫によります。