前に「幸福感のパラドックス」という記事で、年を取ってからの方が楽しいと感じる人が増加していることをご紹介しましたが、昔の人はどのように老年期を過ごしたのでしょうか?
古典から繙(ひもと)いてみましょう。
老いに対して悲観的・否定的な考え方を持つ人々が多い一方、老いに対して楽観的・肯定的な考え方を持つ人々もいます。
1.老いに対して悲観的・否定的な考え方を持つ人々
(1)肥後
過ぎぬれば 我が身の老いと なるものを なにゆゑ明日の 春を待つらむ
年の暮れを包み込む暗黒、頭をもたげる憂鬱の正体それは「老い」だ。『過ぎてしまえば、またひとつ老いを重ねることになるものを、何が嬉しくて明日の春を待つのだろうか』。春、清々しい花々の世界。年という頂きを越え行けば、その懐かしい風景にまた出会える。しかしその山を越えるたび、無残に人は老いてゆく。そして最後に辿り着くのは死だ! 我々は熟考せなばならぬ、花との出会いに命を削っていることを。
肥後(生没年不詳)は、平安時代後期の歌人です。肥後守藤原定成の娘で、常陸守藤原実宗の妻となりました。
京極関白師実家に長く出仕しました。晩年は白河天皇皇女令子内親王に仕え、皇后宮肥後とも称されました。
院政時代の代表的女流歌人の一人で、堀河院艶書歌合・堀河百首・永久百首などに詠進。家集『肥後集』があります。
(2)小野小町
花の色は 移りにけりな 徒(いたずら)に 我が身世に経(ふ)る 詠(なが)めせし間に
桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
これは小野小町のあまりにも有名な歌です。
小野小町(825年?~900年?)は平安時代前期(9世紀ごろ)の女流歌人で、「六歌仙」「三十六歌仙」の一人です。「古今和歌集」の代表的歌人で、恋愛歌に秀作があります。
面影の 変はらで年の 積もれかし たとひ命に 限りありとも(小野小町伝承)
彼女には、絶頂を誇っていた若い頃の深草少将の「百夜通い(ももよがよい)伝説」のほかに、老いの過酷さや悲惨さを示す「卒塔婆小町(そとばこまち)伝説などの「七小町伝説」があります。
世の中の定めしは定めなく、定めなき事の定めありと、むばたまの夢に伝はりたることわり、明け暮れ思ひ捨つる言の葉、誰かは老いの坂を越えざらん。のがるるべき道もなし。(小町草紙)
ちなみに「小町草紙」とは、室町時代に成立した御伽草子です。近世になって渋川版御伽草子に収められ、普及しました。次のような内容です。
天性の美貌と和歌の才で浮名を流した小野小町が、年老いて見るも無残な姿となり、都近くの草庵に雨露をしのいでいた。里へ物乞いに出ると、人々は〈古の小町がなれる姿を見よや〉とあざける。彼女は東国から奥州へと流浪の旅を重ね、玉造の小野にたどりつき、草原の中で死ぬ。在原業平が歌枕の跡を訪ねて玉造の小野まで来ると、吹く風とともに、〈暮れごとに秋風吹けば朝な朝な〉という歌の上の句が聞こえてくる。
(3)在原業平
桜花 散り交ひ曇れ 老いらくの 来(こ)むといふなる 道紛(まが)ふがに
古今和歌集にある在原業平の歌です。
「桜花よ、散り乱れて空を曇らせておくれ。老いというものがやってくるだろうと聞いている。その老いのやって来る道が花びらで紛れて見分けがつかなくなってしまうように」という意味です。
在原業平(825年~880年)は、平安時代前期の歌人で、六歌仙、三十六歌仙の一人です。平城天皇の皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の子です。
余談ですが、「老いらくの恋」という川田順の有名な言葉がありますが、この在原業平の歌が念頭にあったのかもしれません。
古今和歌集には、ほかにも詠み人知らずの次のような歌があります。
・老いらくの 来むと知りせば 門さして なしと答へて 逢はざらましを
・とりとむる ものにしあらねば 年月を あはれあな憂(う)と 過ぐしつるかな
(4)陶淵明
一度しかない短い人生なので「若い時に楽しむこと」を勧めたのが陶淵明(365年~427年)です。
盛年重ねて来らず。一日再び晨(あした)なり難し。
時に及んでまさに勉励すべし。歳月人を待たず。
これは、陶淵明の「雑詩」で、一般には「勧学詩」と思われています。
しかし、私は高校生の時、漢文の先生から、「この詩は、実は勉強を奨励するものではなく、若い盛りの時代は二度と来ない。だから大いに遊んで人生を楽しもうという内容です。それは、人口に膾炙している上記の「最後の四句」ではなく、その前の「八句」を読めばわかります。」と教えられ、衝撃を受けた覚えがあります。
人生根帯(こんたい)なく 飄として陌上(はくじょう)の塵の如し
分散して風を追うて転じ これすでに常の身にあらず
地に落ちては兄弟となる なんぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
歓を得ればまさに楽しみをなすべく 斗酒比隣を集めん
現代語訳すると、次のようなものになるのだそうです。
「人生は、木の根や果実のへたのようなしっかりした拠り所がない。まるであてもなく舞い上がる路上の塵のようなものだ。
風のまにまに吹き散らされて、もとの身を保つこともおぼつかない。
そんな人生だ。みんな兄弟のようなもの。骨肉にのみこだわる必要はないのだ。
うれしい時は大いに楽しみ騒ごう。酒をたっぷり用意して、近所の仲間と飲みまくるのだ。
血気盛んな時期は、二度とは戻ってこないのだぞ。一日に二度目の朝はないのだ。
楽しめるときは、とことん楽しもう!歳月は人を待ってはくれないのだから!」
このように、「書物や詩などを引用する時などに、その一部分だけを取り出して、自分の都合のいいように変な解釈をこじつけること」を「断章取義」と言います。日本の野党が政府与党の発言の一部を切り取って曲解することがよくありますが、あれも「断章取義」です。
陶淵明と言えば、役人を辞めて故郷に帰り、田園生活を謳歌していることを詠った「帰去来の辞」で有名です。
しかし今考えると、忘憂の物(酒)を主題とした「飲酒二十首」や、「桃花源記」のような「理想郷」を詠んだ詩人なので、前半八句のような考え方を持っていたとしても、何の不思議もありませんね。
2.老いに対して楽観的・肯定的な考え方を持つ人々
(1)古代インドの「四住期」という思想
古代インドでは、人生を大きく四つに分けて、それぞれの時期(段階)ごとに、異なる目標や準則を定めていたそうです。(ヒンズー教のマヌの法典の「四住期」という考え方)
それは、解脱(げだつ)を最終目標として、「学生(がくしょう)期」(0~25歳)「家住(かじゅう)期」(25~50歳)「林住(りんじゅう)期」(50~75歳)「遊行(ゆぎょう)期」(75~100歳)の四つに、人生を分けて考えます。
「学生期」には学び、「家住期」には働き、家庭を作り、子供を育てます。
その次の「林住期」(「臨終期」ではありません。念のため)は、決して「隠退」とか「老後」というようなマイナスイメージの時期ではありません。
70代以降は「林住期」(老年を迎えて森や林に入り住んで静かに、人間とは何か、人生とは何かを考える時期)を経て「遊行期」(一切のしがらみから離れられる一番自由な時期で、一度きりの人生をしがらみや執着から離れて好きなことをやってよい時期)に入ります。
一度しかない人生です。静かに自分と向き合い、本当に自分のやりたいことは何かを自問自答し、それを存分に実行に移す時期ではないでしょうか?
言わば「人生のクライマックス」「黄金期」「収穫期」とも呼ぶべき時期です。
(2)世阿弥
「時分の花」を振り返らず「まことの花」を咲かせる
「秘すれば花」という言葉で有名な「風姿花伝」を著した能楽師・世阿弥(1363年~1443年)の言葉です。
散ってしまった「時分の花」を振り返る後ろ向きの生き方ではなく、積極的に「まことの花」を咲かせようとする前向きな人生のあり方は、まさに「スマート・エイジング」です。
私たちが「まことの花」を咲かせることは、年齢を重ねるにつれて物事の見方が深まり、視野が広がることで人生が豊かになって行くことを意味します。
スマート・エイジングの思想では、高齢期を「知的に成熟する人生の発展期」として積極的に受容します。世阿弥よりも、より積極的な高齢者観です。高齢者を社会的弱者とみなす従来の考え方の「パラダイムシフト」(革命的・劇的な大転換)とも言えます。
(3)貝原益軒
貝原益軒(1630年~1714年)の『養生訓』に次のような言葉があります。
老後は若き時より月日の早きこと十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年とし、喜楽して、あだに日を暮らすべからず。
これは「残された人生の時間を大切に生きる」「短くても充実した濃密な時間を生きる」という前向きの考え方だと思います。
(4)藤原敏行
老いぬとて などか我が身を せめきけむ 老いずは今日に あはましものか
「年を取ってしまったと、なぜ我が身を責めたりしたのだろう。老いるまで生きなかったら、今日のような良き日には出逢えなかっただろう。」という意味です。
藤原敏行(ふじわら の としゆき)(?~901年または907年)は、平安時代前期の貴族・歌人・書家です。
百人一首にある次の歌で有名です。
秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
(5)藤原良実
散らぬ間の 花の陰にて 暮らす日は 老(おい)の心も 物思ひもなし
「まだ散ってしまう前の桜の花の下陰で、花を見ながら過ごす日は、とかく物思いしがちな老いた我が身も、何の物思いもしないことだ」という意味です。
老年に至ると、いろいろと思い悩むことも増えてきますが、桜花の圧倒的な美しさの下では、自分のちっぽけな物思いなどすっかり忘れ去って時間を過ごしてしまうということでしょう。
これも老いの愉しみを歌ったものですが、日本人の桜花に寄せる思いの深さも窺わせます。
藤原良実(ふじわらのよしざね)(1216年~1270年)は、鎌倉時代の公卿で、「五摂家」のうちの二条家の始祖です。
(6)鴨長明
それ三界(さんがい)はただ心一つなり。心もし安からずは、象馬(ぞうめ)、七珍(しっちん)もよしなく、宮殿(くでん)・楼閣も望みなし。今、寂しき住まひ、一間(ひとま)の庵、みずからこれを愛す。
「そもそも三界と呼ばれる人間の世界は、ただ心の持ちよう次第だ。もし心が穏やかでなければ、象馬や七珍という宝も意味がない。楼閣や宮殿も不要のものだ。今、このわび住まい、それはわずか一間の小さな家であるが、私自身はこれを愛している」という意味です。
鴨長明(1155年~1216年)の有名な『方丈記』の一節です。
これは物質より心を重視した「清貧の思想」そのものです。
(7)吉田兼好
ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華の篇。此(こ)の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
「一人ともしびの下に書物を広げて、会うことのできない昔の人を友とすることは、とても慰められることである。文は文選の味わい深い巻々。白氏文集、老子、荘子、わが国の知識人たちの書いたものも、(今のものはともかく)昔のものは、味わい深いものが多い。」という意味です。
吉田兼好(1283年頃~1352年頃)の有名な『徒然草』13段です。
老いの愉しみの一つが読書です。若い頃に比べて目が悪くなり、読書が不自由になりますが、その反面、時間にはゆとりができ、長年の間読みたいと思っていて読めなかった長編小説や古典に挑戦することもできます。
「見ぬ世の人を友とする」というのは名言だと私は思います。
(8)良寛
形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
「自分が死んだ後の形見として、いったい何を残そうか。春には桜の花を、夏にはホトトギスを、そして秋には紅葉した美しい葉を残そう」という意味です。
まさに自然と一体となって生きた良寛の人柄を偲ばせる歌です。
子供と鞠遊びに興じたことで有名な良寛(りょうかん)(1758年~1831年)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家です。
(9)梁塵秘抄
遊びをせむとや生まれけむ。 戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ。 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ。
「遊びをしようとして生まれてきたのであろうか。あるいは、戯(たわむ)れをしようとして生まれてきたのであろうか。無邪気に遊んでいる子供のはしゃぐ声を聞くと、大人である私の身体までもが、それにつられて自然と動き出してしまいそうだ。」という意味です。
無心に戯れ、喜々として声をあげる子供の姿に、忘れていた童心を呼び覚まされた大人の感懐を詠んだ歌です。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、平安時代末期に編まれた歌謡集で、「今様歌謡」(当時の流行歌)の集成です。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作です。