ホトトギス派以外の俳人(その9)大須賀乙字:「新傾向俳句」の旗手

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大須賀乙字

高浜虚子渡辺水巴村上鬼城飯田蛇笏前田普羅原石鼎水原秋桜子阿波野青畝山口誓子高野素十山口青邨富安風生川端茅舎星野立子高浜年尾稲畑汀子松本たかし杉田久女中村汀女などの「ホトトギス派の俳人」については、前に記事を書きました。

このように俳句の世界では、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とする「ホトトギス派」が伝統的に一大勢力となっており、上記のように有名な俳人が多数います。

しかし、最初ホトトギス派に所属したものの後にホトトギス派を離脱した「元ホトトギス派」をはじめ、ホトトギス派に反発した「反ホトトギス派」、独自の道を歩んだ「非ホトトギス派」の俳人もいます。

そこで今回から、このような「ホトトギス派以外の俳人」を順次ご紹介していきたいと思います。俳句に興味をお持ちの方なら、名前を聞いたことのある俳人が必ず何人かいるはずです。

なお、日野草城加藤楸邨・中村草田男河東碧梧桐荻原井泉水種田山頭火尾崎放哉などの「ホトトギス派以外の俳人」については、前に記事を書いていますので、それぞれの記事をぜひご覧ください。

1.大須賀乙字とは

大須賀乙字

大須賀乙字(おおすが おつじ)(1881年~1920年))は、福島県出身の俳人・俳論家です。本名・績(いさお)。中学時代から俳句に親しみました。

2.大須賀乙字の生涯

大須賀乙字は、福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)に生まれました。父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒(おおすが いんけん)で、祖父は儒学者の神林復所(かんばやし ふくしょ)です。

福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て1904年に東京帝国大学文学部国文科に入学しました。

東大在学中の1905年に「東京日日新聞」の俳句選者となりました。

1908年には雑誌「アカネ」の俳句欄を担当し、同年発表した「俳句界の新傾向」で注目を集めました。

1909年に東大を卒業し、1910年に結婚しています。

東大卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任しました。

東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さ文才を評価され早くから「新傾向俳句」の旗手として嘱望されました

1911年には、荻原井泉水の「層雲」の創刊に河東碧梧桐とともに参加しました。しかし1912年に「層雲」の選者を辞しています。

『海紅』の河東碧梧桐に師事し、喜谷六花(りつか)・小沢碧童とともに「碧梧桐門の三羽烏」と称されました。

同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったのですが、「海紅堂事件」に端を発する海紅同人同士の内部対立により、1915年5月に離脱しました

のち臼田亞浪と俳誌『石楠』を発刊し、俳論家としても活動しましたが後に亞浪とも決別しました。

1920年、スペイン風邪と肋膜肺炎のため東京市小石川区高台老松町(現・東京都文京区目白台)の自宅にて死去しました。享年40。戒名は諦観院顕文清績居士。門下に伊東月草、金尾梅の門らがいます。

3.大須賀乙字の人物像

(1)俳論家

乙字俳論の初登場は1906年頃で、俳論家として名を高めたのは1908年、東大在学中に発表した俳句界の新傾向」です。

40歳で夭折したため俳論家としての活動期間は10年余りに過ぎませんが、碧梧桐の「無中心論」を始めとする新傾向俳句やのちの自由律俳句、新興俳句に大きな影響を与えました

後に《俳壇復古論》などを書いて伝統尊重の論陣を張りました

大須賀乙字は、かつて「層雲」の同志であった荻原井泉水の「季題無用論」に対して、「季題無用論などは其故に現代の文化のうは波に漂へる、物質主義的享楽的空想的技巧的生活を遂へる者の寝言であつて、成立の歴史を知らぬはやがて自然の要求を離れる所以で、ここに転がつて居る形式を訳もなく拾つたに過ぎないか、死骸を負うて走る者だ」と痛烈に批判しています。

(2)海紅堂事件

これは、1915年5月12日、かねてより意見対立の激しかった乙字と海紅同人、とくに中塚一碧楼を始めとする若手俳人とが海紅堂の句会で衝突した事件です。

以前から海紅本誌の選者欄を別枠で要求していた乙字に対して一碧楼らが拒否、対立激しい中での5月12日の句会において、出句に対して辛辣な論調の乙字に対し、20歳の青年、山口葉吉が激昂し、乙字の後頭部を茶碗で殴りつけて負傷させた傷害事件です。

碧梧桐が欠席した中での傷害事件でした。この件に関しては当時、海紅に出入りしていた芥川龍之介始め多数の作家、俳人が記録を残しています。これを機に乙字は海紅を離脱、一方の葉吉はのちに海紅の編集委員となっています。

(3)飯田蛇笏による人物評

『ホトトギス』1919年12月号に掲載された飯田蛇笏の大須賀乙字に対する人物評があります。

海紅堂事件以降、高浜虚子とホトトギス派に擦り寄った乙字を批判した文章です。

乙字の俳論に比べて俳句の稚拙な出来栄え、海紅堂事件をきっかけに、碧梧桐の弟子になったことはないと言い出した不義理、学歴や教師という立場からの傲慢な態度、そして“虚子君”と呼んでいたはずの虚子を、海紅堂事件以降、“虚子先生”と呼びホトトギスに擦り寄る手紙を出したことなどを挙げて批判しています。

また海紅堂事件に関しても、「君の性癖が出て葉吉君の爲めに大いに鐵拳を頂戴された」「決して乙字君の方へ同情することは出來なかつた」「君の態度が餘りに傲慢不遜であり傍若無人であるからである」と書いています。

4.大須賀乙字の俳句

飯蛸

<春の句>

・飯蛸の 飯より多し 遊ぶこと

・野遊びや 肘つく草の 日の匂い

・佐保姫の たぶさの風か 少しづゝ

・泣つきて ゆかしくわゐは 何の玉

<夏の句>

・夜雨しばしば 照り極つて 秋近し

・花光る 水際(みぎわ)の草や 蛇の衣(きぬ)

・富士暮るゝ 迄夕汐を 浴びにけり

・古妻や あやめの冠(かぶり) 着たりけり

・あぢさゐや 仕舞のつかぬ 昼の酒

・夏霧に ぬれてつめたし 白い花

・待もせぬ うちそひさこの 花も咲(さき)

・我庭に 育ちし子鴨(こがも) とびにけり

・鳩の中 はしり過たる 鹿(か)の子かな

・戸あくれば けさの影さす あやめかな

・とり付て だだ子ごゝろや 夏の闇

・かたばみの 花の宿にも なりにけり

・水飯(すいはん)や あすは出(いで)ゆく くさの宿

・旅ごろも 奈須野(なすの)のいちご こぼれけり

<秋の句>

・涼しさや 願(ねがい)の糸の 吹きたまる

・我箸も 苧殻(おがら)に数へ 紛れけり

・雁鳴いて 大粒な雨 落しけり

・妙高の 雲動かねど 秋の風

・御仏(みほとけ)も 濕地(しめじ)売る子や 待給ふ

・水早し 龍胆(りんどう)なんど 流れ来る

・浪白う 干潟に消ゆる 秋日和

・蘭白し 蜘(くも)の振舞(ふるまい) 憎けれど

・初鮭や 包めば戦(そよ)ぐ 芒の穂

・大風の 紫苑(しおん)見て居る 垣根かな

・砂山も 道ありけりな 初月夜

・摺る墨を 覗きにおはせ 竜田姫(たつたひめ)

<冬の句>

・火遊びの 我れ一人ゐしは 枯野かな

・降る雪に 深山(みやま)しきみは 高くあれ

・干足袋の 日南に氷る 寒さかな

・寒雁の 声岬風(さきかぜ)に 消えにけり

・落葉掻くは 亡き母の 後ろ姿かな

・ふし漬の しづむを覗く 小舟かな

・冬草や はしごかけ置(おく) 岡の家

・里囲む 冬の三山 晴れにけり

<新年の句>

・炉辺(ろばた)離れねば 日記初(はじめ)に 異聞(いもん)なし