石川五右衛門とは?実像は大泥棒だが、嫌われた豊臣政権下で庶民の英雄的存在に!

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石川五右衛門

「石川五右衛門」と言えば、私のような団塊世代以上の年配者には「鼠小僧」や「日本左衛門」と並んで時代劇でもおなじみの盗賊で、「義賊」としても有名ですが、若い方はどうなのでしょうか?

石川五右衛門も鼠小僧も日本左衛門も、架空の人物ではなく、実在の盗賊です。しかし芝居による脚色もあって、虚像と実像が綯(な)い交(ま)ぜになっています。

そこで今回は石川五右衛門の虚像と実像について、わかりやすくご紹介したいと思います。

石川五右衛門と言えば、安土桃山時代の大泥棒で、五右衛門風呂の名前の由来となった「釜茹での刑に処せられた」とか、南禅寺の三門に立って「絶景かな、絶景かな」という名文句を吐いたとか、「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」という辞世を詠んだことで有名ですね。

ところで、実際の彼はどのような人物だったのでしょうか?

1.石川五右衛門にまつわる逸話

(1)「石川や浜の真砂(まさご)は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」という辞世

これは「海辺に無数にある砂がなくなっても、世の中に泥棒がいなくなることはないだろう。なぜなら盗人の種が尽きることがないからだ」という意味で、石川五右衛門の辞世と伝えられる歌です。

ここでいう「盗人の種」とは、人のものを盗みたいという心のことです。奪ってでも、盗んででも自分の物にしてしまいたいという欲の心が人を泥棒という犯罪に走らせるのですから、まさにその心が「盗人の種」です。

天下の大泥棒と言われる石川五右衛門は、城に忍び込むその大胆で勇敢な盗みの手口から泥棒界の英雄となり、五右衛門にあこがれ、泥棒稼業を目指す若者も現われる始末で、時の為政者であった豊臣秀吉は、このまま五右衛門を野放しにしていては都の治安はよくならないと、威信をかけた大捕物を断行した末、ついに五右衛門を逮捕しました。

第2・第3の五右衛門を生まないよう、「この男だけは泥棒に憧れる若者が懲りるような処刑をしなければ」と考えた秀吉は見せしめとして五右衛門を「釜茹での刑」に処しました

大きな釜で茹で殺したと伝えられ、今に「五右衛門風呂」(下の写真)として知られます。

五右衛門風呂

その釜ゆでの刑に処せられる際、五右衛門が詠んだとされる歌が、上の辞世です。

オレを見せしめにしてこの世から泥棒をなくそうとしたって、この世から泥棒はなくならないぞ、なぜなら人間の心の中に、誰にも知られなければ盗んでしまえ、捕まらなければ人の物も盗ってしまえという欲の心があるからだ」と嘯(うそぶ)いたのです。

これは、「戦争は永遠になくならない」のと同様に、不変の真理でもあります。

(2)釜茹での刑

石川五右衛門

安土桃山時代の怪盗、石川五右衛門は、太閤秀吉を暗殺しようとして伏見城に侵入しましたが、あえなく御用となり、釜ゆでの刑に処せられたといわれます。

数々の伝説に彩られ、その正体は不明ですが、歌舞伎や浄瑠璃などでよく演じられます。

五右衛門について記述された最も古い史料は、公家の山科言経(やましな・ことつね)の日記「言経卿記(ときつねきょうき)」です。そこには「文禄3年(1594年)8月盗人スリ10人、子1人を釜にて煮る」(盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり)と書かれています。

次に登場するのが1642年(寛永19年)に儒学者、林羅山が幕府の命を受けて編纂した秀吉の伝記「豊臣秀吉譜」です。ここには文禄の時代に石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので、秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた(煮殺された)と記されています。

仮に山科言経の日記が正しければ、この記録は1594年に処刑された日からすでに50年も経過しています。

沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを記していますが、「豊臣秀吉譜」よりさらに年代を経ています。そのため、これらの史料はいまひとつ信憑性に欠けると見做す研究者もいるようです。

ローマのイエズス会文書館に所蔵されている「日本王国記」というタイトルの本があります。著者はスペイン人の貿易商アビラ・ヒロンです。アビラは16世紀から17世紀にかけて、約20年、日本に滞在し、1615年(元和元年)、長崎でこの本を書き上げました。

内容は、1549年(天文18年)、三好長慶が12代将軍足利義晴を京都から追放し占領したことから徳川家康の晩年まで、要するに戦国時代から安土・桃山時代まで、日本に起こった出来事や社会情勢が克明に著されています。

その中に、石川五右衛門の処刑についての記述が残されています。記述によると、都を中心に荒し回る盗賊の集団がいて、彼らは普段は町民の格好をして働き、夜になると盗みを働いたという。

集団の中から15人の頭目が捕えられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔(はりつけ)に処せられた。頭目1人当たり30人から40人の手下がいて、彼らも同じ刑に処せられたという。

京都で起きたこの事件は、当時としてはすこぶる早いスピードで長崎まで伝わりましたが、それはいかにこの処刑が前代未聞の大事件であったかを物語っています。

しかし、実はこのアビラ・ヒロンの記述には石川五右衛門という名は登場しません。では、なぜこの記述が石川五右衛門を指していると分かったのでしょうか?「日本王国記」の原本は現在、所在が不明ですが、その写しが残されており、そこには400カ所以上にわたって注釈が書かれていたのです。

この注釈を書いたのは日本にやってきた宣教師ペドロ・モレホンという人物です。彼の注釈は盗賊処刑の記述にも付されていました。「この事件は1594年(文禄3年)の夏のことである。油で煮られたのは<Ixicavagoyemon=石川五右衛門>とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのです。このペドロという人は、処刑当時、京都の修道院の院長をしていたそうです。つまり、処刑を見物し、あまりに印象が強かったために、わざわざ注釈を入れたのでしょう。

(3)「絶景かな、絶景かな」という名文句

石川五右衛門・楼門五三桐

これは、歌舞伎狂言「楼門五三桐さんもんごさんのきり」で、大盗賊石川五右衛門が南禅寺の三門の上から満開の桜を眺めて見得を切る場面のセリフです。あとに「春の眺めはあたい千金とは小せえ小せえ。この五右衛門には価万両」と続きます。

南禅寺・桜

南禅寺は、京都の洛東エリアにある臨済宗南禅寺派の大本山です。境内に入ってまず目をひきつけられるのが、高さ22mもある巨大な三門。近づいていくと、見上げるほどに巨大な三門を支えるかなり太くて立派な円柱や、とてつもない重量感を感じる門に、ずっしりとした歴史の重みを肌で感じることができます。

広大な境内では、桜、新緑、紅葉のシーズンと、いつ訪れても季節ごとに違った雰囲気を楽しめます。

南禅寺・新緑

南禅寺・紅葉

ちなみに南禅寺の三門は、別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つに数えられています。三大門の残り2つの門は、知恩院(京都府)と久遠寺(山梨県)の三門です。

2.石川五右衛門とは

石川五右衛門(いしかわ ごえもん)(1558年? ~1594年)は、安土桃山時代の盗賊の首長です。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺されました。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されています。

墓は京都の大雲院にあります。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁によります。

かつて、その実在が疑問視されてきましたが、上述の通りスペイン人の貿易商が書いた「日本王国記」の写本にイエズス会宣教師が入れた注釈の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかり、実在の人物であることがはっきりしました。

江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得ました。

3.石川五右衛門にまつわる伝説

・一説に三好氏の臣石川明石の子といわれます。また遠江国(静岡県)浜松生れで真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家にちなんで石川五右衛門と改めたともいわれます

・幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し14歳か15歳の頃に父母を亡くしたとのことです。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがあります。

百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られています。

・その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返したようです。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていたこともあり天下国家を狙う大盗賊として庶民の英雄的存在になっていました。

・金の鯱(名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わりますが、これは別の盗賊団(柿木金助)との混同かと思われます。

・京都市伏見区の藤森神社に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石があります。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせました。

そのお礼として宇治塔の島の石造十三重塔(現重要文化財)の笠石を盗んで台石として寄進したとのことです。そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は他のものに比べて新しいのだということです。

・五右衛門の隠れ家は、方広寺大仏殿(京の大仏)門前にあった大仏餅屋にあったということです。そこから鴨川河原に通じる抜け穴もあったということです。

秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されます秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられました。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまいました。

・三条河原で煎り殺されましたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいます。母親は熱湯で煮殺されたということです。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っています。

・有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていたという説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めたという説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)があります。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われています。

・鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所がありますが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だということです。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていましたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になったそうです。(南区コラム 【京都市公式】京都観光Navi- によれば「釜ヶ淵」の場所を鴨川と高瀬川の合流点あたりとしており、かつ元々はその地点から北へ約300m上流がその場所であったとしています。)

・処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の歌を詠んだということです。(古今和歌集の仮名序に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か。)

・処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もあります。

・『一色軍記』では当時伏見城の築城に関わっていた仙石秀久が五右衛門を捕縛したという記述が残されています。

4.石川五右衛門を題材にした創作・作品

江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、数多くの創作作品が生まれました。

1776年(安永5年)以前成立の実録本『賊禁秘誠談』は石川五右衛門が大盗賊へ成長していく様子を武勇伝のように描き、五右衛門を小気味よい反逆者として描いた作品です。この『賊禁秘誠談』の内容を典拠として、歌舞伎『楼門五三桐』が生み出されました。

歌舞伎『楼門五三桐』で、五右衛門を明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児とする設定は、謡曲「唐船」を参考にしたものです。

また、「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)は有名で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻した後、山門の上下で「天地の見得」を切ります。

この場面の金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、今日では一般的な五右衛門像となっています。

ただし、実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していません。

戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名です。

一方で彼の実際の行動について記録されている史料は多くありません。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては歌舞伎・人形浄瑠璃・落語・小説・映画・テレビドラマなど古今数多くのフィクションが生み出されています。

劇化の最初といわれるのは貞享(じょうきょう)(1684年~1688年)ごろ松本治太夫(じだゆう)の語った『石川五右衛門』で、浄瑠璃では近松門左衛門作『傾城吉岡染(けいせいよしおかぞめ)』(1712年)、並木宗輔(そうすけ)作『釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)』(1737年)、並木正三作『石川五右衛門一代噺(ばなし)』(1767年)、若竹笛躬(ふえみ)ら作『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまのかっせん)』(1789年)、歌舞伎では並木五瓶(ごへい)作『金門五山桐(きんもんごさんのきり)』(1778年)をはじめ、『艶競(はでくらべ)石川染』『けいせい稚児淵(ちごがふち)』などが主な作品です。

有名なのは「山門の五右衛門」で知られる『五山桐』で、これを女に書き替えたものに『けいせい浜真砂(はまのまさご)』があります。また『双級巴』と『狭間合戦』をつき混ぜ『増補(ぞうほ)双級巴』の外題で上演されることがあります。

明治以後も小説や戯曲に多く扱われています。