「忠臣蔵」「四十七士」「赤穂浪士」などで有名な赤穂藩家老の大石内蔵助は、「義士」「ヒーロー」とされていますが、果たしてそうだったのでしょうか?
私は以前から、彼の実像はそう単純ではなかったと思っていました。人間は誰でも複雑な内面を併せ持った存在だからです。
そこで今回は、大石内蔵助の真実の人物像に迫りたいと思います。
1.江戸幕府から見た赤穂藩家老の大石内蔵助
江戸時代、幕府は「隠密(おんみつ)」を使って各藩の事情を調べて報告させ ていました。 また隠密とは別に、「国目付」と「巡検使」という旗本の役職があり、この役職も地方に派遣されていたようです。
「国目付」は、2名1組となって監視対象の大名のもとへ赴き、その城下に数ヶ月滞在し、藩政や民情などを厳しく監視しました。 もう一つの「巡検使」は、一ヶ所に滞在するのではなく、諸大名の所領を渡り歩き、各藩の内情調査を主な役目としていました。
播州赤穂藩にもこれらの調査が秘かに入り、こっそりと調べていたようです。
(1)浅野内匠頭は「女色にふけるの難」 大石内蔵助は「不忠の臣」
幕府が隠密を使って各藩の事情を調べさせ、報告を受けた記録が残されています。
その中の一つに、「土芥冠讎記」(どかいこうしゅうき)(*)という難解な名前の書物があり、この中に赤穂藩主・浅野内匠頭と、国家老の大石内蔵助についての人物評価が書かれています。
(*)「土芥寇讎記」という書名の由来
『孟子』巻八「離婁章句下」第二段の「君の臣を視ること手足の如ければ 則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如ければ 則ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること土芥の如ければ 則ち臣の君を視ること寇讎の如し」から採ったものです。
「土芥」とは「ごみ」のことであり、「寇讎」とは「かたき」という意味です。
・浅野内匠頭 :「女色にふけるの難」 奥に引き籠り、女と戯れるだけの藩主である。
・大石内蔵助 :「不忠の臣」 色に溺れる主君を諫めず、黙って見ているだけである。
藩主などは、「文武」や「業績」などが評価されるのが普通ですが、浅野内匠頭に関しては、「女色にふけるの難」 以外、何も評価されていません。 つまり「淫乱無道」ということのようです。
大石内蔵助も、「そのような主君の不行状を見て見ぬふりをしていた」と辛辣な評価を下しています。
2.吉良上野介を討ち果たせた原因
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちが、長い期間をかけて周到な準備を行った末に、吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げたように「忠臣蔵」では描かれています。
しかし、47人もの大勢の武士が真夜中に吉良邸に向かった時に、幕府による検問になぜ引っ掛からなかったのか疑問が残ります。
それは当時の江戸の町には5,000ヶ所もの木戸があり、夜10時から翌朝まで閉ざされ、木戸番とか辻番が猫の子一匹通さない厳しさで見張っていました。 そこに完全武装した男たちが徒党を組んで行軍したわけです。 木戸を通らなくて吉良邸に行けたのが不思議です。
これについては、「幕府は赤穂浪士が近いうちに吉良邸に討ち入り、吉良上野介を殺害することを予期して黙認していた」と見るのが妥当だと私は思います。
というのも、もともと江戸城内の呉服橋にあった吉良上野介の屋敷を、松の廊下の刃傷事件後に、江戸城外の本所松坂町に移転させていたからです。
この屋敷替えについては、東隣の蜂須賀家が「赤穂の浪人たちが討ち入るかもしれないと危惧し、昼夜にわたって警備しているため、家中が困窮して迷惑だから、他に移転させてほしい」と幕府に働きかけたためという話もあります。
なお、この話は、堀部安兵衛の「堀部武庸(ほりべ たけつね)筆記」に載っています。
堀部安兵衛は、この屋敷替えの話に関連して、次のような江戸の噂を書状に書いて内蔵助に知らせています。 これも「堀部武庸筆記」に残されています。
上野介の屋敷が本所あたりに替わるらしい。討ち入りを実行する時節がきたともっぱら取りざたされている。上野介の従弟婿にあたる松本藩主水野忠直は、御伽の座頭が上野介の屋敷替えは公儀が浅野家家来に「討ち候へ」といっているようなものだと言ったので、水野も「成程その通りだ」と答えたと親しい人に語ったらしい。
3.大石内蔵助の本心
誰にも彼の本心を断定はできませんが、私は「出来れば討ち入りなどしたくはなかった」「安穏な人生を送りたかった」というのが本心ではないかと思います。そして「神文返し」に見られるように、他の旧藩士たちについても、「忠義という建前に縛られて、短慮だった主君のために命を懸けることの馬鹿々々しさを知らせて、討ち入りを思いとどまらせたかった」「浪人となって転職活動も困難だとは言え、もっと別の安穏で有意義な人生を歩ませて天寿を全うさせたかった」のではないかと思います。
しかし「船長の最後退船義務」のように「藩の最高責任者としての任務は全うせざるを得ない」ということで、逃げずにそれを果たしたということでしょう。
赤穂浪士たちの「主君の仇討ちへの執念」と、彼自身を含めた赤穂浪士たちの「幕府の仕置きに対する憤懣・抗議」が押しとどめられない流れとなって、「幕府に対する公然たる抗議行動」としての「吉良邸討ち入り」に至ったのでしょう。
これは自らが設立した私学校生徒らの旧薩摩藩士に担ぎ出されて西南戦争を起こし、結局敗死した西郷隆盛の立場に似たところがあるように思います。彼はもともと不平士族の暴発・暴走を抑える目的で九州各地から子弟を集め私学校を作ったのですが、彼らの新政府に対する不満を制しきれず、彼らとともに戦って敗れ死を選びました。この西南戦争は、近代装備を有する新政府軍に対して士族の武装蜂起では対抗不可能であること証明し、これを最後に不平士族の反乱がなくなったのは皮肉なことです。
なお、彼が京都島原、伏見橦木町、祇園のほか奈良の木辻、大坂の新町などで遊興・放蕩を重ねたのは、死を覚悟しなければならない重圧に押しつぶされないようにストレス解消を図ったのと、先が見えた自分の人生を少しでも楽しみたかったのではないでしょうか?
彼は苦悩を重ね、相当なストレスが溜まっていたのではないかと想像します。彼の放蕩は「敵の目を欺くための演技」というのが半ば定説となっていますが、私は結果的にそう見えただけで、実際はストレスから逃れるために遊蕩していたのではないかと思います。彼は赤穂藩時代から自由な遊び人だったという話もあるからです。
彼は健全な快楽主義者(エピキュリアン)だったのではないかと私は思います。
4.大石内蔵助の人物評
・「内蔵助生質静にして言葉少な也」:東條守拙(赤穂浪士9士の預かりを担当した三河国岡崎藩主水野忠之の家臣)
・「良雄人となり温寛にして度あり」:栗山潜鋒(同時代の水戸学者)
・「良雄人となり簡静にして威望あり」:室鳩巣(同時代の儒学者)
・「良雄人となり和易樸矜飾を喜ばず、国老に任ずといえども事に於いて預ること鮮し。しかも内実豪潔にして忠概を存じ最も族人に厚し。」:三宅観瀾(同時代の水戸学者)
物静かで飾り気のない性格だが、度胸や威厳があった反面、家老の職にあっても有事には態度を保留しがちで、豪傑の半面身内に甘いことが窺われます。
役立たずの「昼行燈」という呼称は人口に膾炙しており、大石の人物像を語るのに多用されます。
室鳩巣は『赤穂義人録』の中で大石の忠義や人格を高く評価する一方で、元々は温恭な君主である浅野内匠頭が刃傷事件を起こした一因として家臣がきちんと補佐して主君を正しい方向に導けなかったことにあると指摘し、特に家老である大石が「不学無術」であった責任は大きいとしています。
瑤泉院の家臣・落合勝信は「大石は無類の好色で不行跡があり、金銭を放蕩に浪費する」と記しています。
また、同時代人の水間沾徳、少し後の時代人である池大雅、本居宣長、神沢杜口、五井蘭洲、横井也有、大我(白蓮社天誉)らは、大石についてよろしくない人物評を残しています。
5.大石内蔵助とは
(1)先祖代々の筆頭家老
大石内蔵助(くらのすけ)は通称で、本名は大石良雄(よしお/よしたか)(1659年~1703年)です。赤穂藩浅野家の国家老(城代家老)で、赤穂で山鹿素行に軍学を学び、京都で伊藤仁斎から儒学を学んでいます。「赤穂事件」は「武士道の鑑」と言われ、彼は「指導者の理想像」と言われたこともあります。
父が34歳の若さで亡くなったため、祖父良欽(よしかね)の養子となりますが、彼が19歳の時に良欽が亡くなり、21歳で筆頭家老となっています。
しかし平時の彼は凡庸な人物だったようで「昼行燈」とあだ名されていました。彼とは反対に老練で財務に長けた家老大野九郎兵衛(生没年不詳)が、実質的に藩政を担っていたようです。
(2)「松の廊下の刃傷事件」後の残務処理
主君である浅野内匠頭(たくみのかみ)(1667年~1701年)は1701年3月14日に「松の廊下の刃傷事件」を起こした罪で「即日切腹」となり、「赤穂藩改易(お家断絶)」が決まりました。一方、吉良上野介には「お咎めなし」で、これは「喧嘩両成敗」に反する処置でした。
江戸からの急報を受けて3月27日、彼はまず総登城の号令をかけ、3日間にわたって評定を行います。幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する「籠城派」と「城明け渡し」を主張する「恭順派」に分かれて議論は紛糾します。4月12日には恭順派の大野九郎兵衛が逃亡します。
しかし大石は「籠城殉死希望の藩士」たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で浅野内匠頭の弟・浅野長広によるお家再興を嘆願し、併せて吉良上野介の処分を幕府に求めることで藩論を統一します。
また、紙くず同然になるであろう赤穂藩の「藩札の交換」に応じて赤穂の経済の混乱を避けています。藩士に対する退職金のような「分配金」についても、下に厚く上に軽くする配分を行って、家中が分裂する危険の回避に努めています。
4月19日には「城明け渡し」を済ませ、5月21日に残務整理も終えています。そして6月25日に赤穂を去って京都・山科に隠棲することになります。
これは「危機管理」として見事な対応だと思います。
(3)お家再興運動と江戸急進派との軋轢
京都・山科に隠棲したのは、「お家再興」の政界工作のためと、親戚が住職を務める泉涌寺の檀家となって寺請証文(いわば身分証明書)を受けるためであったようです。京の都に近い山科は、遊び好きの彼には好都合の場所だったのかもしれません。
「お家再興運動」には多くの旧藩士たちが集まり、義盟への参加者は120名に達しました。大石は各方面にお家再興を働きかけますが容易ではなく、その間に浪人となった旧藩士らの生活も困窮し、脱落者も出始めます。
ただ、このころから高禄取りを中心とした「お家再興優先派」と、堀部安兵衛・高田郡兵衛らの武闘派や小禄取りの家臣たちに支持された「吉良上野介への仇討ち優先派」との対立が目立って来ます。前者は赤穂詰めだった家臣が多いのに対し、後者は江戸詰めだった家臣が多かったため「江戸急進派」と言われています。
(4)京都島原などでの遊興
彼はのらりくらりとどっちつかずの態度を取って分裂を回避しながら、実際には「お家再興」に力を入れています。
京都島原、伏見橦木町、祇園のほか奈良の木辻、大坂の新町などで遊興を重ねながら、江戸急進派の矢の督促には「時節到来を待つように」と自重を促しています。
彼は苦悩を重ね、相当なストレスが溜まっていたのではないかと想像します。彼の放蕩は「敵の目を欺くための演技」というのが半ば定説となっていますが、私は結果的にそう見えただけで、実際はストレスから逃れるために遊蕩していたのではないかと思います。彼は赤穂藩時代から自由な遊び人だったという話もあります。
1702年2月の山科と円山での会議において、「大学様の処分が決まるまでは決起しない」ことを決定しています。しかし同年7月18日、幕府は浅野長広に対して「広島藩お預かり」を言い渡し、お家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となりました。
(5)討ち入り決行と切腹
「お家再興」が絶望的となったのを受けて、1702年7月28日彼は堀部安兵衛なども呼んで円山会議を開き、吉良上野介を討つことを決定します。
彼は仇討ち決定に際して、同志の意向が今も変わらないかを確かめるため、義盟への誓紙を一旦返却(神文返し)しています。すると高禄の者をはじめ半数以上が脱落してしまいます。そして、誓紙の返却を拒んだ者にだけ仇討ちの真意を伝えます。その結果、同志は最終的に47人となったわけです。
彼が作った討ち入り時の「人々心覚」には、「武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など」が事細かに定められ、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君へのご奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」と明記しています。このような用意周到さは戦時や変事の際の司令官にふさわしいもので、現代の危機管理・対応に当たる指導者にも見習ってほしいものです。
そして、最終的に絞り込まれた義士たちによる討ち入り準備活動が始まります。多大な苦労を重ねた後、討ち入りの準備が完了した時点で、主君の未亡人の瑤泉院に「預り金の収支決算書」を提出して今生の別れを告げています。1702年12月14日吉良邸で茶会があることを察知し、翌12月15日未明に討ち入りを決行しました。
吉良上野介の首級を挙げた後、主君の墓のある泉岳寺に詣でます。その後、四十七士(正確には寺坂吉右衛門を除く四十六士)は幕府大目付に届を出し、細川家など4大名家に預けられた後、1703年2月4日に切腹しています。
「仇討ちを義挙とする世論」の中で、幕府は助命か死罪かで揺れましたが、結局室鳩巣らの「賛美助命論」を退け、「天下の法を曲げることは出来ない」「桜の花のように潔く散らせてやるのが武士の情け」とする荻生徂徠などの意見を容れて切腹を命じました。
(6)辞世
彼の辞世は次の二つが残されています。
①あら楽し思ひは晴るる身は捨つるうき世の月にかかる雲なし
②極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人
なお、①の辞世の解釈については「月にまつわる話」の記事に詳しく書いています。