忠臣蔵の四十七士銘々伝(その3)潮田又之丞高教は大石内蔵助の親戚で信頼が厚かった

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潮田又之丞

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.潮田又之丞高教とは

潮田又之丞

潮田高教(うしおだ たかのり)(1669年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は又之丞(またのじょう)です。変名は原田斧右衛門。家紋は細輪に三引。

家紋・細輪に三引

2.潮田又之丞高教の生涯

彼は、赤穂藩浅野氏家臣の潮田作右衛門の子として誕生しました。

延宝3年(1675年)に200石の家督を相続し、藩内では郡奉行・国絵図奉行を兼任しました。槍が得意で、東軍流の奥村無我に剣術も習いました

大石良雄の叔父・小山源五右衛門良師の娘ゆうを妻(*)に迎えており、藤之助を儲けました。親戚筋にあたるため大石からの信頼が厚く行動を共にすることが多くありました

(*)妻 ゆうは、大石内蔵助の叔父小山源五右衛門の娘ですが、源五衛門の脱盟により実家へ帰しています。又之丞の切腹後、名を「源」と改め安芸国広島浅野本家の御牧武太夫と再婚し、広島で76歳の生涯を閉じています。

元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍しました。受け取りの様子で大石については「あれが赤穂の家老ぞと云ひて女共まで嘲笑す」と悪口が記されていますが、潮田の記述はありません。

元禄13年(1700年)3月15日には嫡男・潮田藤之助が浅野長矩にはじめて拝謁を許されました。

元禄14年(1701年)3月14日に浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、国許の赤穂にいました。

赤穂城明渡しの際に赤穂城絵図領内絵図を江戸幕府目付に提出し、4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働きました。また、この間家族は姉の嫁ぎ先である加西郡の豪農・渡辺家に預けています。

9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰、中村正辰、大高忠雄らとともに江戸へ下向しますが、逆に丸め込まれて急進派になりました。

その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に供して、12月には京都へ帰りました。12月9日には中村正辰とともに神文血判書を提出しました。

元禄15年(1702年)7月、浅野長広に広島藩お預り処分が決まった後、円山会議において大石が仇討ちを決意したので、これを江戸の同志達に伝えるべく、7月29日、堀部武庸(円山会議出席のため上洛中だった)とともに江戸へ下向しました。

8月12日の隅田川舟中会議にてこれを同志達に伝えた後、9月までに近松行重とともに京都へ帰りました。その後、10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向し、10月24日に江戸到着すると、大石と同じ小山屋の借家に入りました。

12月15日未明、吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して庭で戦い、武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとはその首級を槍先にくくりつけ泉岳寺まで運びました

同寺の浅野長矩墓前にて報告後、熊本藩細川綱利の屋敷に預けられました。月番老中・稲葉正往より髭・鬚・さかやき・爪を切るのを禁じられました。また火気を嫌う綱利の意向で煙草や火鉢も出されませんでした。

それ以外は食事・酒など過分の厚遇を得ました。屋敷では夜に、接待役の堀内伝右衛門に酩酊するまでたらふく酒を飲ませたり、踊り狂言の真似をして騒ぎました。そして、大石良雄が武者振いをしながら一番に切腹に向かう際に、潮田は一言「皆の者共も追っ付参る」と声をかけています。

元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・一宮源四郎の介錯で切腹しました。享年35

戒名刃胸空劔信士で、主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.潮田又之丞高教にまつわるエピソード

(1)国絵図奉行の腕が役立つ

国絵図奉行の腕前を活かして、富森助右衛門が入手した吉良屋敷の図面を清書したといわれます。

(2)母への手紙

元禄15年12月5日付(大西覺運を介して北条の母宛)で、「老いた母を振り捨てて死ぬが、御心底を察すると痛わしく思うけれど、武士の憤り是非もないことと思うて諦めて欲しい。

私の着物は寺井玄達に託して大西坊に届けて置くから母の考え次第で形見分けして貰い度い。御心底を察すれば落涙もするが、何事も定まった因縁因果であると覚悟して潔く討ち死にする。

娘のおせつを私と考えてお見すてなくお世話願いたい、いかにも是非もない回り合わせで、可哀想に思えてならない」とあります。

(3)渡辺与左衛門(*)宛の手紙

(*)江戸下向の前に姉の嫁ぎ先の渡辺与左衛門方に老母と娘らを預けています。

「老母並びに娘などが罪三族に及ぶの故で幕府から罪に問われるのも覚悟の上だ。しかし万一にも助かった節は飢餓に及ばないようお世話願いたい。母並びに姉が我等のことを聞けば取り乱すと思うが、武士の習い、珍しからざること故存じ切る様申し聞かせて下さい」と頼んでいます。

(4)切腹の時

先に逝く内蔵助に対し「内蔵助殿、皆どもも追っつけ参りますぞ」と言いました。これを聞いた内蔵助はにっこりと肯いて出て行ったと伝わります。

4.潮田又之丞高教の辞世・遺言

武士(もののふ)の 道とばかりを 一筋に 思ひ立ぬる 死出(しで)の旅路を

遺言:「おついでがあれば播州加西郡北条村にいる遺族にこの辞世を渡していただきたい」