忠臣蔵の四十七士銘々伝(その12)貝賀弥左衛門友信は綿屋善右衛門(天野屋利兵衛)と親交

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貝賀弥左衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.貝賀弥左衛門友信とは

貝賀弥左衛門友信

貝賀友信(かいが とものぶ)(1650年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は弥左衛門(やざえもん)です。変名は喜十郎(町人)。本姓は藤原氏。家紋は重ね扇。

家紋・重ね扇
家紋・重ね扇
2.貝賀弥左衛門友信の生涯

慶安3年(1650年)、赤穂藩浅野家家臣・吉田之貫の二男(庶子)として誕生しました。母は貝賀左門の娘。兄に吉田忠左衛門兼亮がいます。

庶子であるため、寛文元年(1661年)頃に母の弟である貝賀新兵衛(同じく浅野家中)の養子となりました。赤穂藩では中小姓・蔵奉行2石10両3人扶持。妻はいませんでしたが、妾(おさん)が一人おり、その間に一女(お百)を儲けています。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は切腹、赤穂藩は改易となりました。

城内論争においては友信は家老大石良雄派として行動し、誓紙血判の義盟にも加わりました。赤穂城落去後は、浅野家お出入り商人だった京都高倉通り綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデル)邸に身を寄せました。貝賀は二十六両を借用しています。

元禄15年(1702年)7月18日、江戸幕府は閉門中だった浅野長矩の弟・浅野長広の広島浅野宗家への永預けを決定し、浅野家再興は絶望的となりました。

江戸にいた兄・兼亮は、京都にいた友信へ飛札でこれを知らせ、これを受けた友信が山科の大石良雄へ報告しました。

また7月28日、大石良雄は京都円山に同志を集めて、吉良義央への仇討ちを決定しました(円山会議)。義盟には約120名の元赤穂藩士が加わっていましたが、大石は同志の真意を探るために血判状の返却を命じました。

その使者となったのが友信と大高源吾忠雄でした。血判状の返還に際して、友信らは、「浅野家再興が絶望的となったことと、大石は腰抜けであてにならないと伝えて相手の反応を見てそれでも血判状の返還を拒む者に対して仇討ちの真意を伝えたということです。

江戸下向後は町人喜八郎として八丁堀湊町の片岡源吾右衛門高房の借家に入りました。同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属し、門の警戒にあたりました。

討ち入り後は松平定直の屋敷へお預けとなりました。松山藩では義士を罪人として扱い、厳しい対応をした記録が松平家に多数残っています。まだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまいました。

元禄16年(1703年)2月4日、松平家家臣・大島半平の介錯で切腹しました。享年54

戒名刃電石劔信士(にんでんせきけんしんし)で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

京都の本妙寺の境内にも墓がありますが、これは宝永元年(1704年)に前述の商人綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデル)が建てた「遺骸の埋葬を伴わない供養塔」です。(同5年(1708年)の宝永の大火で焼失しました。現在の新しい石塔は再建されたもの)。

3.貝賀弥左衛門友信にまつわるエピソード

(1)円山会議後の「神文返し」で重要な役目を果たした

弥左衛門は微禄ながら信頼が厚く、円山会議後の神文返しでは仲間の真意を探る重要な役目を果たしました。

(2)天野屋利兵衛のモデル綿屋善右衛門と親交

赤穂城落去後は、浅野家お出入り商人だった京都高倉通り綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデル)邸に身を寄せました。貝賀は大高源吾との連署で二十六両を借用しています。

綿屋善右衛門は、宗家広島浅野家や赤穂浅野家のご用を務め呉服商です。

兄の吉田忠左衛門兼亮ともども善右衛門と親しく交わっており、江戸下向後も手紙による交友を続けました。

4.天野屋利兵衛を題材にした講談

(1)『赤穂義士外伝~天野屋利兵衛 雪江茶入れ』あらすじ

播州赤穂の城主、浅野内匠頭(たくみのかみ)の元に出入りをしていたが有名な天野屋利兵衛。この日も内匠頭の屋敷にご機嫌伺に訪れる。内匠頭は、今日は特別に宝物蔵を案内するという。数ある大名のなかでも浅野様は七福神に例えられるほど豊かな殿様である。蔵のなかには結構なお品がずらりと並んでおり、内匠頭は直々に利兵衛に説明して歩く。最後に利兵衛に見せたのが、この家で最も大切な「雪江(せっこう)茶入れ」である。千利休の師匠であり、かの織田信長の茶道頭を務めた武野紹鴎(たけのじょうおう)が造った茶入である。話には聞いたことがあるがこれが本物の「雪江茶入れ」であるか、見事なお宝であると利兵衛は感心する。こうして数々の宝物を見て、その日はお暇をする。

間違いがあったのはこの後である。夕方になったので宝物蔵の当番、貝賀弥左衛門と磯貝十郎左衛門が宝物をひとつひとつ改める。すると雪江茶入れが見当たらない。どこを探しても見つからない。2人の顔色が変わった。「偉いことになった、雪江茶入れが無くなった」。こうなれば2人は切腹して責任を取らなければならない。2人は城代家老の大石内蔵助(くらのすけ)の屋敷に相談しにいく。内蔵助は夕餉の最中であった。「我らは切腹してお詫びをしなければならない」。内蔵助は「本日、蔵の中に入った者はいるか」と尋ねる。2人は天野屋利兵衛が入り、お殿様が蔵の中の宝物を案内したと答える。

内蔵助は2人の切腹を留め、自ら調べることになった。内蔵助は利兵衛の泊まっている旅籠を訪ねる。内蔵助は雪江茶入れが無くなったことを話すと利兵衛は驚く。雪江茶入れが無くなるとどうなりますかと尋ねると、内蔵助は「宝物番である貝賀弥左衛門と磯貝十郎左衛門の切腹は免れないであろう」と答える。利兵衛は、雪江茶入れは自分が盗んだと白状する。殿には内聞にしておくから雪江茶入れを出せと内蔵助は言うが、利兵衛はあまりに見事なお宝であるのでお堀端で見ようとするとツルッと手が滑って茶入れが落ち、粉々になってしまった。証拠を残してはならないと砕けた茶入れは堀の中に投げ捨ててしまったと語る。内蔵助もこの言葉をすっかり信じてしまった。

夜分であるが、内蔵助は内匠頭にお目通りする。内匠頭は、利兵衛がそのような事をする者ではないと言う。内蔵助が無くなったのは雪江茶入れであると話すと、内匠頭は笑って、自分の手元にあると打ち明ける。いかに立派な宝物でも蔵のなかに入れておいては宝の持ち腐れである、目を楽しませてこそ宝の価値はあるのだと、手元に持ってきたのだ、当番の者に伝えるのは忘れたが、それは自分の手落ちであったと語る。

とんでもないことになったと内蔵助は引き下がり、再び利兵衛の元を訪れる。利兵衛は「覚悟はできています、縛り首にでも打ち首にでもしてください」と言う。「なぜそのような嘘を付く、雪江茶入れは殿の元にあったぞ」と内蔵助がいうと、利兵衛は涙を流して喜ぶ。利兵衛は先刻内蔵助が訪ねて来た時に「雪江茶入れを見たか」と問われ、自分を疑っているような口ぶりであることに気付いた、出入り商人として賤しくもご城代様に疑われたのでは生きている甲斐がないと思ったという。そこで貝賀様と磯貝様に累が及ぶのならば自分が死んでしまおうとあのような嘘を言ったという。

内蔵助は天野屋利兵衛の両手をしっかり握った。これが日本の握手の初めだそうである。夜中であるが2人は内匠頭にお目通りする。事情を話すと、内匠頭は生涯このことを忘れないと言って涙を流して喜ぶ。これから内匠頭と天野屋利兵衛は侍同士同様の主従の固い絆で結ばれる。元禄14年3月、内匠頭が吉良上野介(こうずけのすけ)に刃傷に及び切腹になっても、利兵衛のその忠義の心は変わらないのであった。

(2)『赤穂義士外伝~天野屋利兵衛』あらすじ

天野屋利兵衛は泉州堺の廻船問屋の主人で、播州赤穂藩五万三千石の藩主、浅野内匠頭長矩からは深い恩を受けていた。その浅野内匠頭が殿中松之廊下で吉良上野介を刃傷、即日切腹、家は改易となった。それを聞かされた利兵衛。妻には去り状(離縁状)を渡し、七歳の一人息子の七之助を連れ、具足櫃(鎧・兜を収める箱)を背負って槍を担ぎ赤穂へと向かった。仲間に加えて欲しいと言う利兵衛。大石内蔵助は殉死もしない、籠城もしない、主君の仇を討つのでひとまず戻って貰いたいと言う。堺に帰った利兵衛は、吉良邸に討ち入るの必要な忍び道具を揃えるよう、内蔵助から改めて頼まれる。

その当時、大坂には松野河内守という名奉行がおり、夜遅くまで仕事をしている利兵衛を怪しんで家宅捜索をした。見つかったのは忍びの時に使うロウソク立てが五十丁。謀反人に与する者して捕らえられた。

取り調べでは忍び道具の頼み手を追及されるが、義理ある方から頼まれたからと白状しない。拷問を受けやつれ果てた利兵衛。倅の七之助が白洲に連れられてきた。七之助は今、家主に預けられているが、友達には泥棒の子とからかわれているという。子供にまで辛い思いをさせているとは心苦しい。河内守の許しがあり利兵衛は七之助をしっかり抱く。白状すればこのかわいい子供と帰宅できると河内守は説得するが、それでも利兵衛は口を割らない。父と子は引き離され、白状しなければ七之助を鞭で打ち付けると脅される。泣き叫ぶ七之助。子供には愛があるが、頼まれた方には義理がある。「天野屋利兵衛は男でござります」。河内守は子供を打ち付けるような愚かな事はしない。

続けて利兵衛の妻ソデが、夫は謀反人ではないと奉行所に訴えに来る。利兵衛が制止するのにも関わらず、ソデは全てを話す。利兵衛が最も繁く出入りしていたのは浅野様の屋敷で、浅野の殿様からは格別の世話を受けていた事、浅野様切腹お家断絶の後に利兵衛から去り状を渡され里へ帰れと言われた事、利兵衛は息子を連れて具足櫃を背負い槍を担いで赤穂の城へ向かった事を話す。これを聞いた河内守。具足櫃は侍が使うもので、利兵衛のような町人が使うものではない。この者のいう事は信用できない、と妻ソデを追い払ってしまう。河内守は以後、利兵衛の取り調べをせず、彼は牢内に入ったままになる。

年が明けて、赤穂浪士は仇討ちを決行し吉良の首を討ち取ったという話が利兵衛の耳にも入る。河内守の前で、利兵衛は忍び道具の頼み手は大石内蔵助であると明かす。河内守も実は気付いていた。吉良と浅野の争いであれば、天下を乱すような大事にはならないであろう、さらに忠義の邪魔はしたくないと取り調べを中断したのだと言う。赤穂浪士の仇討ち成功の裏には、このように名奉行・松野河内守と男の中の男・天野屋利兵衛の力があった。

5.貝賀弥左衛門友信の辞世

辞世は無し。