忠臣蔵の四十七士銘々伝(その19)菅谷半之丞政利は大石内蔵助の作戦参謀で陰の功労者

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菅谷半之丞

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.菅谷半之丞政利とは

菅谷半之丞政利

菅谷政利(すがや まさとし)(1660年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は半之丞(はんのじょう)です。変名は町人 政右衛門。沈着で物静かな人柄でした。

大兵学者山鹿素行が赤穂へ配流されてきた時、まだ7歳の少年でしたが、素行配流中はその教えを受けました。

後に免許皆伝の大石頼母助良重について山鹿流奥義免許を受けたと伝わります。

馬廻を務める譜代の臣当初から義盟に加わりました。円山会議後は大石内蔵助の信頼が厚く、内蔵助の江戸下りに同行し、大石内蔵助の側近として作戦参謀的な役割を担った陰の功労者です。

家紋:重ね扇

2.菅谷半之丞政利の生涯

万治3年(1660年)、赤穂藩浅野家譜代家臣・菅谷平兵衛の次男として生まれました。母は津田五郎左衛門の娘です。

兄に岡本松之助がいましたが、この兄は菅谷家の家督を継がず備後国三次で浪人したため、政利が菅谷家の嫡男となりました。

元禄6年(1693年)に父・平兵衛が死去したため勘当解除や家督もこのあたりと思われます。赤穂藩では馬廻り役また郡代として仕えました(100石)。

元禄7年(1694年)に主君・浅野長矩が備中松山城受け取りのために出陣した際には政利は赤穂留守部隊に編入されていました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及び、赤穂藩が改易されると、備中国足守や備後国三次へ赴いたとみられます(おそらく兄を頼ったのであろうと思われます)。また伏見に住んでいた時期もあったといわれます。

元禄15年(1702年)10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向しました。江戸到着後は大石良金の借家石町小山屋へ入りますが、一時は谷中長福寺の近松行重の弟のところへも身を寄せていました。

赤穂事件の吉良邸討ち入りで菅谷は裏門隊に属しました。元禄16年(1703年)2月4日、松平定直預かりとなり、同家家臣加藤斧右衛門の介錯で切腹しました。享年43

戒名刃水流剣信士で、主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

3.菅谷半之丞政利にまつわるエピソード

(1)父の後添えの継母との関係を疑われ、勘当される

父・平兵衛に後添えの継母との関係を疑われ、勘当により赤穂から放逐されていたというのが芝居などの脚色です。

しかし中央義士会は「政利が美少年だったので継母から懸想されたというのは史実ではない」とし、実際は醜男で容貌魁偉といわれています。

石岡久夫という弓道家は菅谷が山鹿流を学んだとしていますが、赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としています。

(2)『赤穂義士銘々伝~菅谷半之丞』あらすじ

播州赤穂5万3千石の城主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公のご家来で菅谷半之丞政利(すげのやはんのじょうまさとし)という者がいた。馬廻り役で食禄は100石。父親は平兵衛といってなかなかの人物だったが、年を取ってから若く美しい後添え「お岩」を貰ってから夢中になってしまう。この後添えが質(たち)のよくない女で、半之丞のことを夫に讒訴(ざんそ:他人を貶めるためにありもしないことを告げる)をする。若い妻に迷ってしまった平兵衛は、この讒訴を真実だと思い込み、浅野内匠頭公に対し半之丞を勘当にしたいと七度にわたって願書を差し出す。

そんな不道徳な人間ではない、半之丞のことを良く理解している浅野内匠頭は六度目までは願書を平兵衛に差し戻したが、こう何度も提出されては無視するわけにもいかない。仕方なしにに浅野内匠頭は半之丞にひとたび暇(いとま)を出す。そのうちには平兵衛も正気を取り戻して、半之丞を呼び戻すであろう。浅野内匠頭は半之丞に井上真改(いのうえしんかい)の一刀と金子200両を渡す。半之丞は涙を流して浅野内匠頭の厚情に感謝する。

二君に仕える気のない半之丞は、再び浅野家よりお召抱えの声が掛かる時まで待つ気である。それまでは町人として過ごすのがよいだろうと、赤穂から江戸に出てきた。芝口まで来て赤穂で魚を商っていた源次と偶然巡り合う。浪人をしたことを告げる半之丞。源次の伝手で一軒家を借り、半之丞は手習いの師匠になる。親切で評判がよく、たちまち20人ほどの寺子が通うようになる。

半之丞という人は大変な美男子で、湯屋に行く時分になると近所の若い娘が噂しあうが、堅物の半之丞は気にも留めない。やがて家主・吉兵衛の一人娘「おふじ」が、半之丞に恋煩いをする。七兵衛から「どうしても」と言われ、おふじを嫁に迎えることになる。まもなく二人の間には男の子が生まれ、半太郎と名付ける。

ある日のこと、所用があって半之丞は芝の増上寺まで向かう。そこで浅野家家臣の千馬三郎兵衛(ちばさぶろべえ)とバッタリ出会う。そこで千馬は、国許の半之丞の父親・平兵衛が殺されたことを話す。殺害したのは奥州浪人・大須賀次郎右衛門と半之丞の継母であるお岩。この二人が不義密通をし、邪魔になった平兵衛を毒殺し逐電したと言う。父親の死に涙を流す半之丞。そもそも父から不興を買ったのも継母お岩のせいであった。この二人への仇討を誓う。

妻・おふじの産後の肥立ちが悪くて乳が出ず、赤ん坊が虫を起こす。元禄14年3月14日、近所の人の勧めもあって、半之丞は芝白金の鬼子母神へ虫封じのお札を頂く。その帰り道、ザワザワと大勢の侍に囲まれて網乗物(あみのりもの)が一挺通過する。何事かと思っていると浅野家家臣の赤垣源蔵が現れた。赤垣は、千代田城松の廊下にて浅野内匠頭が吉良上野介へ刃傷に及んだこと、これから田村右京太夫の屋敷へ送られご切腹、浅野家も改易になるであろうと告げた。

これは国許へ帰らなければと思い、家へ戻ると、妻のおふじが急病でまもなく息を引き取ろうという時であった。主家の大事には変えられない。半之丞はこれから赤穂へ行くと言う。おふじのことは家主に頼み、半太郎を連れて半之丞は赤穂へと向かう。慣れぬ環境で半太郎の具合は日に日に悪くなっていく。

赤穂へ到着し、城代家老の大石内蔵助(くらのすけ)に対面する。暇になった身である半之丞がなぜここに来たのか。半之丞は主家のために働きたいとはせ参じたと言う。大石はいったん暇を与えたものは城に留め置くことは出来ないと言う。半之丞が戻ると倅の半太郎は死んでしまっている。「死んでくれた方がもうこの世に思い残すことは無い」と思う半之丞。半之丞は刀を突きたて自害しようとするが、そこへ大高源吾と神崎与五郎が現れ、これを押しとどめた。大石内蔵助から「主家のために尽くしてくれ」と許しが出たのだ。涙を流して喜ぶ半之丞。

吉良邸へ討ち入りが決まって、大石の命により半之丞はまた江戸へ引き返す。主君への仇討とともに、父親・平兵衛を殺害した二人を探しているがようとして行方は分からない。

ある日の夜のこと。半之丞は松坂町の辺りを歩いている。すると吉良邸の長屋から甘酒屋を呼び止める女がいる。この女こそ父親の仇である「おいわ」であった。あとで甘酒売りに尋ねると、先ほどの場所は大須賀次郎右衛門の長屋で、おいわという女と一緒に住んでいるとのことであった。次郎右衛門はおいわと夫婦になり、吉良の付け人になっていたのであった。

元禄12月14日、亡君浅野内匠頭の仇を取るため赤穂浪士47人は吉良邸へと討ち入る。浪士は二手に別れ、片方は表門から、もう片方は裏門から吉良邸に進入する。菅谷半之丞は大石主税(ちから)の方に属し、裏門から入り込む。半之丞は父親の仇である大須賀次郎右衛門を討つ許しを主税から得る。就寝していた次郎右衛門は山鹿流の陣太鼓で目が覚めた。表へ出たところで半之丞は「父親の仇だ」と名乗る。両者は12~13回討ちあったが、ついには半之丞の槍が次郎右衛門に突き刺さり、とどめをさす。「おいわ」は逃げ出そうとするところであった。これも続けて討つ。その後も半之丞を含めた吉良浪士は獅子奮迅に働きで、見事に吉良上野介の首を討ち取る。

赤穂浪士は、高輪泉岳寺へと引き揚げる。その隊列の中に半之丞の姿があるのを家主の吉兵衛は見る。ああ、倅の半太郎だけでも引き取っていれば、義士の子として讃えられたのにと悔やむ。主君の仇と父親の仇、両方を一度に取ったという、菅谷半之丞の話。

4.菅谷半之丞政利の辞世・遺言

辞世・遺言ともに無し。