忠臣蔵の四十七士銘々伝(その20)杉野十平次次房は私財を投じて同志を助けた

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杉野十平次

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.杉野十平次次房とは

杉野十平次次房

杉野次房(すぎの つぎふさ)(1676年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は十平次(じゅうへいじ)です。変名は杉野九一右衛門。

家紋・かりがね

八両三人扶持の杉野十平次に対し、母親の実家・萩原家は伯父の萩原兵助(赤穂浅野内匠頭家臣)が150石、同儀左衛門(赤穂浅野内匠頭家臣)は100石と裕福でしたが、開城時に不始末(*)がありこれを恥じて義絶しました。

(*)赤穂開城の時、母方の伯父達が先祖伝来の大筒を受城使の脇坂淡路守に売り払って藩中の怒りを買い、このことで次房は萩原一族と義絶しました。

赤穂浪士の中では比較的裕福で、赤穂退去時に家財道具を売り払って千両近くを所持していましたが、同志のために惜しげもなく資金を提供したことで知られます。

また剣術の使い手としても知られ、江戸では剣術道場を構え会合の場所にも使われました

2.杉野十平次次房の生涯

延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野家家臣・杉野平左衛門の四男として赤穂に生まれました。母は浅野家臣の萩原新左衛門の娘です。母方の萩原家は家中随一の資産家の家系で知られました。

次房は生まれた年に母を亡くし10歳で父と死別しています。

長兄杉野兵左衛門が杉野家の家督を継ぎ、次兄萩原三右衛門と三兄萩原平七は萩原家の養子に入りました。次房は杉野家の分家筋として8両3人扶持を支給され、札座横目に任命されました。

元禄7年(1694年)2月の備中松山城受け取りの軍にも従軍しています。

元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が江戸城で高家吉良義央に刃傷に及んだとき、杉野は赤穂に居ました。

4月、赤穂城開城の際に大伯父にあたる萩原兵助は、萩原家伝来の大砲2門を収城軍の脇坂家に売り払い、これが家中から批判されて、萩原一家は赤穂から逃亡しました。杉野も親族として肩身が狭かったと見え、このあと萩原家と絶縁しています。

赤穂城開城後すぐに江戸へ下向し、江戸急進派と一緒に行動しました。また杉野は萩原家から莫大な資産を受け継いでいたのでこれを同志たちの活動資金や生活費として惜しげもなく提供しました

元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋において特に親しくしていた前原宗房・倉橋武幸・勝田武尭・不破正種・武林隆重らとともに同盟の誓約をしています。

8月から三ツ目横丁より吉良邸のある本所へ住居を移し、吉良家の動向の監視にあたりました。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、三村包常とともに木槌で裏門を打ち壊す役割を担いました。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、長府藩毛利家上屋敷へ預けられ、元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣榊庄右衛門の介錯で切腹しました。享年28

戒名刃可仁劔信士で、主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られました。

3.杉野十平次次房にまつわるエピソード

(1)俵星玄蕃との逸話

杉野次房といえば俵星玄蕃との逸話が有名です。杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていましたが、この蕎麦屋の常連客俵星玄蕃と親しくなりました。

かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、浅野長矩の遺臣たちが吉良邸へ討ち入ったことを知り、すぐに吉良邸前(もしくは両国橋)にはせ参じました。

すると赤穂浪士達の中になんと蕎麦屋の十助がおり、2人は今生の別れを交わす。というものです。俵星玄蕃は架空の人物であり、杉野が夜なきそば屋になったというのも創作です。

この俵星玄蕃と杉野次房の話は文化の頃に講釈師大玄斎蕃格の創作した逸話です。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、また「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は『仮名手本忠臣蔵』の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字だそうです。

(2)『赤穂義士銘々伝~杉野十平次と俵星玄蕃』あらすじ

赤穂浪士四十七士の中に杉野十平次(じゅうへいじ)という者がいた。小禄であったが腕は立ち槍は宝蔵院流、剣術は神陰流の達人である。赤穂浪士はさまざまに身を変装し吉良邸の様子を探っていたが、十平次が思いついたのは夜鳴き蕎麦屋である。神田の古道具屋街で屋台一式をそろえ、蕎麦の玉は問屋で仕入れ汁は自分で作る。店の名を「当たり屋」と名付け、チンリンチンリン風鈴を鳴らし、「そばうぅ」と売り声を発しながら吉良邸の周りを歩く。四五日経った夜、吉良の屋敷の門番から声が掛かる。食べてみると盛りがよく味がうまい。翌晩も声が掛かり、蕎麦とともに寒さしのぎに十平次が所持していた酒を茶碗に注いで飲まし、門番たちにすっかり気に入られる。

十平次は荷が残っていたのでそのまま横網町へ向かう。旗本屋敷の蔀戸が開いて、若い男から注文の声が掛かる。1杯食べてみたがこれが美味く他の者たちからも注文が殺到する。杉野十平次は屋敷の中の道場に呼び入れられる。ここは俵星玄蕃(たわらぼしげんば)という槍の名人の先生の道場である。玄蕃は十平次から酒をご馳走になる。十平次は自分を元は岡山の百姓であったというが、玄蕃は彼が侍であることを見抜く。

これから毎夜、十平次は吉良の屋敷に通い、その後は俵星玄蕃の道場に向かうようになる。ある日十平次は吉良邸の門番に水を汲ませて貰いたいと頼む。よく知った蕎麦屋だからと門番は屋敷の内に十平次を入れ、その間に十平次は中の様子を探る。

月の冴えるある日、この夜も俵星玄蕃の道場の中に十平次はいる。玄蕃は「俵突き」を見せると言う。米俵の中に土をいっぱいに詰め、それを庭に二十俵ほど杉なりに積み上げる。玄蕃はそれら俵に槍を刺し次々に放り投げていく。その様子を見ていた十平次の目つきから玄蕃は彼が槍術に心得がある者だと気づく。

玄蕃先生は朝から酒をあおり稽古もろくにしようとしない。弟子たちは次々と去り、半月ほどで内弟子の藤馬(とうま)一人だけになる。日中、久しぶりに十平次が訪ねて来る。昼間なので屋台は担いでおらず、かまぼこを土産に渡す。玄蕃は十平次に話す。先日、上杉家から使いが来て120石で吉良上野介(こうずけのすけ)の付け人(従者)として仕えるよう話を持ち掛けられた。そうすると浅野様の仇討ちで大石内蔵助(くらのすけ)たち忠義の者たちと戦わなければならず、どうしようかと迷っているという。十平次が京都で遊び呆けていると聞く大石内蔵助には吉良様への仇討の意思などないだろうと返答すると、まともに相談にのろうとしない十平次に玄蕃は怒り、自分のことを武士だと思っていないだろうと道場から追い出してしまう。

討ち入りをする側にとって、槍の名人である俵星玄蕃が敵方に付くとなれば困ったことである。玄蕃は果たして吉良の付け人になるのか、ならないのか。十平次は石町鐘撞堂新道(こくちょうかねつきどうしんみち)の大石内蔵助にこの玄蕃の件を話す。何日かして十平次はまた道場を訪ねると、玄蕃は打って変わって上機嫌である。吉良の件は無くなり、加賀家から400石で仕官するよう話を受けたという。実はこれは玄蕃を吉良の付け人にさせないために原惣右衛門を使った大石内蔵助の計略であった。

12月14日の夜、寝ていた玄蕃はふと目が覚める。遠くから山鹿流の陣太鼓の音が聞こえる。これは赤穂浪士が吉良邸に討ち入ろうとしているのだ。助太刀をしようと槍を抱え、吉良の屋敷の方へ向かうと黒装束の男たちに遮られる。その中の一人こそ「当たり屋」こと杉野十平次であった。十平次もまた彼が俵星玄蕃であることに気付く。玄蕃は赤穂浪士に助太刀したいというが、十平次はそれは主君の望まぬことだと言って断る。そうすると玄蕃は両国橋のたもとへ駆けつけ、槍を突いて大手を広げ「赤穂浪士を邪魔だてする者は許さぬ」と立ち塞がるのであった。

赤穂浪士が本懐を遂げたとの話を玄蕃は聞きつけ、ニコッと笑って道場に引き揚げる。後日、泉岳寺で大石内蔵助と玄蕃は対面し、加賀家への仕官の話は嘘であったと大石は詫びる。この話が加賀様の耳に入り「忠義の士の言葉を嘘にしてはいけない」と、本当に玄蕃は400石で加賀家に召し抱えられたという。

4.杉野十平次次房の辞世・遺言

辞世は無し。

遺言:大家の長十郎あての遺書(討ち入り当夜の日付)

「長十郎殿 拙者共義、亡主内匠頭憤心散じ可申ため今晩可遂本意存立候。

先頃より緩々と致借宅、過分之至に御座候。以参謁右之御礼申入度存候得共、此節之義、態々差控、無其儀候。

別紙に書付申候。宜敷頼入存候以上 十二月十四日 杉野九一右衛門」