忠臣蔵の四十七士銘々伝(その24)富森助右衛門正因は大目付に討ち入りの口上書を提出

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富森助右衛門正因

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.富森助右衛門正因とは

富森正因(とみのもり まさより)(1670年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は助右衛門(すけえもん)です。変名は山本長左衛門。

富森氏の先祖は吉田神龍院の社領・山城国紀伊郡富ノ森郷の大百姓・佐助でした。佐助の子孫である初代・助右衛門は富森姓を得て旗本・ 中根正盛に仕えました。その子・富森助太夫の時に浅野家に新規名抱えとなります。字は下手でしたが、弁舌と政治力で留守居役に登りつめました。

家紋:丸に一枚柏

2.富森助右衛門正因の生涯

寛文10年(1670年)、赤穂藩御留守居役・富森助太夫の子として誕生しました。母は山本源五右衛門の娘です。

父が早くに死去したため幼くして浅野長矩に仕え、天和3年(1683年)に小姓になり、長矩の寵愛を受けました。元禄3年(1690年)に江戸詰馬廻兼使番200石となりました。

いついかなる御用を仰せ付かってもよいように20両の金子を常に懐に入れていたということです。

また、俳諧をたしなみ水間沾徳に師事し、春帆と号しました(ただし後に、水間は赤穂事件そのものは批判しています)。

元禄6年(1693年)12月、備中松山藩水谷家が改易となり、浅野長矩が収城使に任じられると、江戸から国許へ下準備を知らせる急使に任じられ、早駕籠で通常15日かかるところ6日で赤穂に到着し、家中の者たちを驚かせています。

また、長矩や大石が水谷家や松山領民から馬鹿にされたことに腹を立てています。

浅野長矩が勅使御馳走役に任じられ、元禄14年(1701年)3月、勅使が江戸へ下向すると高田郡兵衛とともに品川まで出迎え、伝奏屋敷まで案内しています。しかし、同年3月14日、江戸城松之大廊下での吉良義央への刃傷により、浅野長矩は切腹しました。

赤穂藩改易後は、川崎の平間村で赤穂藩邸の有機肥料を買っていた豪農・軽部五兵衛宅に母の隠居所を建てて移り、山本長左衛門と変名して隠れ住みました。平間村の隠居所は、元禄15年(1702年)10月、大石良雄の江戸下向に際しての宿に活用されています。

仇討ちが決まると、江戸の新麹町五丁目の借家へ移りました。早水満尭が装う小間物屋の奉公人という触れ込みで吉良邸の探索を行い、屋敷の構造から屋内での戦いが主体となると考え、屋内戦に有利な9尺の短槍を考案しました。

同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦いました。母から贈られた女小袖を肌につけ、姓名を記した合符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉」と書いていました。武林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねました。

赤穂浪士一行は浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ向かいましたが、正因は吉田兼亮とともに一行から離れて大目付仙石久尚の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出しました。

その後、大石良雄らとともに細川綱利の屋敷にお預けとなりました。幕府が求めた親類書に妻子を記入しておらず、討ち入り前に絶縁したと思われます。

接待役の堀内伝右衛門は「富森はよく泣いていた」と記し、切腹の覚悟ができていたらしく「皆の遺体は泉岳寺の一か所にまとめて葬ってほしい」と堀内に依願していました。 切腹の沙汰が伝えられた際には声を放って落涙しました。

元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により氏家平七の介錯で切腹しました。享年34

戒名は、刃勇相剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.富森助右衛門正因にまつわるエピソード

(1)母の下着を着て討ち入り

12月1日に「他行するのに寒い故下着をお貸し下されれ」と母の小袖を借り受け12月14日にはこれを下に着込んで斬り込んでいます。

堀内伝右衛門は「昔は戦場で母衣(ほろ)というものを背にして矢を防いだが、これと同じ文字である母の衣を着て討ち込まれるとは助右衛門の孝心が厚きが故であろう」と「堀内伝右衛門覚書」のなかで誉めています。

(2)大目付仙石伯耆守に自訴

引き揚げの途中で吉田忠左衛門と共に大目付仙石伯耆守久尚に自訴する(討ち入りの口上書を提出する)役を務めました。

(3)一緒に埋めてほしいと願い出

「堀内伝右衛門覚書」によると、泉岳寺で次のように願い出たそうです。

「十七人の者どもお願いがござる。十七人はそれぞれ宗旨も違いますので寺々の坊主や親類などが私共の死骸を引き取りたいと願い出るかも知れませんがどうか銘々に引き渡さないで泉岳寺のしかるべき空き地のある所へ、十七人ともひとつの穴へ埋葬していただきますようお願い致します」

(4)子孫

事件当時2歳だった正因の長男・長太郎(富森正福)は母方の叔父に預けられ、大赦後に壬生藩主で外様(譜代格)大名の加藤嘉矩(七本槍・加藤嘉明の玄孫、後に水口藩主)に仕え十人扶持の下士となりました。

正福は自身の下僕を斬殺して加藤家を致仕、甲賀から江戸に出て、宝暦2年(1752年)に赤穂義士子孫で唯一、泉岳寺の浅野遺臣五十回忌に参加しています(大石大三郎も生存していましたが参加した記録がありません)。

正福の嫡男・正屋(まさいえ)は同9年(1759年)に死亡、そのあと富森正幸(正屋の義弟)も水口藩に仕え郷士から二人扶持の下士になりましたが、不正があり切腹させられました

正幸の嫡男・正盈(まさみつ)はこれを逆恨みし、告発した藩の目付を殺害しました。寛政6年(1794年)、藩主・加藤明堯の命で富森正盈は死罪となり富森家は断絶しました。

(5)その他の親族

正因の母は赤穂事件から半年後に頓死しました。

弟・富森半左衛門は、絶縁したにもかかわらず、事件後、仕えていた小出家から放逐されました。

妹婿・赤尾金太夫も遠山家を追われ浪人となっています。

(6)『赤穂義士銘々伝~富森助右衛門』あらすじ

講談『赤穂義士銘々伝~富森助右衛門』では、内匠頭切腹の時、正因の母は深く憤り、不公平な裁きをした御政道を批判して、復仇をして武士としての本懐を果たすよう正因にいったとされます。

助右衛門は小間物屋に扮し、得意のお世辞を駆使して吉良家中に取り入りました。吉良家の和久半太夫から上野介在宅の日を探り出し、吉良邸への討ち入りは12月14日と決まりました。討ち入り前に助右衛門は「子細があって遠国へ赴くので、当分家には戻れない」と母に伝え、同志の集う饂飩屋久兵衛の店に向かいました。

討ち入りの引き上げで、富森は倉橋伝助とともに深夜にもかかわらず酒屋に勝手に入り「酒を出せ」と脅しました。主人は恐れ戦き、無理やり酒を出させられました。赤穂義士たちは店の前に酒樽を運び出し、大高子葉(源五)らが中心になり午前六時まで騒ぎました。

(ただし、実際の義士一行は上杉家や津軽家の追撃を警戒し、飲食せずに泉岳寺に急いでいます。一行が粥をたくさん食べたのは泉岳寺においてです。)

富森助右衛門正因(とみのもりすけえもんまさより)は、子供のころから赤穂藩の藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に仕えている。お役は馬廻り番兼使い番で禄高は200石であった。所作がきれいで礼儀正しく弁舌にもすぐれており、何事にも役立つ男でまわりの者からも信頼されている。また俳諧の才もあり、「夕顔に馬の顔出す軒端かな」という有名な句を残している。

元禄14年3月14日、浅野内匠頭は積もり積もった遺恨が元で、江戸城松の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に対して刃傷に及ぶ。上野介の傷は浅かったが、内匠頭は即日切腹、お家は断絶。

大石内蔵助(くらのすけ)をはじめとする赤穂浪士は、主君の無念を晴らすため吉良上野介への仇討を決意する。富森助右衛門も吉良の屋敷の様子を探るため、本所相生町二丁目に小間物屋の店を出す。主人は早水藤左衛門(はやみとうざえもん)、助右衛門は奉公人の体裁をする。助右衛門の父親は浅野家の留守居役であったので世間での立ち回りがうまかった。家を相続した倅の助右衛門も世辞を言うのがうまい。そんな助右衛門には小間物屋というのはうってつけの商売である。

毎日、高荷(たかに)を背負って一ツ目から両国界隈を歩くが、吉良の屋敷からはなかなか声が掛からない。ときどき食事をする居酒屋に吉良邸の中間(ちゅうげん)がおり、この者に取り入って屋敷への出入りが出来るようになる。品物が良く値段が安いので、屋敷中の評判になる。三日にあげず吉良邸を訪れるようになる。しばらくすると、ふだんはそれより奥は男性が立ち入れない御錠口(おじょうぐち)への出入りが許されるようになる。

女中相手に商売をするが、品質がよく値段も破格であるので櫛(くし)や簪(かんざし)が次々と売れる。助右衛門は女中たちからたちまちお気に入りになる。ある日、奥の方から綾(あや)という名の女中が出てきた。助右衛門は彼女の顔を見て驚いた。浅野家の家来、山岡角兵衛の妻であるお久である。

夫の死後、吉良の屋敷を探るために名を変えて女中になっていたのである。お久も小間物屋が助右衛門であることに気付く。お久は櫛を買い求めるが、周りに他の女中が幾人もいるので、2人は素知らぬ顔をする。

2日後のこと、今日は辺りに人はいない。お久は人目を盗んで密かに認めた書類を助右衛門に渡す。店に戻った助右衛門は、早水藤左衛門とともにその書類を見る。そこには吉良家の秘密が細々と書かれていた。

しばしば吉良邸に出入りする助右衛門には、どんどんと馴染みが増えていく。お世辞がうまいので、小林平八郎という侍に気に入られる。小林は近所に住む清水一角を紹介し、さらに和久半太夫に引き合わせる。半太夫は酒が好物で、ある日訪ねると昼から酒を飲んで真っ赤な顔をしている。半太夫は助右衛門に酒の相手をいたせと言う。助右衛門の物腰を見て半太夫は、お前は元は侍であったかと問うが、助右衛門は私は親の代からの商人ですと答える。

半太夫は語る。武士は主人の屋敷にこびりついていなければならない。お家が潰れれば浪人になる。その点町人は自由でいい。続けて半太夫は話す。当家の御隠居は近々遠くに行くことになる。自分もお供をしなければならない。助右衛門はハッと気づいた。吉良上野介は来春遠くへ行ってしまうのだ。となると今年中でないと仇討は難しい。助右衛門はすぐに大石内蔵助に伝え、吉良邸への討ち入りは12月14日と決まった。

助右衛門は芝・金杉の我が家へ戻り、母親の「たえ」、妻の「おはや」、倅の長三郎と久方ぶりに顔を合わせる。助右衛門は「子細があって遠国へ赴くので、当分家には戻れない」と伝える。母親は助右衛門が吉良邸への討ち入りに加わるつもりで、別れの挨拶にきたのだと気づく。なぜ隠すのか、本当のことを教えて欲しいと乞う。隠しきれないと思った助右衛門は、お察しの通りで14日に吉良邸へ討ち入ることになり、今日はお暇乞いに来たと語る。母親には身体を大切にしてくださいと言い、妻には母をいたわり倅を立派に育ててくれと言い、倅の長三郎には文武に励むようにと言い残す。母親は渡す物があると言い、奥の一間から取り出した白無垢で裏に紅絹(もみ)の付いた衣類を差し出す。討ち入りの時にこれを着て、立派な働きをしてくださいと語る。

討ち入りの日の12月14日、助右衛門は下に母親から与えられた白無垢を着け、上には山鹿流の袖印(そでじるし)の付いた黒羽二重(くろはぶたえ)を身に着ける。赤穂浪士のめざましい活躍で、首尾よく吉良上野介の首を討ち取ることが出来た。浪士一同は高輪泉岳寺へと引き上げる。

富森助右衛門は大石内蔵助らとともに細川家に預けられる。元禄16年2月4日、浪士の者たちは切腹になる。折しも今日は助右衛門の姉の忌日である。「先立ちし人もありけり今日の日を終(つい)に旅路の思い出にして」と歌を残し、助右衛門は相果てる。行年34歳。介錯をしたのは氏家(うじいえ)平九郎という者であった。

母親のたえはこの半年後に亡くなる。倅の長三郎は15歳の時に細川越中守の家来に宛てて手紙を送る。父親の介錯をした氏家平九郎に感謝の意を伝える書面で、これが細川公の耳に入る。感心した細川公は当家で長三郎を小姓として召し抱えることになったという。

(7)俳諧

今日も春 恥ずかしからぬ 寝武士かな

桐一葉 落ちて数寄屋の 春おそし

時鳥 鳴くかと起きて 聞く夜かな

人が(か)らの 一連そげ(け)て 土筆摘

月影に 馬鹿といはれて 行烏

一俵に 寒さをつつむ 土大根

花の後 含み洗ひの 妻と妻

飛び込んで 手にもたまらぬ 霰哉

4.富森助右衛門正因の辞世・遺言

先立し 人もありけり けふの日を 終(つひ)の旅路の 思ひ出にして

今日も春 恥かしからぬ 寝ふし哉

遺言:吉良左兵衛が領地召上の上、諏訪へお預けとなり本望です。老母のことを宜しくお願い致します。

<妻の実家と妹婿宛の手紙>

「菅少内殿、赤尾金太夫殿 一、私儀亡主之継意趣、上野介殿江推参仕候、相果候後、老母、井弟、妻子之儀何分にも可然様に、皆様奉頼候。以上 浅野内匠頭長矩家来 富森助右衛門正因 花押」