忠臣蔵の四十七士銘々伝(その36)三村次郎左衛門包常は台所役人だが極貧に耐え忠義を尽くした

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三村次郎左衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.三村次郎左衛門包常とは

三村次郎左衛門包常

三村包常(みむら かねつね)(1667年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は次郎左衛門(じろうざえもん)です。変名は町人喜兵衛・嘉兵衛・次郎右衛門。

開城をめぐる藩士総登城の場には身分の差別で出られませんでした。しかし大石内蔵助に神文を差しだし忠義を貫きたいと申し出ました。

家紋:丸に剣片喰

2.三村次郎左衛門包常の生涯

寛文7年(1667年)、三村喜兵衛(常陸稲田藩士)の子として生まれました。母は安積上閑(奥州の人で松平右近家臣)の娘です。

三村彦左衛門は常陸国で浪人後、笠間城主浅野長直に仕え赤穂転封で移ったようです。

包常は播磨赤穂藩に仕え、役職は台所役人(7石2人扶持)で、寺坂吉右衛門信行を除けば四十七士の中では最も身分が低い義士です。

元禄14年(1701年)3月14日に江戸城で主君浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び赤穂藩は改易されました。

赤穂城が開城された後も赤穂にありましたが、この間、包常は浪人した赤穂藩士たちの薪炭などの世話をしたことが、元禄14年(1701年)5月20日の中村正辰の書簡にあり、大石良雄からも感謝されたということです。

元禄15年(1702年)1月に山科へ赴いて大石良雄に神文血判書を提出しました。

10月に大石とともに江戸へ下向し、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に大石らとともに同宿しました。

身分が低いこともあって基本的に同志たちの間の連絡役に使われていたようです。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属し、杉野次房とともに裏門を木づちで破る役割を担いました。

その後、三河国岡崎藩主・水野忠之の中屋敷に預けられ、元禄15年(1703年)2月4日、水野家家臣田口安左衛門の介錯で切腹しました。享年37

戒名刃珊瑚劔信士で、主君長矩と同じ泉岳寺に葬られました。

3.三村次郎左衛門包常にまつわるエピソード

(1)生活苦

妻(名不詳)は浪居中に妊娠をしていましたが、堕胎の失敗により元禄15年2月に死亡する悲劇があり、討ち入り前に妻子の施餓鬼をして弔っています。

(2)低い身分ながら忠義を全う

身分の低い台所役人として会議の場に酒を運んで行くと秘密の話を聞かせまいと話を中断されました。そこで彼は憤然として、身分の上下で分け隔てするなら切腹して忠義の志をみせると抗議したそうです。

また別の説では、開城に際し籠城、殉死の議があった時、身分が賤しいため出席することが出来なかったそうです。

しかし身は小禄の者といえども、不義に生きて家名をはずかしめんものかと、ひそかに神文を内蔵助に出しました。

これを見た大石内蔵助は「家中には厚恩を受ける者も少なくない。大方は主家の難を憂えずして後先の考えばかりである。しかるに忠義の士はその方の如き小役人より出ずと。このうえとも励み候え」と励ましたということです。

(3)吉良邸への襲撃で裏門を打ち破る

その功績を小野寺十内が手紙に書いています。

此手はかけやを以て三村次郎左衛門三つ四つ戸ぴらを叩きて打ちやぶり

どっとおしこみすぐに上野介殿隠居の玄関へ押入り申候。その勢如何る天魔波旬も面を向ふべからずと思はれ候。

(4)『赤穂義士銘々伝~三村の薪割り』あらすじ

元禄15年のこと、主君・浅野内匠頭の仇を討つべく赤穂の浪士はそれぞれ姿を変え、本所松坂町・吉良邸の様子を窺っている。なかで三村次郎左衛門包常(かねつね)はボロ半纏を身にまとい薪割り屋として歩きまわる毎日である。ある日、三村は吉良邸に程近い本所緑町で、刀研ぎの名人と言われる竹屋喜平次光信(たけやきへいじみつのぶ)の家に呼び入れられる。「エィ、スパッ」。三村は薪の硬い部分を次々と斧で割っていく。「うまい、うまい」。薪をきれいに割る姿を気に入った竹屋光信は、次郎兵衛と名乗る三村に毎日家に来てもらうよう請う。

こうして何日か経ったが、言葉遣いといいその礼儀正しさといい竹屋光信には彼がただの町人とは思えない。本当は武家の出ではないのかと尋ねるが、三村は奥州・二本松の百姓の倅だなどと言ってごまかす。

この日も三村が竹屋を訪れると、何も書かれていない板がある。これは何かと尋ねると店の看板にしたいのだが、文字の書き手を探しているとのことである。浅野の家中でも一二という名筆であった三村は、討入りを目前にし何かをこの世に残したいと思ったのか自分に書かせて欲しいと頼み、「御刀研上処竹屋喜平次光信」と見事に書き上げる。

それからしばらく三村は竹屋に姿を見せなくなった。今度はいつ来るのだろうと思う竹屋の人々。その間に12月14日の吉良邸討入りが決まり、三村は大石蔵之助から討入りに用いるよう名刀・彦四郎貞宗を渡される。袴姿の三村は竹屋光信の元を訪ねる。今度は自身を二本松・丹羽家の家臣・小松次郎左衛門だと名乗り、故郷への土産話にするために彦四郎貞宗を江戸でも名高い研ぎ師、竹屋光信に研いでもらいたいと頼む。4日経って刀は見事研ぎあがる。研ぎ料として金子を渡し、次に出府するまでに研いでおいて貰いたいと永正祐定(えいしょうすけさだ)の刀を預ける。三村が竹屋から去ろうとするときに庇が新しくなっていることに気付く。庇を支えているのは真金より硬いと言われる桑の腕木で、研ぎあがったばかりの彦四郎貞宗を振り下ろすと、スッパリと真っ二つに斬れてしまう。

赤穂義士は12月14日夜吉良上野介の首を討ち取り、江戸の市中は大騒ぎである。15日の早朝、竹屋光信もまた人垣をかきわけ泉岳寺へと引き揚げる赤穂義士の一行を見物するが、その中に見知った顔がある。次郎兵衛、さらに小松次郎左衛門と名乗った方は実は浅野様の忠臣であった。三村の前で涙する竹屋光信。2度も名を偽ったことを詫びる三村。彦四郎貞宗の斬れ味が鋭かった旨を伝え去っていく。

これから三村の遺した看板、永正祐定の刀、桑の腕木を見物をしに竹屋を次から次へと人々が訪れる。この話は加賀前田家にも伝わり、竹屋光信は前田家に召し抱えられ、九十余歳の長寿を保ち大往生を遂げたという。また三村次郎左衛門包常はよく知られている通り、元禄16年2月4日、水野の屋敷で切腹し、武士の道を貫いた。

4.三村次郎左衛門包常の辞世・遺言

雪霜の 数に入りけり 君が為め

遺言:母への手紙

「私事、今は十五日のあけ方、上野介の裏門を一番に打ち破り、入ったところ上野介と一緒にいた者に出会ったのでこれを討ち果たし、無事に泉岳寺へ引き揚げたところ、特に内蔵助に呼ばれて、吉良邸における働きを褒められた」