忠臣蔵の四十七士銘々伝(その38)村松三太夫高直は母に孝養を尽くせと諭されたが初志貫徹

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村松三太夫高直

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.村松三太夫高直とは

村松三太夫高直

村松高直(むらまつ たかなお)(1677年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は三太夫 三大夫(さんだゆう)です。変名は荻野十左衛門・植松三太夫。

家紋:違い扇

2.村松三太夫高直の生涯

延宝5年(1677年)、赤穂藩士・村松秀直の長男として誕生しました。母は村松茂清の娘です。赤穂藩では家督前の部屋住みの身でした。

元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際、高直は父・秀直と江戸にありました。

そして父とともに赤穂へ行き大石良雄に神文血判書を提出して江戸へ戻りました。その後しばらくは秀直と行動を共にしていたようですが、やがて秀直とは別に芝源助町の借家に移り住み、礒貝正久や茅野常成と同居しました。

荻野十左衛門・植松三太夫などの変名を使っています。父とともに吉良邸討ち入りに参加し、裏門隊に所属しました(父の秀直は表門隊)。大石良雄が「敵ながら天晴れな者」と称賛した榊原平右衛門を斬りました。

吉良邸へ討ち入り、武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、水野忠之の屋敷にお預けとなり、同家家臣広瀬半助の介錯で切腹しました。享年27

戒名刃清元剣信士で、浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

3.村松三太夫高直にまつわるエピソード

(1)父から母に孝養を尽くせと命じられる

江戸詰めの父は浅野内匠頭の処遇に大いに憤激し、大石内蔵助は必ず仇討ちの挙に出るであろうと赤穂に行くことを決めます。出立の前「生きて母に孝養を尽くせ」と高直に命じました。

しかし、気骨のある息子はひそかに後を追い大森、川崎と過ぎて神奈川で声をかけ、許しを得てともに赤穂に赴き義盟に加わりました。

再び江戸に戻った三太夫は初め父とともに八丁堀にいましたが、芝源助町に居を移し礒貝十郎左衛門、茅野和助らと同居して吉良邸の探索にあたりました。

(2)創作の逸話

祖父は町人でした。薪割り屋に変装して吉良邸を探りますが、吉良の様子がなかなか掴めないと苛だち、同志に八つ当たりします。

4.村松三太夫高直の辞世・遺言

極楽を 断りなしに 通らばや 弥陀(みだ)諸共(もろとも)に 四十八人

人はたゞ いはぬ色おや 惜しむらん 浮世の名さへ 口なしにして

遺言は無し。