大化の改新の中心人物「藤原鎌足」の墓は高槻市の「阿武山古墳」にあります

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大化の改新

わがふるさと「高槻市」は、弥生時代から農耕をする人々の集落(安満遺跡)、があり、古事記や日本書紀にも記述がある「継体天皇」の陵墓があり(今城塚古墳)、戦国時代から江戸時代初期にはキリシタン大名として有名な高山右近が治めるなど、歴史の古い町です。

その他にも歴史上の有名人物である「藤原鎌足(生前の名前は中臣鎌足)」の墓があるのですが、こちらはあまり知られていません。

1.大化の改新とは

「大化の改新」とは、飛鳥時代の646年に発布された「改新の詔」に基づく政治改革です。具体的には、豪族による連合政権である大和政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする「律令国家」成立を目指す内容です。、「大化」は日本最初の「元号」でもあります。

この政治改革は大和政権の有力豪族であった蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅亡させた事件「乙巳(いっし)の変645年)」から始まりました。

その中心人物が中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)でした。この改革によって、豪族中心の政治から天皇中心の政治に移行しました。

2.藤原鎌足とは

藤原鎌足(614年~669年)は、飛鳥時代の政治家で日本の歴史上最大の氏族「藤原氏」の始祖です。元々は中臣氏の一族で、生前は中臣鎌足と名乗っていました。臨終に際して、天智天皇(626年~672年)から大織冠(だいしょくかん)とともに「藤原姓」を賜りました。

ちなみに、「大織冠」とは647年から685年まで用いられた冠位の最上位で、史上藤原鎌足だけが授かっています。

彼は早くから中国の史書に関心を持ち、「六韜」を暗記しています。遣唐使として留学した南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされます。

日本書紀によると、644年に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められましたが、固辞し摂津国三島(現在の高槻市・茨木市付近)の別邸に退いたとされています。

彼は、死の間際に見舞いに来た天智天皇に対して「何も思い残すことはありません。葬儀は質素にして民に迷惑が掛からないようにお願いします」と言ったと伝えられています。

3.阿武山古墳とは

藤原鎌足は死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られています。また大阪府四條畷市の忍陵神社の主祭神ともなっています。

彼の墓については、確定的なものはありませんが、「日本三代実録」には「多武峯を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」との記述があり、平安中期成立の「多武峯略記」には「最初摂津国安威(現在の大阪府茨木市の大織冠神社)に葬られたが、後に大和国多武峯に改葬された」との記述があります。

阿武山古墳は、大阪府高槻市奈佐原と茨木市安威にまたがる古墳で、国の史跡に指定されています。1934年に京都大学の阿武山地震観測所拡張工事のため、土を掘り下げている途中に偶然発見されました。通常の古墳のような盛り土はなく、浅い溝で直径82mの円形の墓域です。

2013年の関西学院大学の調査により、阿武山古墳で発見された棺に入っていた冠帽が、当時の最高級の技術で作られ、金糸が織り込まれていることが判明しました。日本書紀によれば、彼は臨終に当たって天智天皇から最上の冠位「大織冠」と大臣の位を贈られたとされており、この冠帽がそれではないかと考えられています。

なお「陰陽道」の立場から、阿武山古墳の位置は神泉苑の「裏鬼門」に当たり、怨霊を鎮める役割があるとの説もあります。