アメリカがペリーを派遣して幕末の日本に「開国」を迫った本当の理由は何か?

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ペリー

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」という幕末の狂歌があります。

1853年6月の幕府の大混乱ぶりを風刺した有名な狂歌ですね。

ところで、アメリカのフィルモア大統領がペリー提督を派遣して、この時期になぜ日本に「開国」を迫ることになったのでしょうか?今回は、開国から条約改正に至るまでの歴史を振り返って見ましょう。

1.アメリカが日本に「開国」を迫った本当の理由

当時アメリカは、北半球で盛んに「捕鯨」を行っていました。その目的は、クジラから取れる油(鯨油)を手に入れるためです。当時鯨油は貴重な燃料でした。

その途中にある日本が、食料や水、薪炭を補給する捕鯨基地として好都合だったのです。

余談ですが、現在、当のアメリカが「反捕鯨国」のひとつとして日本の捕鯨を非難しているのですから「手前勝手」も甚だしいと私は思います。「国際世論」なるものを気にして、「国際的に理解を得るために丁寧に説明責任を果たすべき」という主張もありますが、「聞く耳を持たない相手」ですから、説得は不可能です。

もう一つの理由は、貿易の相手国としての市場の獲得です。武力によって開国させ有利な条件で貿易を始めようと目論んでいた訳です。

最後に究極の本当の理由は、当時欧米列強は「帝国主義」政策を取っており、領土と資源、市場を求めて植民地を獲得することです。当時中国はすでに欧米列強によって植民地化されていました。これは、アメリカに限らず、ロシアやイギリス、フランスも同様です。

ペリーは最初から浦賀へ来たのではなく、大西洋を越えてアフリカ・インド洋を経て、シンガポール・香港・上海を回って、まず沖縄の那覇港に到着しています。

彼は、日本へ来る途中の大西洋のマディラ諸島から米本国のケネディ海軍卿あての手紙の中で、「もし日本政府が港の提供を拒否し、武力と流血が必要となるようなら、琉球群島を手に入れよう」と言い、おまけにこの琉球は「長年薩摩藩に支配され、軍備も持たされていないから、反抗する手段を持っていない」と書いています。

沖縄の次に彼は小笠原諸島に行きますが、彼は「日本旅行記」に「余の計画は、小笠原諸島の主島父島の二見港に一植民地を建設することにして」と書いています。

日本は開国を余儀なくされ、不平等条約を締結しますが、「富国強兵政策」によって欧米列強に急速に追いつく努力を行い、欧米列強による植民地支配を免れることになります。

2.幕末におけるロシアの動き

幕末に海防論が論じられる発端となったのは、1778年に北海道厚岸に来たロシア人ラストチキンが松前藩に交易を求めたことです。ロシアは、交易もさることながら、「不凍港」を求めて「南下政策」を取っている訳です。このロシアの接近に対して蝦夷の処理をどうするかで始まりました。

その後も、1792年にラクスマン、1804年にはレザノフが来航しています。

「積極的海防論」は、工藤兵助、林子平、本多利明、佐藤信淵らが唱えたもので、ロシアの南下を防ぐために蝦夷地に進出し、その経営に着手すべきと説きました。

中でも、林子平は、「海国兵談」(1787年~1791年刊行)で海防の具体策を論じており、それは後の国防策の指針となりました。

一方、「消極的海防論」は、中井竹山、中井履軒らが唱えたもので、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地を開発経営することは、いたずらに国力を消耗するものであると説きました。

田沼意次の「蝦夷地開発計画」を中止させた松平定信は、はじめは消極論者でした。

3.幕末におけるイギリスの動き

ロシアのみならず、諸外国船の進出が激しくなり、1802年には「蝦夷奉行」(のちに箱館奉行、松前奉行)が設置されています。

1808年に長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件(フェートン号事件)によって、江戸幕府全体が「積極的海防論」に傾いて行きます。

幕末・明治維新前夜は、イギリスは「日本の内戦」に付け込んで薩摩藩と長州藩をけしかけ、武器弾薬を売りつける「死の商人」となります。グラバーがその代表格です。グラバーは幕府側へも武器弾薬を販売しています。

イギリスは、インドで製造したアヘンを清に輸出して巨額の利益を得ていました。アヘンの蔓延に危機感を募らせた清がアヘンの全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、イギリスが戦争を仕掛けたものです。これが「アヘン戦争」(1840年~1842年)です。

この戦争に勝利したイギリスは、1842年に南京条約を締結し、「香港島」を割譲させ、直轄植民地としました。その後、1860年の北京条約で「九竜半島」の南部を割譲させます。さらに帝国主義列強による中国分割が進む中で、1898年には九竜半島北部とその周辺の島嶼をイギリスが「99年間租借」することになります。

蛇足ですが、最近の香港情勢について触れます。1997年に香港はイギリスから中国に全面返還されましたが、イギリス統治時代からの資本主義・民主主義の制度や考え方が浸透した香港の人々にとっては、中国共産党の一党独裁政権が定めたいびつな「一国二制度」も期限付き(香港返還日から50年間)である上、最近の「逃亡犯条例改正案」問題もあって不安感や不信感が募り、デモが続いているのだと思います。

4.幕末におけるフランスの動き

幕末・明治維新前夜は、フランスは「日本の内戦」に付け込んで江戸幕府に洋式軍隊を作るよう働きかけ、武器弾薬を売りつける「死の商人」となります。


その時、勤王志士・朝廷、慶喜政権、江戸幕府らは、西郷隆盛・大久保利通・薩摩藩年表帖 上巻 ペリー来航から王政復古まで、時系列でわかる! [ ユニプラン編集部 ]

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