平家物語は誰が何の目的で書いたのか?また、どのようにして流布したのか?

フォローする



平家物語絵

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。・・・」で始まる「平家物語」は、高校の古文で習いますのでご存知の方が多いと思いますが、詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか?

そこで今回は平家物語について分かりやすくご紹介したいと思います。

1.「平家物語」とはどういう物語か?

「平家物語」は、平家の栄華と没落を描いた軍記物語です。当初は「治承物語」と呼ばれていたようです。成立年は未詳ですが、鎌倉時代前期の「承久の乱」(1221年)以前の作と推定されています。文中にしばしば「方丈記」からの引用がありますので、「方丈記」が執筆された1212年以降であることは確実です。

「編年体」(年代順の記述)と「紀伝体」(人物の逸話が中心)とを併用しながら、平氏の興亡を描いた叙事詩的歴史文学です。

平氏の運命を「無常観」によって説き、仏教思想が色濃いものの、儒教色も見られます。文章は、和漢混交文、七五調を主体とする律文と散文とを織り交ぜた詩的なもので、「国民的叙事詩」ともいわれています。「滅びの美学」でもあります。

(1)あらすじ

桓武天皇の血筋を引く平家は、平安時代には没落していた時もあり、平清盛の父・平忠盛は備前一国の国主でしかありませんでした。しかし、忠盛の後を継いだ清盛の時代、日本に66国あったうち30あまりの国を支配するまでになり、清盛は太政大臣に上り詰めます。清盛の義理の弟の平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と嘯き、権勢を誇っていました。

一方で、皇族、貴族、武士、僧侶などから反平家勢力が結束して行きます。木曽の源義仲、伊豆に流罪となっていた源頼朝などが相次いで平家打倒の旗を上げます。義仲は平家軍を俱利伽羅峠の戦いで破り、京の都に入ります。平家は四国の屋島を拠点に、四国、山陰、山陽などの国々を奪い返し、都の義仲、東国の頼朝、西国の平家という三つ巴の状態になります。

しかし、頼朝が弟の範頼、義経を都に上らせ、まずは義仲を破ります。次いで平家を西国に追い詰め、最後は長門の国(山口県)の壇ノ浦で平家軍を打ち破ります。清盛の妻・時子は、孫である幼い安徳天皇を抱きかかえ、「あの波の底にこそ、極楽浄土というめでたい都がございます。そこへお連れするのです」と海に身を投げました。

(2)物語に出てくる事件や出来事

①「保元の乱」と「平治の乱」

「保元の乱」(1156年)は、平安時代末期に天皇家や公家が自らの内部抗争の解決のために武士の力を借りたことで、武家政権につながるきっかけとなった争乱です。鳥羽法皇の皇位継承をめぐって、後白河天皇側が崇徳上皇側を破った戦いです。この時、藤原氏、平氏、源氏はともに身内が二つに分かれて争う骨肉相食む戦いとなりました。

「平治の乱」(1159年)は、後白河上皇の近臣の争いです。藤原通憲・平清盛側が藤原信頼・源義朝側を破り、平清盛が高位に就くなど平氏の全盛時代をもたらします。これは「源平合戦」と呼ばれる「治承・寿永の乱」(1180年~1185年)の前哨戦のようなものです。

②「富士川の戦い」

平氏の横暴に不満を持った「以仁王(もちひとおう)」(後白河天皇の第三皇子)が諸国の源氏に挙兵を命じる令旨を発し、これを受けた源頼朝が「富士川の戦い」(1180年)で平家軍を破り、頼朝は鎌倉で東国の長となります。

③源義経の快進撃「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」

「一ノ谷の戦い」(1184年)は、源頼朝が派遣した義経・範頼軍が須磨・一ノ谷で平家軍を破った戦いです。「鵯越の逆落とし」や「平敦盛の最期」の話が有名です。

「屋島の戦い」(1185年)は、源義経が暴風雨を冒して阿波椿浦に渡り、屋島に布陣する平家軍を襲って破った戦いです。「那須与一の扇の的当て」の話が有名です。

平家物語那須与一

「壇ノ浦の戦い」(1185年)は源平合戦の最後の戦いです。この戦いは海上戦で強い水軍を持つ平家軍が最初は優勢でしたが、義経の「水夫を矢で狙い、船の機動力を奪う」という奇策で挽回し、平家軍を全滅させます。「義経の八艘跳び」と「安徳天皇の入水」の話が有名です。

安徳天皇入水

④源義経の最期

「壇ノ浦の戦い」で活躍し、平家滅亡に大きく貢献した源義経ですが、頼朝に憎まれて、はじめ吉野に隠れその後奥州平泉に下りますが、1189年に討伐されます。

2.誰が何の目的で書いたのか?

(1)作者

作者については諸説あり、正確なところはわかっていません。ただ吉田兼好が「徒然草」の中で「信濃前司行長という人物が作者で、盲目の生仏(しょうぶつ)という人に覚えさせて語らせた」という記述があり、有力な説となっています。

①信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)

関白九条兼実(1149年~1207年)の「家司(けいし)」(家政を掌る職)であった中山行隆の子で、鎌倉初期の人物(生没年不詳)です。

「徒然草」によれば、信濃の国司を務めたことがあり、後鳥羽院の時代に出家。天台座主慈円(1155年~1225年)の庇護のもとに「平家物語」を書き、琵琶法師の生仏(しょうぶつ)に語らせたということです。

信濃前司行長は公家に仕える者なので、武士や武術のことはあまり詳しくありませんでしたが、琵琶法師の生仏が東国の者であったので、武士や武術のことについては、直接東国武士に当たって取材させ、それをもとに執筆したということです。

②藤原行長

これは「徒然草」の「信濃前司行長」が「下野前司行長(しもつけのぜんじゆきなが)」の誤りだとして、下野守(しもつけのかみ)であった藤原行長が作者だとするものです。

藤原行長(生没年不詳)は、鎌倉時代初期の公家・歌人で、藤原北家勸修寺流、左大弁・藤原行隆(1130年~1187年)の子です。官位は従五位下・下野守、蔵人で、関白・九条兼実の家司でもありました。1205年の「元久詩歌合」に出詠するなど、漢詩文に優れていました。

また、父・行隆が、法然と関係の深い重源が勧進した「東大寺盧舎那仏像再建の造仏長官」に任ぜられたこと、九条兼実は法然に帰依していたこと、異母弟の信空が法然の弟子であったことなどから、行長が書いた平家物語には情緒的な「浄土思想」が底流にあるとするものです。

このような傍証を見ると、私には②の方が本当の作者らしい気がしてきます。

③葉室時長(藤原氏)

葉室時長は中山中納言藤原顕時の孫です。なお、②の藤原行長も藤原顕時の孫です。

④西仏(法然門下の僧侶)

この西仏は、大谷本願寺などの縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子の幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曽義仲の軍師として、平家物語にも登場する人物です。

なお、以上の「作者」説以外に、「平家の人々を死に追いやった為政者(朝廷と源氏)が、平家討伐中と滅亡直後に次々と起こった天変地異を平家怨霊の仕業と怖れて、国家安寧のためにその鎮魂を目的として、大きな国家的レベルで編纂した」という仮説もあります。

(2)執筆動機と目的(私の個人的仮説)

作者が上記(1)②の藤原行長だと仮定すると、浄土宗の開祖・法然(1133年~1212年)に深く帰依していた「九条兼実の指示を受けて藤原行長が、「浄土宗の全国への布教目的、自分が京の都で実際に見聞したり戦いの様子を生仏を通じて聞いたりしたことを、「無常観を目の当たりにするような平氏の興亡の歴史・軍記物語」を、「布教活動も担う琵琶法師の弾き語りに適したように得意の漢詩文を駆使して書き上げた」のではないでしょうか?

(3)時代背景

①「方丈記」と同時代

「平家物語」と同時代に生きた鴨長明(1155年~1216年)の「方丈記」には、当時の日本で起こった「5つの災厄」が挙げられています。1つは「人災」(平清盛による福原遷都と、その失敗)ですが、あとの4つは大きな自然災害(「天変地異」や「飢饉」)です。これは「平家物語」に引用されています。

安元の大火(1177年、長明22歳)、治承の竜巻(1180年、長明25歳)、養和の飢饉(1181年~1182年、長明26歳~27歳)、元暦の地震(1185年、長明30歳)

②「末法思想」

「末法思想」とは、「釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、最後には人も世も最悪となり正法が全く行われない時代(末法)が来るとする歴史観です。

平安時代ごろからこの思想が広まり、特に1052年は「末法元年」とされて人々に恐れられ、経塚造営が盛んに行われたそうです。治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつありました。

また仏教界でも、天台宗をはじめとする諸寺の腐敗や、僧兵の出現により退廃して行きました。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるために厭世的な思想に傾倒するようになります。

将来に明るい見通しが持てない閉塞感のある現代の状況と似ているような気もしますね。

浄土宗の開祖法然は、この「末法思想」に立脚して、「末法濁世の衆生は、阿弥陀仏の本願力によってのみ救済される」とし、称名念仏による救済を広めました。

3.どのように流布したのか?

現存する諸本は、「語り本」と「読み本」の二系統に分かれます。

「語り本」とは、琵琶法師が日本各地を巡って口承で伝えて来たものです。「読み本」とは、読み物として見せるために増補されたものです。

「語り本」は、盲目の琵琶法師によって、琵琶を弾きながら語られましたが、これを「平曲」と呼んでいます。

(1)琵琶法師の弾き語り

琵琶法師

もともと平家物語は、盲目の僧「琵琶法師」によって中世から近世にかけて広められました。琵琶法師は全国に存在していましたので、物語も全国に広まったと考えられています。物語を琵琶伴奏で語る琵琶法師は平安時代からいましたが、鎌倉時代には平家物語を語る「平家琵琶」と経文を唱える「盲僧琵琶」に分かれました。

琵琶法師たちは、平家と源氏の熾烈な戦いで命を落とした多くの武士たちの鎮魂の気持ちも込めて、全国を旅しながら物語を語り継いでいったようです。

平家物語はこのように口承で語り伝えることを前提に書かれたものであるため、「肩をづんど跳り越えてぞ戦ひける」「むずと組んでどうと落つ」のように擬態語を使って武士の活躍を生き生きと描いています。

(2)書写(写本)

平家物語写本

「平家物語」の「読み本」の「書写(写本)」もおこなわれたようです。1240年に藤原定家によって書写された「兵範記」(平信範の日記)の「紙背文書(しはいもんじょ)」に、「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあります。

ちなみに「紙背文書」とは、「和紙の使用済みの面を反故(ほご)として、その裏面を利用して別の文書(古文書)が書かれた場合に、先に書かれた面の文書」のことです。

江戸時代中期の「長門本」は、「読み本系」の美麗な写本です。表紙に金泥で草木を描き、見返しは金字亀甲文様です。

(3)活版印刷の本

平家物語古活字本

下村時房(生没年不詳)が慶長年間(1596年~1615年)に刊行した古活字版「平家物語」が、「古活字版」の中でも最初期の活字本のようです。これは「語り本系」です。

天草版平家物語

なお、イエズス会が活版印刷機を使って1592年に刊行した「天草版平家物語」というのもあります。これは右馬之允の求めに応じながら喜一検校が当時の口語で語るという問答形式でまとめられた「ローマ字本」です。現存するのは、「伊曾保物語」と合冊された大英博物館蔵本のみです。

平家物語印刷

そして江戸時代になると、活版印刷による活字本で大量に流通する「流布本」が現れます。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする