前に陰謀によって2年で退位した「花山天皇」の記事を書きましたが、今回は同じく2年で退位した父親の「冷泉天皇」についてご紹介したいと思います。
1.冷泉天皇とは
冷泉天皇(れいぜいてんのう)(950年~1011年、在位:967年~969年)は、第63代天皇です。村上天皇(第62代)の第二皇子で、母は藤原師輔の娘の中宮安子です。円融天皇(第64代)の同母兄にあたります。
時の権力者であった藤原実頼・師輔兄弟の後ろ盾で、母親の身分が低かった異母兄の第一皇子広平親王を押しのけて、生後間もなく皇太子となり、村上天皇の崩御を受けて満17歳で即位しています。
中宮は、朱雀天皇(第61代)皇女の昌子内親王ですが、女御には藤原伊尹の長女の藤原懐子と、藤原兼家の長女の藤原超子がいます。
2.冷泉天皇の奇行
17歳であれば「親政」してもおかしくないのですが、「奇行が多い」という理由で母方の大伯父である藤原実頼が「関白」となりました。
30年ほど後の学者大江匡房(おおえのまさふさ)(1041年~1111年)が「江記」に書き記しているところによると、
・足が傷ついても一日中蹴鞠をしていた
・子供の頃、父の村上天皇からの手紙の返事に男性のシンボルの絵を送りつけた
・清涼殿(天皇の住居)の近くにある見張り小屋の上に座り込んだ
・病気のため寝込んでいる時、大声で歌を歌った
・院御所が火事になり避難する途中、牛車の中で大声で歌を歌っていた
のような奇行があったとのことです。
ただし、この「奇行」というのは、「気の病」(精神的な病気)とも言えますが、彼が皇位継承者をめぐる藤原氏の政治権力闘争に巻き込まれた結果「でっち上げられた噂」もあるかもしれません。
3.次期天皇問題
こういった「奇行」と生来の病弱さのため、即位直後から次期皇太子問題が浮上しました。
次期天皇として有力視されたのは、村上天皇の第四皇子(冷泉天皇の同母弟)の為平親王と第七皇子(冷泉天皇の同母弟)の守平親王(後の円融天皇)の二人でした。
普通に考えれば、為平親王を天皇にするのが順当ですが、為平親王の舅(妃の兄)である源高明(みなもとのたかあきら)(914年~983年)の台頭を望まない藤原氏が為平親王の失脚を狙って画策します。
余談ですが、源高明は源氏物語の光源氏のモデルと目される人物の一人です。また源氏物語は「架空の物語」ですが、朱雀院と冷泉院という実在の天皇・法皇と同じ名前が登場しています。ただし、これはそれぞれ「朱雀院という所にいる法皇」「冷泉院という所にいる法皇」という意味で使われており、実在の法皇を指してはいません。
源高明は、醍醐天皇(第60代)の第十皇子で、臣籍降下したとはいえ、実質皇族のようなものでした。
4.安和の変
「安和の変」とは、969年に「源高明が為平親王を擁し、皇太子守平親王の廃立を図っている」との源満仲の密告により、左大臣源高明が流罪に処せられた事件です。これは右大臣藤原師尹が源高明のような他氏を排除するために企てた陰謀事件です。
事件後に藤原師尹は左大臣に、大納言藤原在衡は右大臣にそれぞれ昇任しています。以後、摂政・関白が常置され、藤原氏の全盛時代に入ります。
この「安和の変」の結果は藤原氏にとって有利なものとなり、この年のうちに冷泉天皇は円融天皇に譲位して「冷泉院」と呼ばれるようになります。退位後は気楽に暮らしたようで、61歳で亡くなりました。
「年へぬる竹の齢(よはひ)をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」という和歌を残しています。
以後、後一条天皇(第68代)の即位まで約50年間、弟の円融系との「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続きました。そして円融系を父方、冷泉系を母方とする曽孫の後三条天皇(第71代)の即位で両皇統が融合されることになりました。
5.天皇家と藤原摂関家
冷泉天皇の前後の天皇家と藤原摂関家との姻戚関係は、上の家系図のように密接かつ複雑に絡み合っています。
余談ですが、「源氏物語」を書いた紫式部が仕えたのは、一条天皇(第66代)の中宮彰子(藤原道長の娘)です。「枕草子」を書いた清少納言が仕えたのは、一条天皇の中宮定子(藤原道隆の娘)です。