小林一茶はどんな人物でどんな生涯を送ったのか?わかりやすくご紹介します

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小林一茶

小林一茶と言えば、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」や「やせ蛙負けるな一茶これにあり」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」など子供や小動物を慈しむような俳句が有名ですね。

今回は小林一茶の生涯と経済的側面や一門などについて、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.小林一茶の生涯

(1)生い立ち

小林一茶(本名:小林弥太郎)(1763年~1828年)は、信濃国(現在の長野県)北部の農家に生まれました。

彼は松尾芭蕉(1644年~1694年)、与謝蕪村(1716年~1784年)と並び「江戸の三大俳人」と称されています。

彼はわずか3歳で生母を亡くしています。その後8歳の時に再婚した父が迎えた継母とは折り合いが悪く、新しい家族にはあまり馴染めませんでした。

(2)15歳で江戸奉公へ

唯一の味方であった祖母が亡くなると、彼は長男であるにもかかわらず、15歳で江戸へ奉公に出されます。25歳までの10年間の奉公時代は非常に苦しい生活だったようです。

(3)俳諧の道に入る

そして20歳を過ぎた頃に、二六庵竹阿(にろくあんちくあ)(1710年~1790年)に師事して俳諧を学び始めます。

(4)俳諧修業の旅

竹阿の没後は、溝口素丸(みぞくちそまる)(1713年~1795年)に入門し、その庵に住み込みで俳諧修業を続けています。

1792年3月から6年間、彼は江戸を立って西国行脚に赴き、二六庵竹阿の弟子を頼って関西・四国・九州を巡歴し、俳諧修業をしています。

これは当時の俳諧師の修業の習慣に従ったものです。師匠から各地の俳人への紹介状を渡され、各地を行脚する中でそういう俳人を訪ね回り俳諧の腕を磨いたのです。

(5)師匠の二六庵竹阿の教え

ただし、師匠の二六庵竹阿は彼に対して「俳諧に没頭するあまり家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら生活すること」を厳しく戒めています。これは竹阿自身の体験に基づく忠告だったようです。

竹阿は「俳諧修業の旅を続けるよりも、まずはきちんとした職に就き、父母への孝養を怠らず、その上で俳諧に取り組むべきだ」と諭したのです。また、諸国を放浪しながら俳諧修業を行う俳諧師は真の俳諧師ではなく、ただ風雅を切り売りしているに過ぎず、自分もそのような過ちを犯してきたと告白しています。

1798年からは、俳人の夏目成美(なつめせいび)(1749年~1817年)の庇護を受けています。

(6)父の看病と遺産相続争い

1801年、病に倒れた父の看病のために故郷に戻りますが、看病の甲斐もなく、父は間もなく亡くなります。

父の死後、遺産相続問題で、継母や異母兄弟との間で争いが起こり、1813年の「遺産二分割」の和解まで実に12年もの月日を要しました。

この「遺産争い」は、竹阿の教えにもある「真っ当な生活を行うための戦い」であったようです。

(7)晩年の3回の結婚と性豪伝説

彼は52歳で28歳の菊と結婚します。「老いらくの恋」ではありませんが、かなりの「年の差婚(24歳年下)」ですね。貝原益軒の「養生訓」に従えば、あまり無理をすべきでないところです。

この時期の日記である「七番日記」には、「黄散」という強精剤を服用して子作りに励んだことが書かれています。晩婚のあせりと快楽の追求の両方があったのかもしれません。

三男一女の子供が生まれますがいずれも2歳未満で夭折し、妻も37歳で亡くなります。

1819年6月に長女さとが疱瘡(ほうそう)のため亡くなった時に次のような句を詠んでいます。

露の世は露の世ながらさりながら

これは「この世は露のようにはかないものとよく知っているが、それでもやはりいとしい我が子の死はあきらめきれぬものだ。」という意味です。

62歳の時、親族の紹介で雪を後妻を迎えますが3カ月で離別し、64歳で32歳のやをと三度目の結婚をしています。これもかなりの「年の差婚(32歳年下)」です。

彼は家庭的に恵まれず、5人の子供を授かりましたが、最後に生まれた娘以外は全て幼いうちに亡くなっています。

1827年には類焼の厄にあい、土蔵で起臥するうちに中風を発症して亡くなっています。

(8)生涯に2万句の俳句を詠んだ

数奇な生涯、強靭な農民的性格、率直・飄逸な性格が、作品に独特の人間臭さを与えています。

生涯に2万句の俳句を詠んだと言われており、死後に「おらが春」「一茶発句集」が出版されています。

生涯に作った俳句の数は、芭蕉は1,000句、蕪村は3,000句と言われていますので、一茶がいかに多作だったかがよくわかります。

2.小林一茶は何で生計を立てていたのか?

最近私は昔の有名な芸術家や文化人がどのようにして生計を立て、どんな人生を送ったのかに興味を持つようになりました。特に経済的側面が気になります。

小林一茶は俳人ですが、松尾芭蕉のような「俳諧の師匠」というイメーはありません。では一茶は何で生計を立てていたのでしょうか?

彼は俳諧で身を立てる決心をして、20歳を過ぎた頃から、二六庵竹阿、溝口素丸、夏目成美らに相次いで師事して俳諧を学んでいます。

彼は27歳の時、東北地方へ俳諧修業の旅に出ています。

また30歳から36歳の6年間、江戸を立って西国行脚の旅に出、二六庵竹阿の弟子を頼って関西・四国・九州を巡歴し、俳諧修業をしています。

江戸に戻って本所相生町五丁目の裏長屋に住んでいた彼は、1798年から江戸蔵前の札差で俳人の夏目成美の庇護で朝食を賄ってもらう一方、留守番や仏画の手入れを手伝っています。

彼は夏目成美らから俳諧の指導を受ける一方、主に房総方面の知人や門人を訪ねる「俳諧行脚」で俳諧を指導し、生計を立てていました。

房総方面によく行ったのは、彼が師事した二六庵竹阿、溝口素丸が「葛飾派」の俳諧師で、葛飾や房総方面に門人が多くいたためです。

当時、プロの俳諧師として収入を得る方法は、「地方を行脚して稼ぐ方法」と「月並句会(つきなみくかい)を行う方法」の二つがありました。

「月並句会」とは一種の通信教育で、「毎月お題を決めて一般から投句を募り、優秀者には景品を授与し、投句者には入選作品を印刷して配布し、投句を添削して返却する方式」です。

運営は「入花料」という通信教育料で賄われました。彼も1年ほど「月並句会」を行いましたが、思うように投稿者が集まらず挫折しました。

貧乏と隣り合わせの暮しでしたが、俗化著しかった当時の俳壇にあって独自の「一茶調」と呼ばれる作風を確立して行き、俳人としての評価は徐々に高まって行きました。

しかし、生活は不安定なものであったため、生活の安定のためには、継母や異母兄弟との「遺産相続争い」を12年間も続ける必要があったのでしょう。

晩年は故郷に帰り、「北信濃の俳諧宗匠」として安定した地位を得ました。家庭的には恵まれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて俳諧指導をしたり「七番日記」「八番日記」などの出版活動も行っています。

3.小林一茶はなぜ松尾芭蕉のような「一門」を形成しなかったのか

有力門人は14人ほどいましたが、300人とも2,000人とも言われる多数の門人を擁した松尾芭蕉とは比べものになりません。

今風に言えば、芭蕉が大人気のユーチューバーとすれば、一茶はかなり地味なユーチューバーと言えます。

芭蕉は若い頃から独自の俳風を打ち出して多くの門人を集めるとともに、商業的な「俳諧興行」を積極的に行って成功しましたが、一茶にはそこまでの才覚はなかったということでしょう。

上に述べた「月並句会」の挫折によって、彼は一大結社のリーダーとなる道は閉ざされていました。

ちなみに一茶の死後も、俳句界での名声は落ちませんでしたが、門人たちの中から一茶の後継者は現れず、「一茶調」を引き継ぐ者もなかったため、俳句界における一茶の影響力は小さいものにとどまりました。

4.小林一茶の俳句

一茶の俳句は、どれも温かく親しみを感じます。ただこれは、幼時からの逆境など彼の不運な境遇を反映した屈折した感情に基づく独自の作風です。ただの能天気な呑気さや優しさではありません。

俗語や方言まじりの生活感情に根ざした俳句を多く残しています。

一茶句碑

・めでたさも中くらいなりおらが春

・おらが世やそこらの草も餅になる

・雪とけて村いっぱいの子どもかな

・ちぐはぐの下駄から春は立ちにけり

・梅が香やどなたが来ても欠(かけ)茶椀

・春風や牛に引かれて善光寺

・悠然として山を見る蛙かな

・我と来て遊べや親のない雀

・大蛍ゆらりゆらりと通りけり

・蟻の道雲の峰よりつづきけん

・蝉鳴くや我が家も石になるやうに

・涼風の曲がりくねってきたりけり

・名月を取ってくれろと泣く子かな

・秋風やむしりたがりし赤い花

・木曽山へ流れ込みけり天の川

・元日や上々吉の浅黄空

・ともかくもあなたまかせの年の暮れ

・うまさうな雪がふうはりふわりかな

・これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺

・寝姿の蠅追ふもけふが限りかな

・椋鳥と人に呼ばるる寒さかな

・盥から盥へうつるちんぷんかん(辞世の句)

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