本居宣長はなぜ「源氏物語玉の小櫛」を書いたのか?

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本居宣長

前に「本居宣長が古事記を書いた理由は何か?」という記事を書きましたが、もう一つの疑問があります。

それは、国学者の本居宣長(1730年~1801年)がどろどろした不倫関係の恋愛物語である「源氏物語」について書く気になった理由です。

今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.本居宣長の「源氏物語玉の小櫛」執筆の経緯

(1)執筆のきっかけ

京に遊学して雅(みやび)な文化に触れて、そのような文化に憧れを抱き、そのような優雅な平安時代の都の文化を表現した物語である源氏物語に興味を持ったことと、下の「本居宣長のエピソード」(1)に詳しく述べるような民(たみ)さんという女性に対する恋愛感情が執筆のきっかけではないかと私は思います。

(2)執筆の目的

上記のような彼の民(たみ)さんという女性に対する恋愛感情から、従来主流であった「勧善懲悪説」や「好色の戒め」といった仏教的・儒教的な教戒観を否定し、物語自体から導き出した「もののあはれ」論を力説して、源氏物語の本質を見極めることが目的だったのではないかと私は思います。

中国の詩文では人の善行、悪行について詞句を飾り、厳重に論じます。しかし男女の恋愛は扱いません。「恋する情は女々しく、人わろきさまなどをば恥ぢていはず」というわけです。

しかし、それは繕い、飾ったうわべのことで、人の心を偽るものです。その実情も見ずに中国の詩文のさまを実の情態と心得るのは間違いも甚だしいと彼は考えたのです。

彼は「石上私淑言」で、「すべて恋のみにもあらず。萬の事に唐はよからぬ人ことに多し」と述べています。

2.「源氏物語玉の小櫛」とは

「源氏物語玉の小櫛」は、本居宣長による「源氏物語」の注釈書(全9巻)で、「もののあはれ」を提唱したことで知られています。彼が66歳の1796年に完成し、1799年に刊行しています。

本書は、彼が京都遊学を終えて、出身地の松阪に戻った翌年の29歳の時から始めて40年近くに及んだ門人に対する「源氏物語」の講義の内容をまとめたものです。

書名の由来は、巻首にある「そのかみのこゝろたづねてみだれたるすぢときわくる玉のをぐしぞ」という彼の歌です。

内容は、自身の和歌における文学観を応用して、源氏物語の本質として、従来主流であった「勧善懲悪説」や「好色の戒め」といった仏教的・儒教的な教戒観を否定し、物語自体から導き出した「もののあはれ」論を力説して、全巻にわたって語句を注釈しています。

「もののあはれ」論とは、源氏物語が自然や人事に触れて発する感動・情感を書き表すことを本旨としたとする文芸評価論です。

瀬戸内晴美

余談ですが、元々小説家で源氏物語の現代語訳もある瀬戸内寂聴(本名:瀬戸内晴美)さん(1922年~ )は、夫の教え子と不倫した経験のある人ですが、インタビューで「恋愛する相手が妻(夫)のある人かどうかは関係ない。誰かを好きになることは自然なことで、誰にも止められない」という趣旨の話をしていました。

3.本居宣長のエピソード

(1)極めて短い結婚と再婚について

国語学者の大野晋氏(1919年~2008年)によれば、彼の最初の妻・美可(みか)さんとの結婚はわずか3カ月という短いものでした。

美可さんとの結婚について彼の日記には、素っ気なくたった四行しか書かれていません。

宝暦十年四月八日 結納

九月十四日 婚礼

十二月十八日 「美可里ニ帰ル。離縁ス」

二十四日 「夜、美可荷物ヲ返ス」

その後1年半後に再婚した相手は、親友の草深玄周の妹・民(たみ)さんでした。

彼は最初の妻・美可さんと結婚するずっと以前に、民さんに会っており、恋心を抱いていたようです。

1757年(宝暦6年)、彼は遊学先の京都から松阪へ父親の法事のために帰る途中、津の草深玄周の家に寄りました。旧友との再会を喜ぶ玄周に泊っていけと言われ、酒食のもてなしを受けて明け方の三時まで語り合ったそうです。翌朝は十時まで寝坊したと日記にあります。

京都への帰途にも、彼は草深家に立ち寄り、饗応を受けています。その時、彼は26歳、民さんは16歳。お給仕に立ち働く彼女を彼は見たのでしょう。

しかし、彼女は翌年嫁に行き、同じ町の材木商久保田屋九重郎の妻となってしまいました。

宝暦8、9年頃、彼が京都で書いた歌論「排蘆小船(あしわけをぶね)」には次のような記述があります。ちなみに「蘆を別(わ)けて行く小舟」という表現は万葉集にあり、「恋の進みはままならぬもの」という比喩です。

「人の情のありていは、すべてはかなく、しどけなく、おろかなものだと知るべきである。人は誰も聖人ではないのだから、悪いことはしてはならない、思ってもならないと言うことはできない。悪いことも思い、あるいは行う。それは人の情から起ることだから、道ならぬこともあるのが道理なのだ。」

ひょっとすると、給仕に立つ初々しい可憐な民さんの振る舞いが、彼の目に焼き付いていて、京都に戻ってもそのことが忘れられず、かえって彼女への思いが募ったのではないかと思います。

ところで、なぜ彼が民さんと再婚することができたのかというと、民さんの夫の久保田屋九重郎が急死したからです。九重郎が急死した日(宝暦十年四月二十六日)は、宝暦十年四月八日の美可さんとの結納の約3週間後で、九月十四日の婚礼の前でした。

彼の生きた江戸時代は、結納を済ませた後の婚約破棄はほとんど不可能なことでした。そこで気が進まないものの、いったん美可さんと結婚した後に早々と離縁したのです。美可さんにとっては、迷惑千万な話ですが・・・

再婚の申し入れに草深家の応諾の返事が来た日の彼の日記は「イヨイヨ許嫁(きょか)スベキノムネナリ」と筆が弾んでいます。

(2)付き添いの母親の診察が長かった話

日野原重明さんのように、彼は亡くなる10日前まで患者の治療に当たっていた「生涯現役医師」でもありますが、「乳児の病気の原因は母親にある」として、付き添いの母親を必要以上に診察したという逸話があります。



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