「安土城」は織田信長が築いた豪華絢爛たる城だが、なぜ現存していないのか?

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復元安土城

上の画像は、三重県伊勢市の「伊勢安土桃山城下街」(旧名:安土桃山文化村)にある安土城天守(宮上茂隆副原案)を模した「復元安土城」です。

安土城は、織田信長が築いた豪華絢爛たる城で、彼の自慢の城であり、天下統一後の本拠地となるはずの城でした。

しかし今は発掘調査の結果、大手道の石垣の整備が行われたほかは、礎石の跡が残っているだけです。当時の建築物としては、城山(安土山)の中腹にある摠見寺の境内にある仁王門と三重塔が残っているだけです。

安土山の空中写真安土城大手道安土城の礎石

安土城はなぜ現存していないのでしょうか?

そこで今回は安土城の歴史をわかりやすくご紹介したいと思います。

1.安土城とは

安土城図

安土城は織田信長(1534年~1582年)によって近江国蒲生郡にある標高199mの安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に築かれた山城です。

織田信長

大型の天守を初めて持つ地下1階地上6階建てで、天守の高さが約32mの威容を誇りました。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されています。

安土城の築城目的は、次の四つと見られます。

①岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近いこと

②琵琶湖の水運も利用できるため利便性があること

③北陸街道から京への要衝に位置するため、越前・加賀の一向一揆に備えられること

④上記の③の地理的優位性の理由で、越後の上杉謙信にも備えられること

2.安土城焼失の謎

しかし、1582年に家臣明智光秀(?~1582年)による信長への謀反(本能寺の変)があり、それに続く「山崎の戦い」の後まもなくして安土城の天守およびその周辺の本丸等の建造物は「何らかの原因」によって焼失しました。

焼失の原因についてはいくつかの説があります。

①明智光秀の重臣の明智秀満(明智左馬之助)(1536年?~1582年)軍が、敗走の際に放火したとする説

「秀吉事記」や「太閤記」にある説です。「山崎の戦い」の際に安土城の守備に就いていた明智秀満による放火とするものです。

しかし、安土城で出火があったのは6月15日で、その日秀満は坂本城で秀吉方の堀秀政に包囲されていたこと、また秀満は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器・書画を掘直政に引き渡してから坂本城に火を放っていることから、秀吉方による「濡れ衣」と考えられています。

②秀満の後に伊勢国から入った織田信雄軍が、秀満の残党をあぶり出すために城下に放火したのが天守に延焼したとする説

これは、ルイス・フロイスの報告や当時のイエズス会宣教師の「信雄が暗愚だったので放火した」という記述(日本耶蘇会年報)による説です。

しかし、焼失しているのは天守と本丸付近だけなので、城下からの類焼は考えにくいとされています。

歴史学者の高柳光寿氏はこの「織田信雄による放火説」です。

③略奪目的で乱入した野盗や土民が放火したとする説

明智秀満が「山崎の戦い」の際に、ほぼ全軍を率いて出陣したとすると、もぬけの殻となった安土城に野盗や土民が侵入したことは容易に想像できます。

これが最も現実的な説で、歴史学者の林屋辰三郎氏や同じく歴史学者の熱田公氏はこの「野盗・土民放火説」です。

④落雷によって焼失したとする説

3.安土城の廃城

安土城は「本能寺の変」以降もしばらくは「織田氏の居城」として、信長の嫡孫・織田秀信(幼名:三法師)(1580年~1605年)が1582年7月の「清須会議」の後入城するなど、主に「二の丸」を中心に機能していました。

しかし豊臣秀吉(1537年~1598年)が養子・豊臣秀次(1568年~1595年)の居城として近江国蒲生郡に八幡山城(はちまんやまじょう)を築城するために、1585年に廃城とされ、跡形もなくなりました。

信長亡き後、光秀を倒せば信長に代わって天下人となる目前の秀吉にとって、信長が築いた豪華絢爛たる安土城は目障り以外の何物でもなかったのでしょう。

安土城の天守や本丸の焼失も、ひょっとすると秀吉が、配下の「山の民」に指示して放火させたのかもしれません。もしそうだとすると、張本人は秀吉ということになります。

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