オットセイ将軍・徳川家斉は側室40人!?側室お美代の方の父は破戒僧・日啓!

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徳川家斉

江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。

二番目に多いのが11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。

この徳川家斉は、15人の将軍の中でも特異な存在で、異彩を放っています。今回は家斉と彼を取り巻く人々について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.徳川家斉とは

11代将軍・徳川家斉(1773年~1841年、在職:1787年~1837年)は、「御三卿」の一つである「一橋家」の出身です。一橋徳川家の2代目・徳川治済(はるさだ/はるなり)(1751年~1827年)の長男です。

御三卿である一橋家は、宗家の跡継ぎが途絶えた場合、十分に将軍の座を狙える位置にありました。

10代将軍・徳川家治(1737年~1786年)の嫡子・家基が早世したため、1781年に一橋家から8歳の家斉が家治の養子に入ります。

家治の跡継ぎには、御三家・御三卿の中で、今後男子を数多く授かる可能性のある若い人が理想的だったため、家斉に白羽の矢が立ったようです。

家斉は家治が亡くなった後の1787年に15歳で将軍となり、1837年まで将軍の座に君臨しました。将軍職を次男の家慶に譲った後も死ぬまで大御所として実権を保ちました。

家斉の第一の特色は「最長の将軍在位期間(50年)」です。しかし彼は善政を行ったわけではなく、老中松平定信に行わせた「寛政の改革」(1787年~1793年)も失敗しました。

家斉は松平定信を失脚させた後は、奢侈な生活を送るようになりました。8代将軍・吉宗が「大奥」を大幅に整理縮小し、質素倹約に努めたにもかかわらず、家斉は大奥を過去最大級に巨大化させ、3000人近くの女性を抱えていたそうです。

彼が豪奢な浪費生活をするのに歩調を合わせて、大奥も贅沢三昧となったため、幕府財政はあっという間に傾きました。

彼の将軍在位中に幕府財政は悪化の一途を辿っただけでなく、賄賂政治も復活するなど腐敗も進み、大坂では「大塩平八郎の乱」(1837年)が起きています。

第二の特色は「側室と子供の多さ」です。一説では40人以上の側室を持ち、53人の子供を産ませたと言われています。

彼は精力絶倫で知られ、精力を維持するために「オットセイの粉末」を服用していたことから、「オットセイ将軍」と呼ばれていたようです。

当時は「お家存続」のために側室を持つことが当たり前とされていましたが、あまりにも度が過ぎたようです。彼が好色だったという面は否定できません。

しかし彼としては「子が多ければそれだけ他家に養子に出せる、あるいは嫁がせることができ、徳川家の勢力を安泰にできる」という大義名分があったのかもしれません。

そしてもう一つ、彼の父(徳川治済)からの二代にわたる「徳川家の血筋を一橋家の血筋で統一する」という野望も影響していたかもしれません。

実際、彼の次男・家慶は12代将軍となり、孫・家定は13代将軍となっています。14代将軍は家定の養子となった紀州藩主・家茂ですが、15代将軍は水戸藩から一橋家に入った慶喜です。

その他の子女も全員が、徳川家の親類大名家をはじめ全国各地の大名家に養子に入ったり、嫁いだりしています。その結果、水戸藩を除く御三家・御三卿は全て家斉の血筋に塗り替えられました。

2.側室お美代の方

側室お美代の方(専行院)(1797年~1872年)は家斉が最も寵愛した側室です。

実父は元正栄山仏性寺の役僧で、後に中山法華経寺の智泉院の住職となる「破戒僧」日啓です。養父は御小納戸頭取の中野清武です。

二人の父は、彼女の美貌と才知を見込んで1806年に、彼女を大奥へ送り込みました。彼女はやがて家斉の側室となります。

彼女は、家斉の第36子で加賀藩に嫁いだ溶姫や広島藩主の正室となる末姫を産み、大奥での勢力を拡大して行きました。

養父の中野清武は2000石に加増され、実父の日啓も並々ならぬ法力を持つと評判をとりました。もちろんこれは、彼女の家斉へのおねだりやプロパガンダが功を奏したわけです。

3.お美代の方の実父は破戒僧の日啓

日啓は30数年間にわたって大奥の信仰を集め、複数の女中と密通していたようです。彼はそれだけで満足せず、お美代の方を通じて家斉に働きかけ、廃寺だった感応寺を復興させて住職に収まりました。

感応寺は将軍家を筆頭に諸大名の絶大な信仰と喜捨を受け、大伽藍を誇りました。大奥女中との女犯は、日啓のみならず孫の日尚も同様に行っていたというからあきれた「破戒僧」たちです。

しかし1841年に家斉が逝去すると、それを待ちかねたように老中水野忠邦は「感応寺の取り潰し」を命じると同時に「住職の日啓を女犯の罪で遠島」に処しました。

僧侶の腐敗・堕落は、何も江戸時代に始まったことではありません。私は仏教伝来以降の僧侶の歴史は、腐敗・堕落と「横暴の歴史」だと思っています。

今も「京都の花街は僧侶で持っている」という話を聞いたこともあります。そういうこともあって、私は仏教や僧侶を全く信用できないのです。



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