「イモ公方」と呼ばれた13代将軍・徳川家定の正室は、国民的ヒロイン・篤姫!

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徳川家定

前に「そうせい様」と呼ばれた12代将軍・徳川家慶の記事を書きましたが、今回はその息子の13代将軍・徳川家定をご紹介したいと思います。

家定と言えば、2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」で、宮崎あおい演じる篤姫と堺雅人演じる家定でご記憶の方も多いと思います。

家定と篤姫篤姫と家定

1.徳川家定とは

(1)生い立ちから将軍就任まで

13代将軍・徳川家定(1824年~1858年、在職:1853年~1858年)は、12代将軍・徳川家慶の四男として生まれました。

家慶は、14男13女を儲けましたが、成人まで生き残ったのは家定だけでした。しかし祖父・家斉や父・家慶が健康体だったのに対し、家定は幼少から病弱で、人前に出ることを極端に嫌ったそうです。

アヒルの絵を持つ家定

一説には脳性麻痺で言動に不自由があったようです。さらに乳母以外には心を開かなかったと言われるほど極度の人見知りで癇癪持ちだったそうです。

周囲からは武家の棟梁・将軍の器とは思われず、祖父の家斉が思い余って毒殺しようとしたという噂もあるほどです。

家慶のことを「凡庸の人」と酷評した「幕末の四賢侯」の一人の松平春嶽(1828年~1890年)は、家定を「凡庸の中で最も下等」と更にこき下ろしています。

1841年に大御所・家斉が亡くなった後、12代将軍・家慶の世嗣となりました。しかし家慶は家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどです。

しかし、老中・阿部正弘らが反対したため、結局家定を将軍継嗣としました。

(2)将軍時代

ハリスを引見する家定

1853年の「ペリーの黒船来航」の19日後に家慶が病死したことを受け、家定が13代将軍となりました。

1854年にペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は「日米和親条約」に調印しました。

家定は元々健康がすぐれませんでしたが、将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われています。

このため幕政は老中・阿部正弘によって主導され、1857年に阿部が亡くなると、その後は老中・堀田正睦によって主導されました。

1857年に江戸城でアメリカ総領事ハリスを引見した際は、将軍らしい威厳のある口上を述べたということですが、一説ではこの時、家定は脳性麻痺の症状からか頭を左肩の方に傾け、足を踏み鳴らすという奇妙な行動をしたと言われています。

1858年、堀田正睦が条約勅許に失敗した後は井伊直弼を大老に任じて幕政を任せました。

(3)将軍継嗣問題

家定は正室として、鷹司政熙の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えましたがいずれも早世し、近衛忠熙の養女・敬子(天璋院篤姫)との間にも実子は生まれませんでした。

このため、将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていましたが、病気が悪化した1857年頃からはそれがさらに激化しました。

家定の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍後嗣をめぐって激しく争いました。

家定はこの間にも、表舞台に出ることはほとんどありませんでしたが、1858年に諸大名を招集して「慶福を将軍継嗣にする」という意向を伝え、一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せました。

家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後でした。

なお、家定は1858年7月6日に江戸城本丸で亡くなりました(享年34)が、死因については「毒殺説」もあります。これは藤波という家定付期の女中が実家(多摩の八王子千人同心の野口家)に宛てて家定死去の翌日に書いた手紙にあるものです。

「昨六日七つ半ごろ、誠に御大病になられた」とあり、「御手前様ゆえ内々話すが、(家定公は)毒薬にてお悪くなられた。水戸・尾張・一橋・越前、まずそのようなところが皆くみしている。この前失脚した老中二人のほか色々な人が関係している」と書かれています。

この手紙以外にも、家定がなくなったのが一橋派の諸大名処分の翌日であったため、一橋派が奥医師・岡櫟仙院を使って家定を毒殺したのではないか、という噂が流布されたのは事実です。

2.「イモ公方」というあだ名で呼ばれた理由

家定を「凡庸の中で最も下等」と酷評した松平春嶽は、さらに「イモ公方」というあだ名まで付けました。

このあだ名の由来は、家定の趣味が「お菓子作り」だったからです。蒸し芋や炒り豆を自分で作り、家臣に振るまうこともあったそうです。時にはカステラも作ったということですから、将軍というよりもスイーツ職人ですね。

時代はもはや「太平の世」ではなく、幕末の動乱期が始まっていたのですから、春嶽が呆れたのも無理はありません。

ただ、幕末の幕臣・朝比奈昌広(1827年~1905年)は明治になってから、家定について「家定公は凡庸だ暗愚だと言われているが、それは春嶽ら俊英と比較するからで、諸侯の中には家定公よりもっと劣る大名も多くいたはず」と語っています。

3.篤姫とは

篤姫

そんな家定に三番目の正室として薩摩藩から嫁いだのが篤姫(天璋院)(1836年~1883年)です。

篤姫家系図

彼女は薩摩藩島津家の一門である今和泉島津家の当主・島津忠剛(1806年~1854年)の長女として生まれました。

しかし、1853年に従兄である薩摩藩主・島津斉彬(1809年~1858年)の養女となり、1856年に右大臣・近衛忠熙の養女となって家定に輿入れしています。

わざわざ公家の養女にまでなったのは、当時将軍の正室は公家から迎えるという慣例があったためです。

家定が「公家の娘は虚弱でよくない。次は武家出身の健康で長生きしそうな女性を迎えたい」と望んだとのことです。

ただ一方では、将軍後継問題で一橋慶喜を推している薩摩藩主・島津斉彬が、水戸嫌いの大奥の意向を慶喜支持に変えさせる狙いで篤姫を送り込んだという側面もあるようです。しかし、この説得は失敗に終わりました。

大河ドラマ・篤姫

しかし幕府崩壊時の大奥の責任者であった篤姫は、島津斉彬の遺志を受け継いで、その後十五代将軍となった慶喜を支援しています。

慶喜が倒幕運動の高まりの中で「大政奉還」し、「王政復古の大号令」の下で討幕軍が江戸に迫った時、討幕軍の中心となった薩摩軍に使者を送り、徳川家の存続を求め、また慶喜の「助命嘆願」に尽力しました。

特に「江戸城無血開城」には、篤姫が西郷隆盛に送った手紙の功が大きかったと言われています。江戸城明け渡しに際しても、逃げ出す幕臣がいる中で、篤姫は大奥の責任者として最後まで留まりました。

明治維新後は、政権の座についた薩摩藩からの援助も拒否し、徳川宗家で質素な生活を続けながら、徳川宗家16代・家達(いえさと)(1863年~1940年)を養育しました。なお、家達は慶喜の子ではなく、御三卿の一つである「田安家」の出身です。

彼女の毅然とした性格は、勝海舟も称賛しています。亡くなった時の所持金は、今の金額にして6万円だったということです。

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