快楽主義か禁欲主義か?魂の平静と健康で質素な生活による精神的快楽主義に賛同

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プラトン

「幸福」については、前に「幸福量一定の法則」や「幸福度世界一の国ブータン」、「AIで幸福度を測定する話」などの記事を書きましたが、今回は古代ギリシャの哲学者の幸福についての考え方のお話です。

古代ギリシャの哲学者エピクロス(BC341年頃~BC270年頃)の「快楽主義」と、ストア学派の「禁欲主義」は有名ですが、あまり詳しいことは知られていないのではないでしょうか?

簡単に言えば「人生観」「幸福についての考え方」の違いですが、今回はこれについて掘り下げて考えて見たいと思います。

1.快楽主義

「快楽主義」(hedonism)とは、「自己の快楽を追求して苦痛を避けることが善であり、それが人生究極の目的あるいは道徳の原理であるとする考え方」です。

古代ギリシャのキュレネ学派の哲学者で、ソクラテスの弟子のアリスチッポス(BC435年頃~BC356年頃)は、瞬間的快楽のみを善とし、可能な限り多くの快楽を集めることが幸福であるとしました。

これに反してエピクロスは、感覚的・瞬間的快楽を否定し、至高善たる快楽は持続的・精神的なものでなくてはならないと説きました。哲学的思索の中にこそ最高の快楽があると考え、魂の平静を重んじ、健康で質素な生活を通して得られる精神的快楽を奨励しました。「倫理的利己主義」の一種です。

快楽主義に社会的観点を導入したのが、イギリスの哲学者・経済学者・法学者ベンサム(1748年~1832年)です。

彼は「功利主義」に立って、快楽の量的差に基づく快楽計算を提唱し、「最大多数の最大幸福」(公衆の幸福)を主張しました。

なお、物質的快楽の追求は多くの困難に遭遇し、苦痛を増します。その結果、「快楽の放棄こそ快楽への道である」という考え方も生まれます。これは「快楽主義的逆説」と呼ばれます。

2.禁欲主義

「禁欲主義」(asceticism)とは、「肉体的または世俗的欲望を抑え、道徳・宗教上の理想を実現しようとする考え方」です。

感性的欲望を悪の源泉、またはそれ自体が悪と考え、それをできる限り抑圧し魂の平安を得ようとするもので、道徳的というよりも宗教的色彩の強い考え方です。

ユダヤ教の黙示文学では、現在の悪が支配する地上にやがて訪れる「来たるべき世」の審判に備えて禁欲を求めました。人里離れた場所で観想・瞑想を目的とした共同生活を送るテラペウタイというユダヤ人のコミュニティのあり方は、後のキリスト教修道院制度に大きな影響を与えたそうです。

プラトン(BC427年~BC347年)は、誰もが分別を持ち、移ろいゆく世間とはしかるべき距離を置く賢者になることを理想とし、「哲学的生活」に禁欲の実践を取り入れました。

その後に現れた「ストア学派」は「自ら求めず、自然に則り運命に従うこと」を理想としました。煩悩の源となる欲望を理性によって断ち、見せかけの善や悪に無関心でいることを理想的心境としたのです。

余談ですが、プラトンには「洞窟の比喩」という有名なたとえ話があります。これは、禁欲主義とは直接の関係はなく、「教育についての考え方」を示したものです。

洞窟の比喩

 洞窟の中で入り口に背を向けて頭を一方向に固定された囚人がいます。囚人は背後の火によって前面の壁に映る人や動物の影を実在と思い込みます。これが可視的世界に対する我々の関係です。

その囚人が解放されて、火の光に照らし出された影の実体を見ても、やはり影の方を真実だと思い込む。

つまり、哲学的教育とは、いわば洞窟の薄明かりに慣らされた人間の魂を、より明らかな「真の実在(イデア)」の世界(可思惟的世界)へ、さらに太陽に象徴される可思惟的世界そのものを成立させる「究極的存在(善のイデア)」へと転回するように仕向けることだと説いているのです。

私は、エピクロスの「哲学的思索の中にこそ最高の快楽がある」という考えに共感を覚えます。「魂の平静を重んじ、健康で質素な生活を通して得られる精神的快楽」を求める「倫理的利己主義」は、71歳を迎えた自分の今の心境にぴったりです。



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