昭和天皇は終戦後、現人神をやめ人間宣言。戦争責任は無答責で退位もせず

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戦後の昭和天皇

私たち団塊世代にとって、「天皇」と言えば「昭和天皇」であり、今の上皇は「皇太子」で、今の天皇は「浩宮」です。

世代によって受け止め方は違うと思いますが、戦後生まれの我々にとっては、「天皇」は「人間宣言した後の天皇」であり、「現人神(あらひとがみ)としての天皇」では決してありません。

したがって、戦前から戦後の昭和時代に、「満年齢を昭和の元号と同時に生きた」三島由紀夫のような天皇の立ち位置の劇的な変化に戸惑う葛藤は全くありません。

1.昭和天皇とは

即位した昭和天皇

昭和天皇(1901年~1989年、在位:1926年~1989年)は、第124代天皇です。諱(いみな)は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)です。

1921年11月から1926年12月までの5年余りにわたって、大正天皇の健康状態の悪化により、「摂政宮」となりました。

戦前の昭和天皇

60年余りの在位中に第二次世界大戦をはさみ、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と、日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇です。

1901年4月29日に大正天皇(当時は皇太子)と貞明皇后の第一皇子として生まれました。弟に秩父宮・高松宮・三笠宮がいます。

少年時代は、学習院長だった陸軍大将乃木希典(1849年~1912年)の薫陶を受けました。

乃木希典

1916年に皇太子となり、1921年に日本の皇太子として初めて欧州を歴訪しました。帰国後に摂政に就任しましたが、これは現在「日本史上最後の摂政」です。

1924年に久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と結婚し、2男5女をもうけました。

1926年12月25日、大正天皇の崩御に伴って皇位継承し、第124代天皇となりました。

1989年(昭和64年)1月7日に崩御しましたが、神代を除くと「歴代天皇の最長寿」でした。

2.昭和天皇の言動

(1)戦前の言動

①宮中某重大事件

1918年春に久邇宮家の長女・良子女王が皇太子妃に内定し、1919年6月に正式に婚約が成立しました。

しかし同年11月に、元老・山県有朋が「良子女王の家系(島津家)には色盲遺伝がある」として婚約破棄を進言しました。

山縣は、西園寺公望や首相・原敬と連携して久邇宮家に婚約破棄を迫りましたが、「長州閥の領袖である山縣が、薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀」だとして、民間の論客や右翼から非難されました。

当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、「婚約に変更なし」となりました。

②関東大震災と婚礼の儀の延期

「関東大震災」が起きた1923年9月1日には、霞関離宮が修理中のため当初箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓予定でしたが、加藤友三郎首相が急逝し、政治空白が発生したため東京に留まり、命拾いをしました。

後に天皇は当時を振り返り、「加藤が守ってくれた」と語っています。

地震による東京の惨状を視察した天皇(当時は皇太子で「摂政」)は、心を痛め、自らの婚礼の儀についって「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示し、翌年(1924年)1月に延期しました。

③田中義一首相を叱責し、内閣総辞職させる

1928年6月に起きた「満州某重大事件」(張作霖爆殺事件)の責任者処分に関して、田中義一首相は「責任者を厳正に処罰する」と天皇に約束しましたが、軍や閣内の反対もあって処罰しませんでした。

天皇は、「それでは前の話と違うと田中首相の食言を激しく叱責し、その結果、田中内閣は総辞職しました。

④天皇機関説事件

1935年、美濃部達吉の憲法学説である「天皇機関説」が政治問題化した「天皇機関説事件」について、天皇自身は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか?自分は天皇機関説でよい」と言ったそうです。

天皇が帝王学を受けたころには憲法学の通説であり、天皇自身「美濃部は忠臣である」と述べています。

ただ、「天皇機関説事件」や一連の「国体明徴運動」をめぐって、天皇は具体的な行動を取ってはいません。

⑤二・二六事件

1936年2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる「二・二六事件」の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等の精神に於いて何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)?」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当たらん」と発言したとされます。

三島由紀夫は、この「二・二六事件」についての天皇の発言と、天皇の「人間宣言」について、「英霊に対する二度の裏切り」として憤慨しています。

⑥太平洋戦争開戦

天皇自身は「開戦には消極的であった」とよく言われます。ただし「昭和天皇独白録」は後の敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする歴史学者・吉田裕らの指摘もあります。

対米英開戦後の1941年12月25日には、「自国日本軍の勝利を確信」し、「平和克復後は南洋を見たし。日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されています。

⑦開戦を止めなかったことについて

日本共産党中央委員長も務めた田中清玄は、後に転向して「天皇制護持」を強く主張する「尊皇家」になりました。

敗戦後間もない1945年12月に宮内省から特別に招かれ、天皇と直接会見した田中に、「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対であられた。どうしてあれをお止めにならなかったのですか?」と聞かれ、天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と答えています。

これはイギリスの立憲君主制の「(王は)君臨すれども統治せず」と「君主無答責の原則」を念頭に置いたものと思われます。

⑧戦争指導

開戦後から戦争中期の1943年中盤にかけては、太平洋のアメリカ西海岸沿岸からインド洋のマダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を 挙げていた状況で天皇は各地の戦況を淡々と質問していたそうです。

また、天皇は時には軍部の戦略に容喙したこともあります。大本営で、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がりました(ティモール問題)。これは同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものでした。

この時、天皇はこの計画に「アゾレス諸島のことがある」という理由で反対しました。

これは、もしティモール島攻撃で中立国のポルトガルが連合国側に参戦した場合、米英の輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易になり、イギリスの持久戦が長引く上、日独の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になるとの理由です。

この天皇の意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末のオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われました。しかし1943年にはイギリスがポルトガルの承認を得てアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されました。

そういう意味で天皇の案は良策だったとは言えないようです。

⑨近衛上奏文

近衛文麿

「近衛上奏文」とは、1945年2月14日に近衛文麿元首相(1891年~1945年)(上の画像)が天皇に対して、戦争終結に関する所信を述べたものです。

近衛は、「このたびの戦争の敗戦は必至であるが、米英は『国体の変革』、つまり皇室の廃絶などは行わないだろう」とし、「ソ連を講和の仲介とすることなく、米英との早期かつ直接の講和」をするよう天皇に訴えました。

同時に、「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」と警鐘を鳴らし、軍部の一部にいるという共産分子を排斥して軍部を立て直し、和平を模索する必要があるということでした。

なお近衛は、別の文書で「戦後の米ソ冷戦」まで予測しており、国際情勢を明晰に見通していたと言えます。

しかし天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えました。

つまり、「早期講和ではなく、南西諸島で一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべき」だという「一撃講和論」で、近衛の上奏を退けました。

天皇の言う「一撃」はこの時点では「沖縄戦」以外になく、天皇がこの時点で近衛の進言を受け入れていれば、「沖縄戦の悲劇(3月26日~9月7日)」も「東京大空襲による甚大な被害」も「広島・長崎の原爆投下(8月6日・8月9日)」もなかったと言えます。あくまでも「結果論」ですが・・・

ちなみに近衛文麿は、敗戦後「戦犯」に指名されてGHQから出頭命令を受け、服毒自殺しました。

⑩ポツダム宣言の受諾

広島・長崎の原爆投下があり、ポツダム宣言受諾決議案について鈴木貫太郎首相は天皇の裁断を仰ぐことになりました。

天皇は8月10日午前0時3分から始まった最後の御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明し、8月15日正午、自身が音読し録音した「終戦の詔書」をラジオを通じて「玉音放送」として放送し、終戦となりました。

「・・・時運ノ趨(おもむ)ク所堪(タ)ヘ難キ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ・・・」という玉音放送のフレーズは何度もテレビで流れましたね。

宮内庁:玉音放送の原盤を初公表 音声も公開

後に天皇は侍従長の藤田尚徳に対して、「誰の責任にも触らず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べています。

しかし、⑧でご紹介したように、天皇は戦略に口を出すこともあり、また⑨でご紹介したように、近衛文麿元首相の「戦争の早期終結の進言」を退けていますので、この述懐には自己弁護や偽りがあります。

(2)戦後の言動

①GHQのマッカーサー元帥との会見

昭和天皇とマッカーサー

イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年9月27日に、天皇はGHQ総司令官のマッカーサー元帥を訪問し、会見しました。

マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けた時、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私にはよく分かっていた。」と回想しています。(「マッカーサー回想記」)

また会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真(上の画像)が、2日後の29日に新聞に掲載されました。天皇が正装のモーニングを着用して直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けました。

天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思っていました。

ところが天皇の口から語られた言葉は、「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためにお訪ねした」、つまり「極東国際軍事裁判(東京裁判)に被告人として臨む覚悟がある」というものでした。

これにマッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。」と回想しています。(「マッカーサー回想記」)

ただ、これについては天皇や通訳が「『君主無答責の原則』があるため、天皇が訴追されることはあるまい」と考えての発言ではなかったのかと私は思います。

また「天皇の戦争責任」を追及し、「天皇の処刑」を主張するソ連・イギリス・オーストラリア・中華民国などに対し、アメリカは戦争中から日本の占領政策を考えていて、「天皇は日本人の精神的支柱であるから、天皇制を存続させることで占領政策をスムーズに進めるとともに、共産主義国であるソ連を牽制し、日本で共産主義革命を起こさせない」という狙いがあったのではないかと思います。

なお、天皇自身は「国民が求めるならば、天皇の位にとどまることにはこだわらない(退位も辞さない)」と考えていたようです。

一方でGHQは日本人洗脳プログラムである「WGIP」によって日本人の愛国心などの精神を骨抜きにして行きました。そして「太平洋戦争は日本の軍国主義者たちが起こした侵略戦争で、天皇に主導権はなかった」という意識を植え付けることに成功しました。

実際は「太平洋戦争は、アメリカのルーズベルト大統領が仕掛けた戦争」だったという話がアメリカの軍人・政治家であるハミルトン・フィッシュの著書で明らかにされ、フーバー大統領やマッカーサー元帥もその認識で一致していたようです。歴史の正しい認識として、この考えは正しいと私は思います。

②GHQの指示に基づく「人間宣言」(新日本建設に関する詔書)

1946年1月1日に天皇は詔書を発して「人間宣言」をし、「現人神(あらひとがみ)」ではなくなりました。

「人間宣言」の正式名称は、「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」です。

この中で天皇は、「天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念である」と述べ、自らの神性を否定しました。

③終戦直後の「全国巡幸」

人間宣言後に全国巡幸する昭和天皇

【カラー】昭和天皇 戦後の全国巡幸 / Emperor Hirohito made a progress to all parts of Japan
日本人を尊敬しなければならない… 欧米が驚愕した天皇陛下と日本人の感動エピソード(海外の反応)Bluenote

天皇は戦後の混乱期と復興期に当たる1946年2月から1954年8月までの足掛け8年半にわたって、沖縄県を除く46都道府県を巡幸し、天皇を一人の人間として国民に身近に感じさせる「イメージチェンジ作戦」に成功しました。マッカーサーはこの全国巡幸を全面的に支持しました。

天皇は全国巡幸の意義について次のように語っています。

この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、大変な災厄を受けた。この際、私としては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。

しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う

欧米では、敗戦国日本の最高責任者である天皇は「亡命するか、暗殺されたのではないか?」と思った人もいたようですが、あろうことか全国巡幸したことに大変驚いたようです。

厳重な警備もなく全国巡幸などをすれば、「戦争で夫や父親あるいは息子を失ったり、空襲で被災したりして天皇を恨んでいる人々から、石を投げられたり、暗殺されるのではないか?」と危惧する人もいたようですが、天皇は石一つ投げられず、笑顔で全国巡幸を終えました。

この理由は次のようなことだと私は思います。

・日本人には天皇を敬う長い伝統があったこと

・「現人神」と本当に信じていた人は少なく、「人間天皇」をすんなり受け入れられたこと

・GHQの日本人洗脳プログラム「WGIP」によって「太平洋戦争は日本の軍国主義者たちが起こした侵略戦争で、天皇に主導権はなかった」という意識が浸透していたこと

・日本人特有の「切り替えの早さ」、悪く言えば「変わり身の早さ」「信念の無さ」

・昭和天皇の能天気な(少なくとも能天気のように見える)態度と愛嬌のある笑顔

・日本人特有の美徳である「寛恕の心」

④「全国戦没者追悼式」における「追悼のお言葉」

昭和天皇 昭和63年全国戦没者追悼式

「全国戦没者追悼式」における「追悼のお言葉」は毎年同じ文言でした。ただ、いつ頃からか忘れましたが、当初の「今なお胸の痛むのを覚える」から晩年は「今もなお胸が痛みます」のような丁寧語に変わりました。

1975年の昭和天皇記者会見

⑤広島の原爆被災についての発言

(1975/10/31の日本記者クラブ主催の公式記者会見で、広島の原爆被災について聞かれ)

原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。(なお、この発言は当然ながら被爆者団体から抗議を受けました。)

記者会見で戦争責任と原爆投下について語る昭和天皇 – ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

⑥自らの戦争責任についての発言

(1975/10/31の日本記者クラブ主催の公式記者会見で、自らの戦争責任について聞かれ)

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます

⑦1982/5/18の「春の園遊会」での山下泰裕と黒柳徹子との会話

昭和天皇 山下泰裕 黒柳徹子

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