「大本営」とは?「大本営発表」はなぜ「虚偽の発表の代名詞」となったのか?

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大本営発表

皆さんは「大本営」や「大本営発表」という言葉をお聞きになったことがあると思います。

中でも「大本営発表」は「虚偽の発表の代名詞」となったこともあり、よく知られています。

では「大本営」とはいったいどのような組織で、なぜ嘘の発表を繰り返すことになったのでしょうか?

今回はこれらについてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「大本営」とは

大本営

「大本営」とは、「1893年5月公布の『戦時大本営条例』で設置された天皇直属の最高戦争指導機関」のことです。

日清戦争(1894年~1895年)から太平洋戦争(1941年~1945年)までの戦時中に設置され、「日本軍(陸海軍)の最高統帥機関」となりました。

「奉勅命令」(天皇の命令)を「大本営命令」(大本営陸軍部命令=大陸令、大本営海軍部命令=大海令)として発令する「最高司令部」としての機能を持っていました。

本来「本営」とは、総司令官が控える場所(中世の「本陣」と同義)で、これをさらに仰々しい「大本営」という名前にしたものです。

日清戦争と日露戦争(1904年~1905年)で設置され、それぞれ巣戦争終結後に解散しました。しかし日中戦争(1937年~1945年)では、戦時外の事変の際でも設置できるように改められ、そのまま太平洋戦争終結まで存続しました。

2.「大本営発表」とは

真珠湾攻撃・大本営発表真珠湾攻撃

「大本営発表」とは、「日中戦争および太平洋戦争中、大本営が国民に向けて発表した戦況に関する公式情報」のことです。

太平洋戦争の初期、米英に対する「宣戦布告」や真珠湾攻撃の時の大本営発表は、ほぼ正確な情報でした。

真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されています。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度の高い搭乗員でも簡単ではないからです。

宣戦布告・新聞記事

真珠湾攻撃の絵

真珠湾攻撃・新聞記事

しかし、作戦が頓挫した「珊瑚海海戦」(1942年5月)の発表から戦果の水増しが始まり、以降は戦況の悪化にもかかわらず、虚偽の発表を行い続けました。

そして太平洋戦争の戦局のターニングポイントとなった「ミッドウェー海戦」(1942年6月)や「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月~1943年2月)のように日本軍の敗色が濃厚になるにつれ、太平洋戦争中盤から末期にかけて、「さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報」が「大本営発表として流され続けました

このことから現在では、「権力者、利権者が自己に都合の良い情報操作をして、虚偽の情報(虚報)を発信すること」を慣用句として「大本営」「大本営発表」と言うようになったのです。

ミッドウェー海戦の新聞記事

3.「大本営発表」はなぜ「虚偽の発表の代名詞」となったのか?

(1)戦争継続のために戦意高揚を図ろうとした

戦争指導は広範な社会的、政治的勢力および機関に立脚して行われず、ほとんど大本営統帥部のみによって行われました。

日中戦争や太平洋戦争のような長期持久かつ国民の総動員を必要とする状況にあって、戦争を継続するために、国民に対して不利な情報を隠蔽するだけでなく、情報を意図的に作り変えて戦意高揚を図ろうとしたようです。

(2)軍の指導部の責任回避

大本営には陸海軍の職業軍人のエリートが集められていました。現代で言えば「霞ヶ関の高級官僚」のようなものです。

「大本営発表」には何人もの決裁、幾重ものチェックを経ていましたが、それが「責任の所在をあいまいにした」ようです。

嘘がばれれば、作戦の失敗や戦況の悪化が明らかになって国民の信頼を失い、戦争遂行が難しくなることは、大本営(軍の指導部)が一番よくわかっていたはずです、

(3)現場からの情報を鵜呑みにする悪癖

戦線が拡大し、熟練度の低い搭乗員が増えるにつれ、「戦果の誤認が急増」しました。

誤認は米軍にもありましたが、大本営には「情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがありません」でした。特に作戦部には、「からの情報を鵜呑みにする悪癖」がありました。

根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられるため、誤った報告も鵜呑みにされ、そのまま発表されていきました。

誤報の極み」とされるのが、1944年10月の「台湾沖航空戦に関する大本営発表」です。

5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」でした。「米機動部隊を壊滅させる大勝利」に、昭和天皇からは「戦果を賞する勅語」が出されました。

しかし実際は、「米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗」でした。

熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半でした。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地に帰還した搭乗員の報告は、「火柱が見えた」「艦種は不明」といった曖昧な内容ばかりでした。

しかし基地司令部は、「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電しました。翌日に飛んだ偵察機が、「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果が上乗せされました。

大本営発表「台湾沖航空戦」と小磯国昭総理、

(4)海軍と陸軍の情報連絡・情報共有や連携不足

さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を検討し、「大戦果は幻だった」ことを把握しましたが、それを陸軍の参謀本部に告げませんでした

陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ちましたが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅しました。

各部署は「粉飾決算」のような大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていましたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったそうです。

(5)大本営内部の対立が水増しと隠蔽をさらに歪める

日本軍の中央組織

情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠蔽されました。

「報道部」が大本営発表文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠蔽が実施済みでしたが、ここから「内部対立」でさらに戦果は歪められていきます。

大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署全てのハンコがなくては発表できません。

陸軍の場合は、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいました。

特に「作戦部」にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を見下していたそうです。霞ヶ関の「財務省」(かつての「大蔵省」)のようなものですね。他の部署は作戦部のことを快く思わず、何かにつけていがみ合っていましたから、全てのハンコをそろえるのは大変な作業でした。

それでも勝っているうちは良かったのですが、日本軍が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなりました。

「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前に過ぎず、「敗北を認めると、その責任を負わせられかねない」というのが本音でした。

発表が遅れれば、「報道部」の責任が問われます。そこで報道部はハンコを早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになったわけです。

「大本営」は、まさに「官僚組織」で、「大本営内部の対立」は、「霞ヶ関の官庁間の縄張り争い」や「縦割り行政の弊害」を先取りしていたようですね。

(6)「ミッドウェー海戦」の大本営発表

軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年6月の「ミッドウェー海戦」の大本営発表です。

海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていましたが、飛び込んできたのは空母4隻を失うという予想外の知らせでした。開戦以来初めての大敗に直面し、これをどう発表するかを巡る調整は難航を極めたそうです。

報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案しましたが、作戦部が猛反対しました。

3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされました。一方で、敵の損害は「空母1隻大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表されました。

報道部の担当者は戦後、「ミッドウェー海戦」の大本営発表の成り行きについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐しています。

誰かの決定も指示もなく、阿吽(あうん)の呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出されたようです。

情報軽視と軍内部の対立という欠陥が放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度し、デタラメの発表をする仕組みが出来上がっていたのです。

一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もありましたが、これは誤りが判明したからではなく、過去の嘘から生じた矛盾を取り繕うためでした。しかし同時に、新たな嘘をついていましたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりでした。

(7)「転進」や「玉砕」への言い換えによる実態の隠蔽

「ガダルカナル島の戦い」での「撤退」を、「転進」と言い換え、「アッツ島の戦い」での「守備隊全滅」を「玉砕」と言い換えて実態を隠蔽しました。

その結果、大本営の作戦や補給の失敗は不問に付されました。

(8)「神風特別攻撃隊」で戦果を取り繕う

1944年以降、日本本土が空襲にさらされ戦いの前線が迫って来ても、大本営は嘘を発表し続けました。

ごまかしや帳尻合わせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられました。

特攻隊の戦果は大幅に水増しされましたが、「国に身を捧げて得た戦果を疑うことは許されない」というわけで、大本営は特攻隊の戦果まで自分たちの責任の取り繕いに利用しました。

4.今の日本政府や中央省庁も「大本営」のような体質になっていないか?

歴史を学ぶことは、現在の状況を考える上でも大変役に立つと私は思っています。

大本営は国民に対して、「鬼畜米英」「撃ちてし止(や)まん」「欲しがりません、勝つまでは」「一億玉砕」などと国民に対して、敵愾心を煽り我慢や負担を強いるだけで、必要な物も与えず、真実の情報も知らせず、最終的な責任も取りませんでした。

そういう意味で、「大本営」や「大本営発表」の犯した失敗は、今の日本政府の隠蔽体質や現状を正しく認識しないコロナ対応、政策判断の検証不足のほか、中央省庁の縄張り争い、責任回避や無責任体質など、大いに参考にして反省すべき点があるのではないでしょうか?


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