柳原白蓮は大正天皇の従妹だが、正田美智子さん排斥運動に暗躍の黒歴史もある!

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白蓮

柳原白蓮と言えば、センセーショナルな駆け落ち事件である「白蓮事件」で有名ですが、最近ではNHKの朝ドラ「花子とアン」に登場して広く知られるようになりました。

上の写真を見ると、竹久夢二(1884年~1934年)の愁いを帯びた美人画(下の画像)にあるような女性ですね。

竹久夢二の美人画

NHKの朝ドラ「花子とアン」では、彼女をモデルにした「葉山蓮子(はやまれんこ)」役を仲間由紀恵が好演しましたが、二番目の夫「嘉納伝助(かのうでんすけ)」(筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門がモデル)役を見事に演じた吉田鋼太郎の方が、私には強く印象に残っています。

閑話休題、柳原白蓮とはいったいどんな女性だったのでしょうか?

1.柳原白蓮とは

柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)(1885年~1967年)は、本名宮崎燁子(みやざきあきこ)(宮崎は、三番目の夫・宮崎龍介の苗字)で大正から昭和時代にかけての歌人です。

父は伯爵の柳原前光(やなぎわらさきみつ)(1850年~1894年)、母は前光の妾のひとりで、柳橋の芸妓となっていた没落士族の娘 奥津りょうです。大正天皇の生母である柳原愛子(やなぎわらなるこ)(1855年~1943年)の姪で、大正天皇の従妹にあたります。

「大正三美人」(*)の一人で、白蓮事件で有名です。

(*)「大正三美人」とは、九条武子(くじょうたけこ)・柳原白蓮・江木欣欣(えぎきんきん)、あるいは九条武子・柳原白蓮・林きむ子の三人のことです。

・九条武子(1887年~1928年):旧姓・大谷武子で、京都西本願寺・大谷光尊の二女です。1909年、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られました。

九条武子

・江木欣欣(1877年~1930年):父は初代愛媛県知事関新平、母は関家の女中藤谷花で、明治期の法律学者・江木衷の妻です。

江木欣欣

・林きむ子(1884年~1967年):芸能一家に生まれ、あらゆる芸事を身につけました。1904年に代議士の日向輝武と結婚して社交界の花となりましたが、夫の死後、詩人の林柳波と結婚し、スキャンダルとなりました。

林きむ子

2.柳原白蓮の生涯

(1)生い立ち

柳原白蓮は1885年、東京に生まれました。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことからシャンデリアの光を連想させる「燁子(あきこ)」と名付けられました。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍されました。

前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅は燁子の引き取りを願っていましたが、正妻の初子がそれを阻止すべく燁子を自分の手元に引き取ったということです。生母・りょうは1888年、燁子3歳の時に病死しています。

1894年、遠縁にあたる子爵・北小路随光(きたこうじよりみつ)(1832年~1916年)の養女となりました。

(2)最初の結婚と離婚

1898年、華族女学校に入学。1900年に、15歳で北小路家の長男資武(すけたけ)と結婚させられ、その後、妊娠により女学校を退学。長男・功光(いさみつ)を出産しましたが、1905年、功光を北小路家に残して離婚し、実家に戻りました。

資武には知的障害があったといわれており、燁子への暴力や、女中との浮気はしょっちゅうだったということです。この不幸な結婚に絶望した燁子は、5年間の結婚生活に耐えたものの、ついに耐え切れず20歳で実家に戻ったのです。

(3)幽閉生活と女学校入学

しかし、世間体を慮った実家からは厳しい措置を受けました。当時、華族の家庭では体裁が重んじられ、離婚した娘は恥とされて柳原家本邸に入ることができず、前光の正妻・初子の隠居所で読書や短歌をなぐさめとして暮らす「幽閉同然の生活」となり、挨拶以外にはほとんど誰とも口をきいてもらうことがなかったということです。

姉・信子の計らいで、古典作品や小説を差し入れてもらい、4年間のあいだひたすら読書に励んでいたそうです。

1908年には幽閉生活を解かれ、23歳の時に東京・麻布のカナダ系ミッションスクール「東洋英和女学校」に「寄宿生」として編入学し、佐佐木信綱(ささきのぶつな)(1872年~1963年)主宰の短歌会「竹柏会」に入門しました。燁子と短歌の本格的な出会いは、この時です。

女学校では自分よりも随分年下の同級生たちともうまく馴染み、中でも後に「赤毛のアン」などの翻訳者となった村岡花子(1893年~1968年)とは親交を深め、「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う「腹心の友」として仲良く過ごしました。

(4)再婚

1910年11月、燁子25歳の時に、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門(いとう でんえもん)との再婚話が持ち上がりました。

伝右衛門は当時50歳に到達しており、燁子とは親子ほどの年齢差があったうえに、「労働者からのたたき上げの彼」と、「天皇家にゆかりのある燁子」とは、あまりにも「身分の差」がありました。

年齢・身分・教養のいずれも不釣り合いな、「伯爵家と炭鉱王の政略結婚」として世間を騒がせ、東京日日新聞では連載で大きく報じられました。村岡花子はこのニュースにショックを受け、燁子と絶交に至りました。

このことから、2人の結婚は「黄金婚」と呼ばれ、「華族の令嬢が売り物に出た」と揶揄されることになりました。

伝右衛門は柳原家や結婚の仲介者に多くの金銭を贈ったと報道され、燁子の兄・義光はそれを否定していたものの、不釣り合いな結婚相手の元に妹を嫁がせた理由については、「出戻りですからな」と答えたということです。

当時はこれほどまでに、離婚歴のある女性に対しての偏見がひどかったのです。

(5)炭鉱王の妻

伊東伝右衛門邸

伊藤邸は贅を尽くした大改築が行われ、燁子を迎えましたが、そこで燁子は、伊藤家の複雑な家族構成を知らされることになります。

前妻との間に子供がいないと聞かされていた伝右衛門には、妾との間に小学6年生の実娘・静子がいました。養嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年生の八郎がおり、父の傳六が妾に生ませた異母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていました。傳右衛門は若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体であり、燁子は実子を持つことが出来ない不安定な立場で、大勢の使用人・女中・下男も暮らす複雑な大家族の女主人となりました。

燁子は、伝右衛門の子供たちや女中、使用人などに徹底的に教育を施しました。

子供たちには高等教育を受けさせ、娘の嫁ぎ先も用意するなど、家内の改革を試みた燁子でしたが、やがて遊郭に入り浸っていた夫・伝右衛門から病気をうつされてしまいます。

(6)筑紫の女王・白蓮

そのことから夫婦の溝が深まる一方でしたが、燁子はこの九州での孤独な日々の中で、苦悩や葛藤を短歌に託し、機関誌『心の花』へ発表を続けました。

師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることとなりました。

福岡天神町にある別邸を中心に、名だたる歌人・俳人らとの交流を深めていった白蓮は、「福岡社交界の華」として華々しく活躍しました。

再婚後は「筑紫の女王」と呼ばれましたが、生きがいを感じられずに、村岡花子に心情を吐露する手紙を書いています。これをきっかけに親交が再開しました。

(7)恋に生きる

そんな中、1919年に戯曲『指髷外道』(しまんげどう)を発表したことが評判となりました。1920年1月に宮崎龍介が、出版の打ち合わせのために燁子の元を訪れました。彼は東京帝国大学学生のまま吉野作造が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』(大鐙閣)の主筆となっていたのです。

社会変革への熱い想いを持つ社会主義者(社会運動家)の龍介に出会い、燁子はこれまでに感じたことのない想いにとらわれることになります。

やがて、龍介と恋文を交わし始めるようになった燁子は、限られた時間の中で彼との逢瀬を重ねることとなりました。

龍介の周辺では、彼と燁子の恋愛関係の噂が広まり、1921年1月に龍介は編集者としての仕事を解任されることになります。

(8)出奔決意

燁子から龍介に「今の境遇に耐えられない、何度自殺しようと思ったか知れない。今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい。」といった趣旨の手紙が届くようになります。1921年8月、京都での逢瀬で燁子は龍介の子を身ごもりました。

まだ「姦通罪」のあったこの時代、「道ならぬ恋」はまさに命がけでした。「姦通」は旧刑法では2年以下の懲役となる犯罪行為でした。

燁子は伊藤家を出る覚悟を決め、自分の後釜のために傳右衛門気に入りの芸妓・舟子を身請けして、伝右衛門の妾に差し出したのです。

そして1921年10月に2人は手に手を取り合い、駆け落ちを実行しました。燁子36歳、龍介29歳の頃でした。

のちにこの事件は「白蓮事件として語り継がれることになります。

燁子は伊藤家に対して大阪朝日新聞紙上で「『筑紫の女王』伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ます 愛人宮崎法学士と新生活?」という見出しで「絶縁状」を発表し、その2日後には大阪毎日新聞紙上に「絶縁状を読みて燁子に与ふ」という伝右衛門の抗議文が掲載されるなどして、センセーショナルな事件となりました。

「絶縁状」には次のような文章があります。

私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培う為めに貴方の許を離れます。

(9)再々婚以後

1922年に長男・香織を出産しましたが、義父が抱える多額の負債もあって、生活は苦しく、龍介が結核に倒れた時期は、文筆で生計を支えました。1925年、長女・蕗苳(ふき)が誕生。1935年以降、歌誌「ことたま」を主宰しています。

(10)戦争と晩年

1945年、早稲田大学政経学部の学生で学徒出陣していた香織を、終戦のわずか4日前に米軍による空爆で亡くしました。その経験から、「国際悲母の会」を立ち上げ、各地で平和を訴える活動を起こしました。

緑内障で両目の視力を失いながらも、夫・龍介の手厚い介護と、娘夫婦の見守りによって歌を詠む穏やかな晩年を過ごし、1967年、心臓衰弱のため81歳で死去しました。

3.柳原白蓮の「黒歴史」

以上のような生涯を送った柳原白蓮ですが、私には彼女の「黒歴史」「闇の側面」ともいうべき「正田美智子さん排斥運動」を忘れることができません。

1958年(昭和33年)11月27日、美智子さまは皇室会議により、正式に皇太子妃に内定しました。民間初のプリンセス誕生に国民は沸き、ミッチーブームが巻き起こりました。しかし、そんな祝福ムードの国民とは裏腹に皇室内部、そしてその周辺では猛烈な反対運動が起こっていました。

約50年にわたって昭和天皇に仕えた入江相政(すけまさ)元侍従長が日々の仕事について綴った『入江相政日記』。1958年10月11日の日記には、こんなことが綴られています。

《東宮様(現在の上皇)のご縁談について平民からはとは怪しからんといふやうなことで皇后さま(香淳皇后、享年97)勢津君様(秩父宮妃勢津子さま、享年85)と喜久君様(高松宮妃喜久子さま、享年92)を招んでお訴へになった由》

しかも、この日記はご婚約発表のわずか1か月半ほど前。そんなギリギリの時期まで反対活動を続けていたのです。

ご婚約が正式決定した後には、今度は常磐会(ときわかい)による反対が始まります。常磐会とは女子学習院のOG会で、明治以来、皇族妃、元皇族を中心にした組織で、皇室内における力は絶大なものがありました。

当時、その常磐会の会長を務め、皇室に大きな力を持っていたのが勢津子さまの母・松平信子さん(享年82)でした。

「お后は旧伯爵家以上の家庭から選ばなければなりません。一般の方では伝統習俗の多い皇室に入るのは無理でしょう」

これが信子さんのお妃選びの考え方で、周囲にも言い続けてきました。しかし、美智子さまが妃殿下に決まり、常磐会会長として面目を潰された信子さんは、烈火のごとく怒り、あろうことか「婚約解消」へと動き始めました。そんな信子さんの右腕として尽力したのが白蓮だったのです。前述した『入江相政日記』(昭和33年12月22日付)には、こう綴られています。

《松平信子、宮崎白蓮が中心となって今度の御婚儀反対を叫び愛国団体を動かしたりした由》

白蓮と姻戚関係にあった白洲正子さん(享年88)にも白蓮から反対運動に加わるようにと連絡がありました。正子さんは華族の出で、政財界との強いパイプを持つ白洲次郎を夫にもつことで、上級社会では強い影響力がありました。正子さんは自伝でこう明かしています。

《ある夜勢こんで電話がかかって来た。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」》

もともとは華族でしたが、「白蓮事件」によって自らその身分を捨て、平民となったにもかかわらず、平民プリンセスの誕生に「断固NO!」の姿勢を示した白蓮。白蓮に詳しい文芸評論家の尾形明子さんはこう言っています。

白蓮は身分制度、自分が伯爵家の出身であることのプライドの中に生涯を生きた人だと思います。それは宮崎龍介と結婚してからも柳原家の出であることを主張するため『柳原白蓮』を名乗り続けていたことでも明らかです。戦後、貴族制度の禁止にともない立場が弱くなった松平信子をはじめとする旧華族たちが、『白蓮事件』(夫・伊藤伝右衛門に白蓮が絶縁状を突きつけた件)を抜きにしても、文化人として有名で少なからず影響力があり、「大正天皇の従妹」という肩書を持つ白蓮を利用しようとし、彼女もそれに応えたわけなんです」

一般的には「進歩的な女性」と見られている白蓮ですが、この黒歴史を知ると、「華族などの身分制度が廃止された戦後でも貴族意識・特権階級意識が抜けない時代錯誤の女性」だったとわかりますし、「権威はちゃっかり利用」しようとするイギリスのヘンリー王子の妻のメーガンそっくりに見えてきます。

私は今までに「残念な天皇」というシリーズ記事を15本書きました。

しかし天皇以外にも時代錯誤の権威を笠に着て、「残念な皇族や元皇族の女性」がいたことがよくわかります。

彼女らは右翼団体を使って正田家に嫌がらせをしたり、正田美智子さんが皇太子妃になった後も松平信子の懐刀の女官長が「浅野内匠頭に対する吉良上野介のような陰湿な嫌がらせやいじめ」を続けたようです。

私も正田美智子さんが婚約・結婚当初のふっくらとして溌溂とした姿に比べて、げっそり痩せてやつれた痛々しい姿を実際に見ているだけに、そのいじめ・バッシングの凄惨さがよく想像できます。

まるで韓流ドラマの時代劇にもよくあるような話です。

4.柳原白蓮の和歌

・われはここに 神はいづくに ましますや 星のまたたき 寂しき夜なり

・踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故(ほご)いだき 立てる火の前

・何方ぞ 火は焔えさかる 悲しくも 人声遠く そらにきこゆる

・持ちいでし 一つの包 それひとつ その家すべての 財にてありき

・幾億の 生命の末に 生れたる 二つの心 そと並びけり

・二つ三つ 金魚うかせて 子とあそぶ 初夏の日の 水に光れる

・英霊の 生きてかへるが ありといふ 子の骨壺よ 振れば音する

・もろともに 泣かむとぞ思ふ たたかひに 子を失なひし 母をたづねて

・身にかへて いとしきものを 泣きもせで 何しに吾子を 立たせやりつる

・わが肩に 子が置きし手の 重さをば ふと思ひいづる 夏の日の雨

5.伊藤傳右衛門とは

伊藤傳右衛門

伊藤傳右衛門(いとうでんえもん)(1861年~1947年)は、柳原白蓮の二番目の夫で、明治・大正・昭和時代の福岡県筑豊の実業家・炭鉱王です。

少年の頃から丁稚奉公、小鉱山の穴掘りなどをしましたが、1898年から炭鉱経営を始め、牟田炭鉱で巨富を積み、一代で産をなし“炭鉱王”と呼ばれました。

1914年大正鉱業、1937年伊藤合名を設立しました。この間、1903年衆院議員にも当選。1911年50歳の時、華族・柳原燁子(白蓮 26歳)と再婚し、世にいう赤銅御殿(あかがねごてん)を建てましたが、昭和初頭焼失し、大正鉱業は1964年に倒産しました。

6.宮崎龍介とは

宮崎龍介

宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)(1892年~1971年)は、柳原白蓮の三番目の夫で、大正・昭和期の弁護士・社会運動家・編集者です。孫文の盟友の宮崎滔天(みやざきとうてん)(1871年~1922年)(辛亥革命を支えた革命家で浪曲師)の長男で、母は前田案山子(まえだかがし)(1828年~1904年)(自由民権運動家、衆議院議員)の三女・槌子です。

余談ですが母の槌子は、夏目漱石『草枕』の「那美」のモデルとなった前田卓(まえだつな)(1868年~1938年)の妹です。

熊本県玉名郡小天村に前田案山子の温泉付きの別邸があり、それに部屋をつぎたして旅館としており、卓が仕切っていました。1897年頃、熊本の第五高等学校 (旧制) の教師であった漱石は、山川信二郎とこの旅館を何度か訪れています。1906年にに発表された『草枕』は前田家別邸を舞台とし、卓は「那美」として描かれることになりました。

波乱の歌人・・・柳原白蓮



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