<2023/5/1追記>朝ドラ「らんまん」の方がよっぽど「大河ドラマ」にふさわしい展開!
4月から始まった牧野富太郎の生涯をモデルにした朝ドラ「らんまん」を、私は欠かさず見ています。こちらは主人公だけでなく脇役の人物像もきちんと視聴者によくわかるように描かれており、物語の展開も円滑です。
主演の神木龍之介さんをはじめ、松坂慶子さん、佐久間由衣さん、志尊淳さんの演技も光っています。シンガーソングライターあいみょんさんの主題歌「愛の花」もこの物語にぴったりで、勇気をもらえます。
主人公の成長する過程もよくわかり、「大河小説」「教養小説」の要素も備えていますので、こちらの方がよっぽど「大河ドラマ」にふさわしいと私は思います。
<2023/3/23追記>牧野富太郎がモデルのNHK朝ドラ『らんまん』 が4月3日からスタート!
団塊世代の男性であれば子供の頃にカブトムシなどの昆虫が好きだった人は多いと思いますが、大きくなっても昆虫採集を続けている人は少ないでしょう。
また子供の頃に虫や花が好きだったとしても、「私は虫である。虫は私である」との名言を残した熊田千佳慕のようにそれ等を描く「昆虫と花の細密画家」になった人も稀です。
ましてや「植物」に特化し、「植物分類学」を志すほどの「植物の偏愛者」は滅多にいません。
牧野富太郎と言えば「植物分類学の権威」として有名ですが、詳しいことはご存知ない方がほとんどだと思います。
そこで今回は、牧野富太郎がなぜ植物学を志し、どのような人生を送ったのかを含めわかりやすくご紹介したいと思います。
1.牧野富太郎とは
牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862年~1957年)は、高知県出身の植物学者で理学博士です。「日本植物学の父」と呼ばれ、多数の新種を発見し約2,500種の命名も行った「近代植物分類学の権威」です。
小学校中退ながら、独学で植物学を修め、「日本植物志図篇」「牧野日本植物図鑑」「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」などの著書があります。
生涯で収集した植物標本は約40万点、描いた植物図は約1,700点に上ります。彼の誕生日4月24日は「植物学の日」とされています。
(1)生い立ち
彼は幕末の1862年に、高知県高岡郡佐川村の酒造業を営む裕福な商家の長男として生まれました。
何不自由なく暮らしていましたが、彼が物心つかないうちに両親と祖父を相次いで亡くし、祖母に育てられました。
一人で草木と遊ぶのが好きな子供で、早春には裏山の金峰神社のあたり一面に「バイカオウレン(梅花黄蓮)」(下の画像)の花が咲いていました。これが彼の一番好きな花だそうです。
(2)小学校中退
佐川村には領主深尾氏が創設した郷校「名教館(めいこうかん)」があり、彼も寺子屋や私塾で学んだあと名教館の入学し、西洋の最先端の諸学科を学びました。
1872年に学制が敷かれ、1874年には名教館の校舎が小学校となり、彼もそこに通い始めましたが、授業に物足りなさを感じて2年で退学してしまいます。
(3)植物学研究者への道
小学校中退後は、越知町の横倉山やその周辺の山々に出かけては植物採集に励み、独学で植物学を身につけました。このように実地に学ぶ「フィールドワーク」が彼の学問の原点です。
(4)東京大学の助手・講師を歴任
やがて、さらに専門的な植物学を学ぼうと1884年に上京し、東京大学理学部植物学教室に出入りしながら、本格的な植物研究に没頭します。
1887年には友人と「植物学雑誌」を創刊し、彼の論文が巻頭を飾りました。
1888年には「精細な植物図と記載を備えた西洋に負けない優れた植物誌を作る」という大志を抱いて、「日本植物志図篇」を自費出版しています。
1889年には土佐で発見したハコベに似た新種「ヤマトグサ」(下の画像)に日本で初めて「学名」(Theligonum japonica Okubo et Makino)を付けて「植物学雑誌」に発表しました。
1893年に31歳で東京大学「助手」となり、1912年(50歳)~1939年(77歳)まで東京大学「講師」を務め、合計47年間在職しました。
1927年(65歳)には「理学博士」となっています。博士論文は「日本植物考察(英文)」です。同年発見した新種の笹に妻の名を取って「スエコザサ」と命名しています。
この間、学歴を持たず権威を理解しない彼に対して、学内から何度も圧力があったようですが、結局彼が東大に必要な人材であることが認められ、長年にわたる奉職となりました。
(5)没後に文化勲章を追贈される
退官後の1940年に、78歳で「牧野日本植物図鑑」を刊行しました。1950年に「日本学士院会員」、1953年に「東京都名誉都民」となっています。1956年には「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」を刊行しています。
1957年に94歳で亡くなりましたが、没後に勲二等旭日重光章と文化勲章を授与されました。
2.牧野富太郎の考え方
愛弟子の中村浩博士(1910年~1980年)が、彼の研究をもとに編集した「牧野富太郎植物記」(あかね書房1973年刊、全8巻)の中の「牧野富太郎博士のことばー植物はわが友」に彼の考え方がわかりやすく紹介されています。
(1)総論的ことば
①自らを「植物の精」と思うほど、子供の頃から植物に親しんできた。
②人の一生で、自然に親しむほど有益なことはない。
③自然に親しむには、植物や動物に親しみ、そうすることで岩石や雲などあらゆる自然に親しめるようになる。
④自然に親しむには、相手をよく観察し、学ぶこと。これによって、自然は様々なことを教えてくれる。
⑤私は、一生貧乏で過ごしたが、みじめな気持ちやさみしい気持ちになったことはない。その理由は大自然に抱かれて、植物を友としてきたからである。
(2)各論的ことば
①植物に親しむには、その名を知ること。(名前を知らずして友だちになれない)
②植物の名前を知ると、親しみを覚え、花のしくみ、葉の形、実のすがたを調べるにしたがい、その植物を覚えるようになり、さらに親しみがわいてくる。
③植物の知識を深めるためには、フィールドワークが重要で、採取し、標本をつくることも重要である。
④標本をつくることで、分類してキク科やユリ科など検索可能になる。
⑤個々の植物の知識が増すにつれて、小説にもまさる面白いエピソードも知ることができ、ますます親しみは深くなる。
(3)結論的ことば
①緑の地球にあって、植物がなければ動物なく人間なし。植物は人間のエネルギーの源泉である。
②植物は、人間に役立つばかりでなく、花に代表される美しさから古来人間を楽しませ心を豊かにしてくれている。
③科学文明は、人間と自然を引き離し、人間の心を荒ませる要因となっているが、人間はもっと自然に対し謙虚にならなければ、自然に滅ぼされる。
④植物を友とし、大自然を相手にすれば、荒んだ気持ちもいやされ、自然を大切に思うようになる。
⑤植物を知れば知るほど、面白さが増し、さらに知りたいことが増えていく。
3.牧野富太郎の植物標本と植物画
植物学においては、研究の記録として、植物の特徴を文章よりわかりやすく表現・記録できる植物図(ボタニカルアート)が必要不可欠です。
彼には鋭い観察力と精細な植物画を巧みに描く才能があり、発見した植物を正確に忠実に写生しました。
4.牧野富太郎にまつわるエピソード
・植物だけではなく鉱物にも興味を持ち、音楽については自ら指揮を執って演奏会を開くなど、郷里の音楽教育の振興にも努めています。
・植物研究のために、造り酒屋であった実家の財産を使いましたが、東京に出る際には親戚に譲っています。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益まで研究に注ぎ込んだそうです。
・当時の大学の権威を無視した出版などがもとで、大学を追われたこともありますが、学内には彼の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳になるまで実に47年間も東大植物学教室になくてはならない講師として勤務し、日本の植物学の発展に貢献しました。
・尾瀬で植物採集した際にあまりにも多くの植物を採ったため、尾瀬の保護運動の第一人者であった平野長蔵氏から「研究するだけでなく、保護も考えろ」と叱られたこともあるそうです。
・戦後間もない頃、昭和天皇が避暑地から帰ると、侍従が「御座所の庭の雑草を抜いておきました」と報告したのに対し、「世の中に雑草という名前の植物は無い」という彼の言葉を引用して諭されたそうです。
・子供は13人も生まれましたが、その内6人は夭折し、7人(3男4女)が成長しました。
5.牧野富太郎の言葉
・私は植物の愛人として生まれて来た。あるいは草木(そうもく)の精かも知れん。
・花は黙っています。それなのになぜ、あんなに快く匂っているのでしょうか?
・草木に愛を持つことによって人間愛を養うことができる。思いやりの心、私はわが愛する草木でこれを培い、その栄枯盛衰を観て人生なるものをも解し得た。
・わが姿たとえ翁と見ゆるとも、心はいつも花の真盛。
・人間は生きている間が花である。わずかな短い浮世である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智を磨き、人のために尽くし、国のために務め、自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。
私も子供の頃、家の庭の草花や樹木、元「練兵場」だった近所の原っぱの草花を見ていて、「植物の生存戦略」や「植物の勢力争い」を垣間見ました。また、伊吹山などの「お花畑」に咲く可憐な高山植物に魅せられた記憶もあります。
物言わず、また自分自身の生存場所も自由に変えることの出来ない植物の健気(けなげ)でしたたかな生きざまは、我々に人生について教えてくれるものがあるようです。
そう言えば、有名な映画評論家の淀川長治さんも、「映画によって人生を教えられた」と語っていました。何事も極めると「人生哲学」を会得する糧ともなるようです。