前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。
第3回は「鈴木儀三治」です。
冒頭の鈴木儀三治の座像は、彼が描いた「父母の図」の父 恒右衛門と、彼の子孫・青木源左衛門の写真からモンタージュされ、1933年に浦佐(現南魚沼市浦佐)の彫刻家 井口喜夫氏によって制作されたものです。
1.鈴木儀三治(鈴木牧之)とは
鈴木儀三治(すずき ぎそうじ)(1770年~1842年)は、江戸時代後期の商人・随筆家です。幼名は弥太郎、俳号は牧之(ぼくし)、屋号は「鈴木屋」です。雅号は他に「秋月庵」「螺耳」など。父は鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母はとよ。
彼は越後国魚沼郡の塩沢(南魚沼郡 塩沢町→南魚沼市)で生まれました。「鈴木屋」の家業は地元名産の小地谷縮(おぢやちぢみ)の仲買と、質屋の経営でした。
地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、父・牧水もこれらの文人と交流しました。彼もその影響を受け、幼少から俳諧や書画をたしなみ、人並外れた才能を示しました。
一方、家業を継ぐための修業にも励み、16、17歳ごろまでには商人に必要な知識を一通り会得しました。
19歳の時、縮(ちぢみ)80反を売却するため初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした文章は自分にしか書けないと思い定め、随筆で地元を紹介しようと決意します。
20歳の時に家業を継ぎ、商売繁盛に努めました。そして親孝行をし、両親は満ち足りた晩年を過ごして往生を遂げました。
やがて多忙な時間を割いて越後の風土の研究を行うようになって行きます。
帰郷し執筆した作品を1798年、戯作者の山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みましたが果たせず、その後も曲亭馬琴や岡田玉山、鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼しましたが、なかなか実現できませんでした。
出版について口利きを頼まれたベストセラー作家山東京伝(1761年~1816年)は、請け合っておきながら、そのままお蔵入りにしているうちに死んでしまいました。
そのため彼は今度は曲亭馬琴(1767年~1848年)の手に託したのですが、馬琴はこれを10年以上も手元においたまま放置したのです。
しかし、彼を気の毒がった山東京伝の弟・山東京山(1769年~1858年)の奔走によって、1837年にようやく『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』初版3巻を刊行、続いて1841年にも4巻を刊行しました。
初版の刊行は、原稿を最初に京伝に持ち込んだ時からなんと40年後のことでした。兄の安請け合いの尻拭いをした京山も偉いですが、何十年かかっても初心を貫くという、彼の粘り腰は驚嘆に値します。やはりこれも雪と相対するうちに自ずから備わった、雪国の人特有の忍耐心の為せる業かもしれません。
現代のベストセラー作家の場合もそうでしょうが、有名な戯作者・読本作者の山東京伝や曲亭馬琴の元には、「原稿を読んで欲しい」「出版してほしい」という依頼が山のようにあったに違いありません。
彼らは自分自身の本業も忙しいので、全ての依頼作品をじっくり読んでいる暇はなかったのでしょう。それで、「放置しておけばやがて諦めるだろう」と考えたのでしょう。確かに「いらち」(せっかち)な関西人である私なら、しびれを切らして早々に見切りをつけて他を当たったでしょうが、彼はネームバリューのある山東京伝や曲亭馬琴に望みを託して、長年にわたって我慢強く待っていたのでしょう。
同書は雪の結晶のスケッチ(『雪華図説』からの引用)や、雪国独特の習俗・暮らし・方言・行事・遊び・伝承・奇譚や、産業、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、「雪国百科事典」ともいうべき地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料です。江戸で出版されると当時のベストセラーとなりました。
その初編には顕微鏡で見た雪の結晶をはじめ、雪の中に生きる虫たち、雪崩や吹雪やつららの話など、今日の自然科学に関すること。雪国に生きる熊や鮭の生態といった生物学に関すること、越後縮などの伝統産業に関すること、雪の中の幽霊の話などの怪奇現象といった文化人類学の話題など、雪にまつわるありとあらゆるエピソードが掲載されています。
そして、その第2 編は春夏秋冬に分けて、里人の風俗習慣や年中行事など、雪国の生活全般が描かれています。
著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山記行』や、『夜職草(よなべぐさ)』などがあります。また画も巧みで、馬琴に『南総里見八犬伝』の挿絵の元絵を依頼されたり、彼の山水画に良寛が賛を添えたりしています。
このように彼の交友範囲は広く、作家では山東京伝や弟の山東京山、十返舎一九、滝沢馬琴、そのほか画家や書家、俳人、役者など200人余りにのぼっています。
学問や文芸にたけ、几帳面であった彼が遺した資料から、当時の文人や画家などの様子をうかがい知ることができます。
『秋山記行』で、彼は59歳の時に訪れた信濃と越後の国境の秋山郷(現在の長野県下水内郡栄村)の興味深い風俗や暮らしぶりを紹介していますが、ここは彼によって初めて紹介された秘境です。
彼はまた登山家の間でも一目置かれています。41歳の時に標高2145mの苗場山に登っていますが、ある山の愛好家は、「真に雄大な山岳景観を求めての登山はまだ行われていなかった当時、宗教上の理由でなく、純粋に山に登りたくて登るという近代登山の形をとった斬新なものであった」と高く評価しています。
文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家産を3倍にしたという商売上手でもありました。また貧民の救済も行い、小千谷の陣屋から褒賞を受けています。
1842年に、72歳で死去しました。新潟県南魚沼市塩沢には鈴木牧之記念館(下の画像)があります。
彼は70歳(古稀)の時に7万字にも及ぶ遺書を書いていました。それは婿養子に対する不満であり、そんな家族と最晩年を過ごさなければならない孤独なわが身の悲哀をこぼす言葉だったということです。
老人はまた、もしこの遺書が反古にされたら(=生かされずに捨てられてしまったら)、「永久草葉の陰にて御怨み申すべく候」と脅迫めいた言葉さえ吐いています。
(4)彼は孝行息子で父・恒右衛門は幸福な老後生活を送った
彼の父・恒右衛門は、最上産の「苧麻(まお)」(越後縮の原料)の買い付けや越後縮の仲買で財を成し、30歳で家業を質屋一本に絞り、50代前半には早くも家業一切を息子の儀三治に任せ、自らは大好きな俳諧と読書三昧の日々を過ごしました。
1813年9月12日に、43歳の彼は長男・伝之助を21歳の若さで失っています。そして同年9月29日に母を亡くしています。
老母は孫の早すぎる死に力を落としていたのでしょう。高齢に精神的な打撃が加わって、胸の下が差し込んだ彼女は「寝かせてくれ」と言って臥せったまま、その日のうちに亡くなったそうです。
彼は孫の死で傷つき打ちひしがれた老母の心を慰めるために、死の前の晩まで、彼女に本を読み聞かせていました。
ともあれ、よく尽くしてくれる妻と孝行息子(儀三治)に恵まれて、趣味に没頭した恒右衛門の晩年は、「絵に描いたような幸福な老後生活」でした。
母も孝行息子(儀三治)に恵まれて、満ち足りた晩年を過ごした末に穏やかな往生を遂げました。
我中風も、言舌のふわかりのみ、是も互に筆談にてたらはぬ事もなく、能(よき)方の目は眼鏡も入らず、只寝起におかしき所あれども、敢(あえ)て人の手をもからず。大聖の肱(ひじ)を曲て枕とす、楽其中にありと、げにさこそと有がたく、今身の老をなぐさむるならむ。
人の一生のうちで最も知り難いものは老人の心理であろう。昔から老人の心理を正直に告白した書などないからである。老境に入り文筆など弄するものなどはなく、壮年にしては老人の心理など解し得まい。
隠者としては、ひっそりとした孤独の境地にあって、自然と静かに観照しあいながら沈思黙考する「凝思寂聴(ぎょうしじゃくちょう)」が理想の境地です。
しかし世捨て人として、隠遁生活を送っていても、心の中は、「悟り切ったように平静」な状態ではなく、「煩悩・葛藤・無念・雑念・俗念・不安・不満・怒りの気持ちが泡立ち、激しく渦巻く」ような状態だったのではないでしょうか?
一時的に「諦観」しても、後から後からいろいろな思いが去来し、心が波立ったのではないでしょうか?
だからこそ、彼らは、その思いを内に秘めながら、和歌や漢詩あるいは随筆などでその思いを吐き出していたのではないかと、私は思います。