前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。
第6回は「曲亭馬琴」です。
1.曲亭馬琴とは
曲亭馬琴(きょくていばきん)(1767年~1848年)は、江戸末期の戯作者(戯作・げさくとは通俗的な読み物の意)で、後に読本(よみほん)作家に転向し、江戸後期の読本界の第一人者となった人物です。「日本のシェイクスピア」とも称えられます。
彼は、ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初のプロ作家(著述家)です。
姓は滝沢、名は興邦(おきくに)、のち解(とく)と改めています。字(あざな)は子翼、瑣吉(さきち)。通称は清右衛門、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)。別号は大栄山人(だいえいさんじん)、著作堂(ちょさどう)主人、飯台陳人(はんだいちんじん)、乾坤(けんこん)一草亭、玄洞陳人(げんどうちんじん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、信天翁(しんてんおう)など。変名に傀儡子(かいらいし)、一竹斎達竹などがあります。
「曲亭馬琴」は、戯作に用いる戯号です。「滝沢馬琴」の名でも知られますが、これは明治以降に流布した表記です。教科書や副読本などで「滝沢馬琴」と表記するものがありますが、これは本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であるとして近世文学研究者から批判されています。
「曲亭馬琴」という戯号について、彼自身は「曲亭」は『漢書』陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名、「馬琴」は『十訓抄』に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から取ったと説明しています。
彼は、1000石取の旗本松平鍋五郎(なべごろう)源信成(のぶなり)の用人滝沢運兵衛興義(おきよし)と妻門(もん)の五男倉蔵(くらぞう)として江戸・深川の主家の邸内に生まれました。
彼は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだということです。
長兄興旨は羅文(らぶん)と号して俳諧(はいかい)を好みました。10歳にして滝沢家を継ぎ、主君の孫八十五郎に仕えましたが、その暗愚に耐えかね、14歳で主家を出奔、長兄や叔父のもとにいて、長兄の師越谷吾山(こしがやござん)に俳諧を学び、文学趣味を涵養(かんよう)しました。
その間、旗本の間を転々と「渡り奉公」をし、放蕩(ほうとう)生活を送りましたが、23歳のとき官医山本宗英の塾に入って医を志します。しかし、むしろ亀田鵬斎(ほうさい)の儒学の講説を聞くほうを好んだということです。
1790年、23歳の彼は戯作(げさく)で身をたてることを決意し、山東京伝に弟子入りしましたが、おりから深川永代寺の弁財天開帳の境内で評判をとっていた壬生(みぶ)狂言に取材して、黄表紙『尺用二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を「京伝門人大栄山人」の名で著し、翌年に刊行しました。
それからは「ゴーストライター」として京伝の「代作」などをして、もっぱら黄表紙を著し、一時、当時一流の版元書肆(しょし)蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の番頭に雇われたりしました。
27歳の時、元飯田町中坂下の商家伊勢屋(いせや)の寡婦会田(あいだ)氏のお百(ひゃく)という3歳年上の女に婿入りしました。姑(しゅうとめ)の死後には商売をやめ、姓を滝沢氏に復し、1796年頃にはすでに2女をもち、翌年には男子宗伯(そうはく)(興継)も生まれました。
同年には読本(よみほん)の処女作『高尾船字文(たかおせんじもん)』を著しましたが、まだ評判を呼ばず、長編への準備期間中でした。1802年、彼は京坂に旅行しましたが、上方(かみがた)の文人たちに触れて大いに刺激を受け、のちに作品に登場させる人物の遺跡や墳墓を実地踏査し、読本作者としての力を養いました。
このときの経験を記した随筆が『蓑笠雨談(さりつうだん)』(1804年刊)であり、大坂の河内屋(かわちや)太助と契約して1805年に本格的な読本の初作として刊行した作品が『月氷奇縁(げっぴょうきえん)』でした。
その好評により、自分の境地を確立した彼は、『稚枝鳩(わかえのはと)』『石言遺響(せきげんいきょう)』『四天王剿盗異録(してんのうしょうとういろく)』『三国一夜(さんごくいちや)物語』『勧善常世(かんぜんつねよ)物語』『標注園(その)の雪』『隅田川梅柳新書(すみだがわばいりゅうしんしょ)』『頼豪阿闍梨怪鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)』『雲妙間雨夜月(くものたえまあまよのつき)』『松浦佐用姫石魂録(まつらさよひめせきこんろく)』『旬殿実々記(じゅんでんじつじつき)』など、1808年に至るまで続々と読本を著しました。
一時期、葛飾北斎が彼の居宅に居候(いそうろう)していたことがあります。北斎が彼の読本の挿絵を盛んに描いていた頃だと思います。
中でもとくに好評であったのは『三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)』(1808年刊)と長編『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』でした。
不眠不休ともいえる努力に基づいたこの多作によって、彼は師である山東京伝との読本制作の競争に勝った形になりましたが、1814年にはいよいよ数年来温めていた『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』を世に送り始め、この大長編は28年間かけて完成することになります。
1809年から1813年の間には、『昔語質屋庫(むかしがたりしちやくら)』『夢想兵衛蝴蝶(むそうびょうえこちょう)物語』『常夏草紙(とこなつぞうし)』『占夢南柯後記(ゆめあわせなんかこうき)』『青砥藤綱摸稜案(あおとふじつなもりょうあん)』『糸桜春蝶奇縁(いとざくらしゅんちょうきえん)』『皿皿郷談(べいべいきょうだん)』などを著しました。
また随筆『燕石襍誌(えんせきざっし)』『烹雑之記(にまぜのき)』『玄同放言(げんどうほうげん)』『兎園小説(とえんしょうせつ)』などに学問考証の成果を問うこともありましたが、彼の学芸趣味は耽奇(たんき)会、兎園会における屋代弘賢(やしろひろかた)、山崎美成らとの交流にも発揮されました。
『八犬伝』と並行して、『朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)』『近世説美少年録(きんせせつびしょうねんろく)』『開巻驚奇侠客伝(かいかんきょうききょうかくでん)』などの長編歴史物も書きましたが、1839年頃からの眼疾の悪化その他の理由によって、それらは中絶され、『八犬伝』のみが息子・宗伯の嫁おみちの献身的な代筆などの協力によって完成しました。
その間には1835年の息子・宗伯の死、おみちと馬琴の仲を邪推する妻・お百との葛藤(かっとう)、失明、生活苦など、さまざまな困難が彼を襲いましたが、不撓(ふとう)不屈の気力でそれらを切り抜けた結果でした。
ほかに『傾城水滸伝(けいせいすいこでん)』『新編金瓶梅(きんぺいばい)』などの多くの合巻(ごうかん)を著しましたが、それらは読本よりも収入の点で彼を助けました。
また膨大な日記、殿村篠斎(とのむらじょうさい)、小津桂窓(おづけいそう)ら彼の愛読者への書簡と家記『吾仏(あがほとけ)の記』を残し、その几帳面(きちょうめん)さと精力絶倫の努力ぶりは驚嘆に値します。
1848年に81歳で亡くなり、墓所は現に小石川・茗荷谷(みょうがだに)(東京都文京区)の菩提寺(ぼだいじ)深光寺にあります。法名は著作堂隠誉蓑笠居士。彼の読本は幕末から明治にかけて大人気を博しました。
坪内逍遙が『小説神髄』で小説近代化のために『八犬伝』を批判したりしましたが、明治30年代まで根強い人気を保ち、小説の方法、出版、批評、文学論争などのさまざまな点において、近代の作家と作品のあり方を準備した意義には甚だ大きいものがあります。
2.曲亭馬琴の老後の過ごし方
『南総里見八犬伝』の執筆には、1814年から1842年までの28年を費やし、彼のライフワークとなりました。
彼は真面目な努力家で、性格は几帳面、生涯を通じ規則正しい生活を送ったことで知られ、作品は雄大な構想と豊かな伝奇性を備え、勧善懲悪を説く長編で知られています。
彼は、晩年に著した『吾仏乃記(あがほとけのき)』の中で、「偕老同穴(かいろうどうけつ)(*)の利害(善し悪し)」について次のような趣旨を述べています。
(*)「偕老同穴」とは、「夫婦が仲むつまじく添い遂げること。夫婦の契りがかたく仲むつまじいたとえ」です。夫婦がともにむつまじく年を重ね、死後は同じ墓に葬られる意から。(「偕」はともにの意。「穴」は墓の穴の意。)
夫婦ともに老いともに墓穴に入ることを偕老同穴と人は讃えるが、それは夫婦が経済的に豊かであるか、貧しくても老後の面倒を見てくれる子供や孫がいる場合に限られる。
自分のように年上の妻に逝かれ、息子にも先立たれてみると、偕老同穴が必ずしも幸せな境遇でないことをしみじみ感じないではいられない。
なぜ悪いか?妻が夫よりずっと若ければ、偕老同穴の夢は叶わないが、老いた夫の面倒を見ることができる。しかし、年齢が近かったり年上だったりで一緒に老いてしまったら・・・。夫の面倒どころか自分を介護してくれる人が必要になるだろう。
さて、そうなると息子の嫁が介護を担当することになるが、妻の代わりに嫁が老いの介護をするのは、本来道理に適っていない。(馬琴は、老いて妻の面倒になるのは「順」だが、嫁の面倒になるのは「逆」だと述べています)
どうして自分はもっと早くこの点に気付かなかったのだろう。
彼は、年上の妻と結婚したことを後悔しつつ、「老いて死なざるも亦(また)一(ひとつ)の憂ひ也」とため息をついています。
3.曲亭馬琴の名言
・悪銭身につかず、一世の富は身後に恥多し、一朝の利は後栄に損あり。
・怒る者は内虚し。
・苦中の苦を喫せざれば、上中の上人ならず。
・療治は末なり、養生は本(もと)なり。
この言葉は、病気の治療というのは最後の手段であり、日頃の心がけによる養生が肝心であるという意味です。「治療医学」より「予防医学」の重要性を説いたもので、貝原益軒の『養生訓』に通じるものがあります。
・世の中の 役を逃れて もとのまゝ かへすぞあめと つちの人形(辞世)
「人間の役目を離れて、元のままに、魂は天へ肉体は土に還ろう」という意味です。