貝原益軒 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その5)

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貝原益軒・養生訓

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第5回は「貝原益軒」です。

1.貝原益軒とは

貝原益軒(かいばらえきけん)(1630年~1714年)は、江戸前期から中期の儒学者・博物学者・庶民教育家です。

幕末に来日した有名なシーボルト(1796年~1866年)は、彼のことを「日本のアリストテレス」と評しています。アリストテレスは博物学を学び、実証的な哲学を唱えた人です。益軒は浪人時代に実証的気風を育てた人で、次第に朱子学のもつ観念性に疑いを持つようになります。

彼は、福岡藩祐筆(ゆうひつ)の子として生まれました。名は篤信(あつのぶ)、字(あざな)は子誠(しせい)、通称は久兵衛。久しく「損軒(そんけん)」と号し、78歳の時に益軒と改めました

幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活した経験が、後年の彼をして「民生日用の学」を志す契機となりました。

彼は子供のころ神童といわれていたそうで、面白い話が残っています。
兄さんが『塵劫記(じんこうき)』(*)という和算のテキストを捜したが見つからない。よくよく捜してみると益軒が読んでいた。「おまえ、わかるのか」とやらせてみたら、ちゃんとわかっていた。それで父親と「幼くて頭がいいのもいいが、この子は長生きしないだろう」と嘆いたということです。

(*)『塵劫記』とは、1627年に吉田光由が著したわが国最初の算術書。中国の数字を日本の事情に適合するように組みかえた平易な入門書で、明治初年まで算術書の異名となりました。

初め福岡2代目藩主の武断派・黒田忠之(ただゆき)(1602年~1654年)に仕え、その怒りに触れて浪人となりました。その原因は、藩主に諫言して、その逆鱗に触れたためです。彼の初期の読書日録をみると陽明学の本が多く、この学風(知行合一)から、自分で正しいと思ったことは遠慮せずに言うという態度だったようで、彼の諫言が気の強い殿様だった忠之の怒りにふれたのでは、と言う人もあります。

しかし医者として身を立てようと医学修業に励みました。数年後に父のとりなしで3代目藩主の文治派・黒田光之(みつゆき)(1628年~1707年)に仕え得て、約10年間京都に藩費遊学しました。

文運興隆期に各方面の学者、朱子学者木下順庵(きのしたじゅんあん)(1621年~1699年)、中村惕斎(なかむらてきさい)(1629年~1702年)、儒医の向井元升(むかいげんしょう)(1609年~1677年)、黒川道祐(くろかわどうゆう)(1623年~1691年)、松下見林(まつしたけんりん)(1637年~1704年)、好学の公卿(くぎょう)伏原賢忠(ふせわらけんちゅう)(1602年~1666年)、後には本草家(ほんぞうか)稲生若水(いのうじゃくすい)(1655年~1715年)らと交わり、後年まで学問上の交流を持ちました。

またこの京都にみなぎる経験・実証主義を体認して、その後の学風に生かしたのみならず、算数の重要性を説き『和漢名数』(正1678年、続1695年)を編集出版しました。帰藩後、君命で『黒田家譜』を、ついで『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)を晩年までかかって完成しました。

その間、朝鮮通信使の応対、漂流民の取調べ、好学の徒への講義、藩内科学者(天文、和算)との交遊を行っています。

朱子学者としては早く『近思録備考』(1668年)を著し出版しましたが、その経験的学風から朱子学の観念性への疑問を募らせ、それを体系的に論述した『大疑録(たいぎろく)』を晩年にまとめました。

博物学では江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草(やまとほんぞう)』をはじめ『花譜』(1694年)『菜譜(さいふ)』(1704年)を残しましたが、近郷の宮崎安貞(やすさだ)(1623年~1697年)の『農業全書』の成稿と出版(1697年)にも積極的に助力しました。

ほかに、現代で言えば京都観光ガイドブックとも言うべき「京城勝覧(けいじょうしょうらん)」という書物も書いており、人気があったようです。

また祖先が備前(びぜん)国(岡山県)吉備津宮(きびつのみや)の神官であったことから、和学にも関心が深く、日本人として和学修得の必要を説き、「神儒平行不相悖(もとら)論」を唱えました。

基本的には儒教敬天思想に基づく人間平等観の立場で、多くの教訓書や大衆健康書『養生訓』にもこの思想がうかがわれます。

妻貝原東軒(とうけん)(1652―1714)は楷書(かいしょ)に巧みで、ともに古楽(こがく)(和琴(わごん)など)を奏し楽しむこともありました。

妻は和歌も巧みで、彼に伴って漫遊して紀行文や「女大学」等の著作に内助の功を発揮する仲の良い夫婦でしたが、実子はなく、兄の息子を養子にしています。妻は62歳で亡くなりますが、彼は妻の後を追うようにその8カ月後に84歳で亡くなっています。

なお貝原益軒と『養生訓』については、前に「養生訓の著者貝原益軒はどんな人物だったか?また養生訓の内容はどんなものか?」という記事にも詳しく書いていますので、こちらもご一読ください。

2.貝原益軒の老後の過ごし方

彼は1699年、69歳の時に役を退き、著述業に専念しています。

養生訓は、貝原益軒の大衆向け健康指南書で1713年、彼が83歳の時に著したもので、当時のベストセラーになりました。

精神・肉体の衛生を保つために、生活する上で心得ておくべきことを具体的に平易に説いています。「心と体の養生」「心身一如の予防医学ということですね。

要旨は、内欲(食欲、性欲)を抑え、外邪(寒熱)を防ぐことにあり、主体的な健康維持への努力を強調しています。

「総論、飲食、飲酒、飲茶、煙草、慎色欲、五官、二便、洗浴、慎病、択医、用薬、養老、育幼、鍼、灸」の各項目について、当時として極めて長寿だった彼の経験と事実に即した考えをもとに具体的に詳しく述べられています。

著書は『養生訓』をはじめ、生涯に60部270余巻に及びます。 退役後も藩内をくまなくフィールドワークして『筑前国続風土記』の編纂を続け、1703年に藩主に献上しています。

彼は70歳まで黒田藩に勤め、以後は退任して死ぬまでの間にさまざまな本を書きました。彼の著作の大半は70歳以降のものです。毎年一冊以上、それも全く異なる種類の本を出しています。それはまさに、それまでに培った人生の価値観の実演で、老後を迎えるまでに得た知識やノウハウ、価値観を放棄せず、高齢になってなお努力して形に残したわけです。

彼は84歳の天寿を全うしました。1714年に没するに臨み、辞世の漢詩2首と和歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残しています。

ただ長生きするのではなく、晩年をいかに大切に過ごすか。貝原益軒の生き方そのものが、100年時代に生きる我々にとっても指針になりそうです。

サラリーマンには定年退職がありますが、自営業であってもどこかで線を引き、仕事から離れる必要があります。もちろん価値観は人それぞれですが、それでも死ぬまで仕事、というのは自然のルールに反します。貝原益軒は70歳までは社会的責任のある仕事をし、以降は自身の趣味、興味の世界に生きました。しっかりと分けて対応しているのです。これは本当に素晴らしいことで、我々も見習うべきなのではないかと思います。

3.貝原益軒の思想の背景にあるもの

(1)現代にも通じる実証主義の合理的精神

幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となりました。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っています。これは近代的な合理的精神に通じるものがあります。

世に益することを旨とし、多くの人に読まれるようにとの信念から、平易な文体を用いた著書があります。『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著しました。

中国で出版された『本草綱目』に訓点を付け、自らの経験から記述を加えた『大和本草』を1709年に発行しましたが、これまで中国から伝わる薬草を和名に換えるのが主体であった本草学に、実用的観点からの記述を加え、博物学へ展開される始まりとされ、以後は植物の形状や生態、日用への可能性などに本草学の関心が向けられることとなりました。

思想書としては、1712年の『自娯集』、学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがあります。

(2)「無病息災」ならぬ「一病息災」で健康長寿を実現

「無病息災」を願うのが一般的ですが、幸か不幸か彼は幼少のころ虚弱でした。だからこそ、人一倍健康に気を使い、無理をせず83歳の天寿を全うできたのです。

まさに「一病息災」です。これは病気もなく健康な人よりも、一つぐらい持病があるほうが健康に気を配り、かえって長生きするということです。私の母も今年98歳ですが、少女時代に大病したため女学校へは進学せず、長生きも難しいのではないかと思っていたようですが、中年になって「病(やまい)抜けした」とよく語っていました。

(3)いつの世にも通じる普遍的な「養生」に対する考え方

『養生訓』は、今も現代語版や解説書が繰り返し出るなど、世代を超えて読み継がれています。これはいつの世にも通じる普遍的な考え方である証拠でもあります。

「養生」とは「日々の生活に留意し、健康の増進を図ること。摂生に努め、病気を予防すること」です。貝原益軒もまた、若い頃から徹底して養生に努めてきたと言われています。

彼は、生まれつき身体が虚弱でした。若い時に重病を抱え、強壮の状態ではない人生でした。しかし、だからこそ順風満帆な人よりも余計に身体に注意しながら人生を送ってきたと考えられます。

彼は平均寿命50歳未満の時代にあって、80歳を超えても歯は一本も落ちず、暗い夜でも小さい文字の読み書きができたと自ら書き残しています。そして、それこそ「養生」の賜物です。

身体が弱かった彼は幼い頃から書物を読みふけ言われていますいます。中でも興味のあったテーマが医学や薬学、そして「健康」であったのではないか思われます。

彼も最初から「養生」というテーマに行き着いたわけではないようです。最初は自分の身体が弱かったことから医学や薬学といった「治療方法」の追求に興味を持ち、それを段々と深めていくうちに養生という思想、価値観が固まったのではないかと思われます。

薬よりも日々の食事、栄養バランスや運動バランス、身体の使い方、お酒の飲み方が大事であると、自らの体験を通じ解釈してきました。

治療法を勉強するより養生方法を追求することにシフトしていったわけです。つまり「治療医学よりも予防医学のほう重要だと気付いたのです。

(4)まず何よりも「心の養生」が大切

養生文化をそのルーツにまで遡ると、中国古来より長い年月をかけて蓄積されてきたものだとわかります。貝原益軒の『養生訓』も漢籍、つまり中国の古典の本の影響を強く受けています。その特徴は、できるだけ病気にならないこと。病気になってから対応するのではなく、病気にならないためにどうするか、いかに健康に気を配り心身を維持していくかということです。

それは、死因リスクの割合の約6割を生活習慣病が占める現代社会においても、改めて見直すべき考え方です。今の時代こそ、養生のノウハウの重要性を知ること、貝原益軒から学ぶことは社会的に意義があります。

では、具体的にはどうすればいいのでしょうか?『養生訓』には「食欲、色欲を慎み、運動、栄養、休息を過不足なく生活すること、かかる医者を吟味すること、薬と効能と害」など具体的な養生の指南が記されていますが、中でも最も大事なのは心の整理」です。

『養生訓』には考え方、心を整理することが人生で最も大事なことであると何度も書かれています。それは、自分と他者の身体や精神に、深く心を配ること。つまり『思』であり、それは『心』の働きに関わっていると。養生のためには飲食の欲、性欲、睡眠の欲を抑制しなければなりませんが、それには心のコントロールが必要不可欠だからです。

心は不動のものではなく、社会や外部環境との相互作用によって大きく変化します。そのため心をコントロールすることは容易ではありませんが、だからこそ「養生とは何より心の養生である」と彼は説いています。以下、『養生訓』第105項・第59項目より引用します。

養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ。心を静かにして落ちつけ、怒りをおさえて欲を少なくし、いつも楽しんで心配をしない。これが養生の術であって、心を守る道でもある。心法を守らなければ養生の術は行われないものだ。それゆえに、心を養い身体を養う工夫は別なことではなく、一つの術である。

心を平静にして徳を養う 心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。その方法は同じなのである。口数多くお喋べりであること、心が動揺し気が荒くなることは、徳をそこない、身体をそこなう。その害をなす点では同様なのである。

(5)啓蒙思想家あるいは庶民教育家

幼い時に、親に従って、あちこちと移り住んだため、漢文の勉強が遅れました。そのかわり、民間にいたので、『平家物語』や『太平記』など和文のものを気ままに多く読んでいます。あまり若いときから漢文をつめこむと頭がカチンカチンになりますが、彼は和文のものを読んでますので、儒家としては柔軟な考え方ができたのでしょう。

彼は、サービス精神に富んだ人で、できるだけ多くのものを読んで、わかりやすく要約して、それを大勢の人に伝えたいと考えていたようです。そういう学風でしたから、従学者は少なかったのですが、出版物を通じて、あちらこちらにファンを持っていて、大きな影響力を与えたと言えるでしょう。

(6)敬天思想に基づく万民平等の意識

また彼を一種の博愛主義者・民本思想家ということもできるようです。それは彼が天に対し宗教的な深い崇敬の念をいだいていたからです。天はすべての人の上に蔽(おお)いかぶさり、すべての人に同様に恵みを与えるものと考えたからです。

彼は、藩の重臣たちに「同様に天の生んだ子である民を虐(しいた)げると、必ず天の罰がめぐり来て凶歳・飢饉が襲来する」と繰り返し、諫言して、善政を敷くことを説いています。

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