「隠者」の心の中は穏やかではない!?

フォローする



ソロー

古来、日本にも中国にも、世を捨てて「隠遁生活」に入った「隠者(いんじゃ)」による作品がたくさん残されています。

「隠者」とは、俗世との交わりを避けて孤独生活を営む「修道者」や「遁世者(とんせいしゃ)」のことで、「隠遁者」「隠士」とも呼ばれます。

西洋では、キリスト教の修道生活の最古の形態です。孤独が神により近く、至徳の道にふさわしいとの理念に基づくもので、祈り・瞑想・苦行に専念したそうです。

日本では、「末法思想」が広まった平安時代末期以降によく見られ、仏教的諦観に立って、俗世間との交渉を断ち、和歌を詠んだり随筆を書いたりしたのが特徴です。

1.西行法師(1118年~1190年)

西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、僧侶・歌人でもあります。

出家の際に、衣の裾に取り付いて泣く4歳の子供を、縁側から蹴落として家を捨てた時に詠んだというエピソードが残っているのが次の歌です。

「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

桜の花を愛した西行は、生前から桜の木の下で死にたいと願っていたようで、次のような歌を詠んでいますが、実際にもその通りの死に方をしたそうです。

「願わくは 花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」

2.鴨長明(1155年~1216年)

方丈記」で有名な鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人・随筆家です。

彼は、下鴨神社の神事を統括する禰宜の次男です。

「方丈記」の中の「安元の大火・治承の竜巻・養和の飢饉・元暦の地震」などの自らが経験した天災・飢饉などの「天変地異」に関する記述は、現代の我々が近年に経験した「阪神淡路大震災・東日本大震災・大阪北部地震」と同じかそれ以上の災厄ですが、非常に臨場感があります。

3.兼好法師(1283年?~1352年?)

徒然草」で有名な兼好法師は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官吏であり、遁世者・歌人・随筆家でもあります。

彼は「占卜(せんぼく)」を司る神職の家に生まれた人で、本名は卜部兼好(うらべかねよし)と言います。

彼の和歌はあまり知られていませんが、次のようなものがあります。

「代々をへて をさむる家の風なれば しばしぞさわぐ わかのうらなみ」

これは、「何代も続いた格式のある家柄のようだから、久々に和歌の風情がわかると思うので、和歌談義(あるいは歌競べ)に心が騒ぐ」という意味のようです。

彼には「艶書(ラブレター)の代筆」という面白いエピソードがあります。

足利幕府の執事「高師直(こうのもろなお)」が、「塩谷高貞(えんやたかさだ)」(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて横恋慕し、侍従に取り持ちを頼んでもうまく行かない。そこで「能書家の遁世者」と評判の兼好法師に「艶書の代筆」を頼み、使者に届けさせます。しかし塩谷の妻は手紙を開きもせずに庭に捨ててしまったため、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁止してしまったそうです。

この話の真偽は別として、江戸時代の「仮名手本忠臣蔵」などの芝居や小説の題材として広く使われており、兼好の恋の道もわきまえた「粋法師」としてのイメージ形成に役立っているようです。

4.陶淵明(365年~427年)

「帰去来の辞」で有名な陶淵明は、中国の魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者(漢詩・散文)で元官吏です。彼は28歳で役人になりますが、40歳で役人を辞めます。いずれも「下級役人」の仕事で、何度も転職を繰り返しています。束縛されるのが嫌で、仕事に満足できなくなるとすぐ辞めてしまったようです。

その後は、郷里の田園に隠遁し、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を数多く残し、「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれています。

しかし、自分の子供のことでは、思うように行かず苦労したようで、「子を責む」という漢詩もあります。

また、憂さを晴らすためか酒もよく飲んでいたようで、「飲酒二十首」が有名です。

5.H・D・ソロー(1817年~1862年)

「ウォールデン 森の生活」の著者として有名ですが、一般にはあまり知られていません。

彼はアメリカ人で、ハーバード大学を卒業後、さまざまな職業に従事しますが、生涯定職には就かず、学生時代に熟読した『自然』の著者で超絶主義者のラルフ・ワルド・エマーソンらと親交を結びます。

ウォールデン池畔の森の中に丸太小屋を建て、自給自足の生活を2年2カ月間送ります。彼の代表作の「ウォールデン 森の生活」(1854年)は、その時の記録をまとめたもので、その思想はのちの時代の詩人や作家に大きな影響を与えたと言われています。

彼は1855年頃から体調を崩し、結核を患って44歳の若さで亡くなっています。

6.役小角(えんのおづぬ)(634年~701年)

役小角は、飛鳥時代の呪術者・修験者で、役行者(えんのぎょうじゃ)・役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれています。

彼は、大和国葛城上郡(現在の奈良県御所市)に生まれ、17歳の時、元興寺で孔雀明王の呪法を学びました。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたと言われています。

彼は、近畿各地の山岳に36の修験道の寺を開いたと言われており、私の住む大阪府高槻市北部の山地にも、彼が開いたと伝えられる神峰山寺(かぶさんじ)と本山寺(ほんざんじ)があります。

特に神峰山寺は、かつては比叡山などと並び「七高山」の一つに数えられた由緒ある寺院で、足利義満や松永久秀、豊臣秀頼からの寄進もあったそうです。

7.「隠者」の心の中

隠者としては、ひっそりとした孤独の境地にあって、自然と静かに観照しあいながら沈思黙考する「凝思寂聴(ぎょうしじゃくちょう)」が理想の境地です。

しかし世捨て人として、隠遁生活を送っていても、心の中は、「悟り切ったように平静」な状態ではなく、「煩悩・葛藤・無念・雑念・俗念・不安・不満・怒りの気持ちが泡立ち、激しく渦巻く」ような状態だったのではないでしょうか?

一時的に「諦観」しても、後から後からいろいろな思いが去来し、心が波立ったのではないでしょうか?

だからこそ、彼らは、その思いを内に秘めながら、和歌や漢詩あるいは随筆などでその思いを吐き出していたのではないかと、私は思います。

私は隠者ではありませんが、私のブログも、そういう内なる思いを吐き出して浄化するようなものかも知れません。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする