ウィリアム・アダムス(三浦按針)は日本へ来た最初の英国人。その生涯とは?

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三浦按針

ウィリアム・アダムス(三浦按針)と言えば、社会(歴史)の授業で「オランダ船『リーフデ号』で日本に漂着し、徳川家康に仕えた英国人」と習ったので皆さんもご存知だと思います。

しかし彼の人物像や詳しい生涯はあまり知られていないのではないかと思います。

そこで今回はウィリアム・アダムス(三浦按針)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.ウィリアム・アダムス(三浦按針)とは

三浦按針像

ウィリアム・アダムス(1564年~1620年)は、イングランド人の航海士・水先案内人・貿易家で、「関ヶ原の戦い」の約半年前の1600年に、オランダ船「リーフデ号」で豊後に漂着しました。

徳川家康から「外交顧問」として重用されて「旗本」となり、相模国三浦郡(現在の神奈川県)に領地を与えられました。

オランダと英国の貿易船通航許可や平戸への商館設置を仲介しました。平戸へも居を構え、平戸英国商館が設置されると、商館員として勤務しました。

結局英国への帰国は叶わず、55歳で平戸で亡くなりました。

彼は「日本へ来た最初の英国人」とされ、「青い目のサムライ」とも呼ばれています。

2.ウィリアム・アダムス(三浦按針)の生涯

(1)生い立ちと青年時代

彼は1564年にイングランド南東部のジリンガムで生まれました。船員だった父の死後、12歳でロンドンの船大工の棟梁に弟子入りしました。

しかし造船術よりも航海術に興味を持った彼は、1588年に奉公の年限を終えると海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船の船長として、イングランドがスペインの無敵艦隊を破った「アルマダの海戦」に参加しました。

翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、二人の子供(娘と息子)にも恵まれました。しかし、軍を離れてバーバリー会社(イングランドの貿易会社)の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だった彼は、ほとんど家に居つかなかったそうです。

(2)リーフデ号の航海

航海で一緒に仕事をする中でオランダ人船員たちと親しくなった彼は、「ロッテルダムから極東を目指す航海」のためにベテランの航海士を募集しているとの噂を聞きつけ、弟のトマスらとともにロッテルダム行きを志願します。

航海は次の5隻からなる船団で行われることになっていました。

①ホーペ号(「希望」の意。旗艦)

②リーフデ号(「愛」の意)

③ヘローフ号(「信仰」の意。ロッテルダムに帰還した唯一の船)

④トラウ号(「忠誠」の意)

⑤フライデ・ボートスハップ号(「良い予兆」あるいは「陽気な使者」の意)

リーフデ号

司令官のジャック・マフは、彼を「ホーペ号」の航海士として採用しました。こうして1598年6月24日に船団はロッテルダム港を出航しました。

マゼラン海峡を抜けるまでに彼と弟のトマスは「リーフデ号」に配置転換されました。しかし航海は惨憺たるもので、「トラウ号」はポルトガルに拿捕され、「フライデ・ボートスハップ号」はスペインに拿捕され、1隻はぐれた「ヘローフ号」は航海を続けることを断念して、ロッテルダムに引き返しました。

残った2隻で太平洋を横断する途中、「ホーペ号」も沈没し、極東に到達するという目的を果たしたのは「リーフデ号」だけでした。

しかも、食糧補給のために寄港した先で赤痢や壊血病に罹ったり、インディオの襲撃に遭ったりして次々と船員を失い、出航時110人だった乗組員が、日本に漂着した時には24人に減っていました。弟のトマスもインディオに殺害されました。

(3)日本漂着と家康の引見

リーフデ号上陸記念公園の碑

「関ヶ原の戦い(1600年10月21日)」の約半年前の1600年4月29日に、「リーフデ号」で豊後臼杵(現在の大分県臼杵市)の黒島に漂着しました。

自力で上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉が出した小舟で日本に上陸しました。臼杵城主は「リーフデ号」で豊後臼杵(現在の大分県臼杵市)の黒島に漂着しました。・寺沢広高に通報し、長崎奉行は彼らを拘束し、船内の大砲・火縄銃・弾薬などの武器を没収した後、大坂城の豊臣秀頼の指示を仰ぎました。

この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するよう要求しています。

結局、「五大老首座」の徳川家康(1542年~1616年)の指示で、重体で身動きできない船長に代わり、彼と、ヤン・ヨーステン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、あわせて船も回航させました。

1600年5月12日、家康は初めて彼らを引見しました。イエズス会宣教師の注進で最初「リーフデ号」を海賊船と思い込んでいた家康でしたが、彼やヤン・ヨーステンが「路程や航海の目的」、オランダ・イングランドなどの「プロテスタント国」とポルトガル・スペインなどの「カトリック国」との紛争を臆せずに説明すると、彼らを気に入って誤解を解きました。

しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師たちを黙殺した家康は、何度も引見を繰り返した後に釈放し、江戸に招きました。

(4)旗本となり三浦按針と名乗る

江戸での彼は帰国を願い出ましたが叶いませんでした。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりしました。

またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われています。

日本初洋式帆船建造記念碑

やがて江戸湾に係留されていた「リーフデ号」が沈没すると、彼は船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造するよう要請されます。

彼は次のような理由で伊豆の伊東で造船することに決めました。

①海に注ぐ河口があること

②造船用の木材を伐り出せる天城山系が近いこと

③有能な船大工が揃っていること

そして伊豆の伊東に日本最初の「造船ドック」を設けて80tの帆船を建造しました。

これが1604年に完成すると、気を良くした家康は大型船の建造を指示し、彼は1607年に120tの大型船を完成させました。

この大型船「サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」は上総(現在の千葉県)に漂着した前フィリピン諸島総督のドン・ロドリコがメキシコに帰る際に家康から貸与され、無事に太平洋を往復しました。。この大型船は、その後も太平洋の貿易船として活躍したそうです。

この功績を認めた家康は、さらなる慰留の意味もあって、彼を「250石取りの旗本」に取り立て、帯刀を許しただけでなく相模国三浦郡に領地まで与えました。

また「三浦按針」(「三浦」は領地の「三浦郡」にちなみ、「按針」は彼の職業である「水先案内人」の意味)の名乗りを与えられ、「異国人でありながら、日本の武士として生きる」という数奇な境遇を得ました。

彼は帰国を諦めつつあった1602年に日本人の娘と結婚し、息子(ジョゼフ)と娘(スザンナ)が生まれています。三浦の領地は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されています。

(5)帰国の機会を逸す

1613年に「イギリス東インド会社」の「クローブ号」が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する「朱印状」を取り付けるなどの手助けをしました。

1614年の「クローブ号」帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両国から出ましたが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送りました。

セーリスは何事も日本式を強要する彼が気に入らず、彼はセーリスを生意気で無礼な青二才と嫌っていました。

確かに世の中には「馬が合わない人」が必ずいるものですが、この「嫌いな人物とは一緒に帰国しない」という決断が、その後の彼の運命を左右することになるとは思ってもいなかったでしょう。

セーリス一行が去った後は、それまで手伝っていたオランダ商館を辞めて、より安い賃金でしたが母国のイギリス商館の仕事を手伝いました。

(6)家康の死後の不遇な晩年

家康に信頼された彼でしたが、1616年4月に家康が亡くなると、跡を継いだ秀忠をはじめとする江戸幕府の幕臣たちの方針で、貿易を平戸の見に制限し、「鎖国体制」を敷いたため、彼の立場は不遇となりました。

以後の彼の役目は「天文官」のみとなり、幕臣や次期将軍の家光にも警戒されました。彼は帰国の夢を果たせず、憂鬱な状態のまま、1620年に55歳で平戸で亡くなりました。

3.ウィリアム・アダムス(三浦按針)は「ガリバー旅行記」のガリバーのモデル?

イングランド系アイルランド人の風刺作家ジョナサン・スウィフト(1667年~1745年)が書いた「ガリバー旅行記」はあまりにも有名ですが、このガリバーのモデルはウィリアム・アダムス(三浦按針)だという説があります。

その理由は、次のようなものです。

①ガリバーが旅した架空の国々の中で、日本だけが唯一実在の国で、踏み絵のことなども書かれていること

ガリバー上陸の地「ザモスキ」は三浦半島の「観音崎」ではないかと推測されています。

②スウィフトの蔵書リストにある「パーチェスの巡礼」にウィリアム・アダムス(三浦按針)の手紙が収録されていること

ウィリアム・アダムス(三浦按針)は、徳川幕府の指南役でしたが、同時に徳川幕府や日本の情報を妻や友人宛ての手紙を通じて送っていました。

スウィフトはその100年後に、彼の手紙に書かれた情報をもとに、ガリバー旅行記第3編の「空飛ぶ島の国(ラピュタ)」において「イギリス人ガリバーが1709年日本にオランダ船で到着し、将軍に謁見する」というエピソードを書いたというわけです。

同志社大学の北垣宗治教授は、「出島のオランダ商館に来た医師ケンペルやウィリアム・アダムス(三浦按針)など「日本を体験した西欧人の合成されたイメージ」と指摘しています。



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