2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史さんが「北条義時の盟友」の三浦義村を演じており、重要な役どころである予感がしますが、どのような人物だったのでしょうか?
歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、三浦義村のように何もない場合は想像しにくいので、冒頭に山本耕史さんの画像を入れました。
源頼朝の「伝源頼朝像」や足利尊氏の肖像画のように、全く別人だったという話もありますので、肖像画があるからといって信用はできません。
1.三浦義村について
(1)三浦義村とは
三浦 義村(みうら よしむら)(1168年~1239年)は、鎌倉時代初期の相模国の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。父は桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄(1127年~1200年)で、母は伊藤祐親(いとうすけちか)(1100年前後?~1182年)の娘です。
盟友の北条義時(1163年~1224年)の父は北条時政(1138年~1215年)ですが、母は伊藤祐親の娘なので、二人は従兄弟(いとこ)同士であり、ともに伊藤祐親の孫です。
父の三浦義澄は、鎌倉幕府創設に重要な役割を果たし、三浦氏の最盛期を築いた策士です。
祖父の三浦大介義明は、1180年に頼朝が挙兵した際に、衣笠城に立てこもり、自身の命と引き換えに義澄ら三浦一族を頼朝のもとに向かわせました。
源頼朝は三浦氏の加勢を頼みとしていましたが、悪天候のため義澄と義村らは到着が遅れ、頼朝軍は「石橋山の戦い」で大庭景親らの平氏軍に敗北したのです。その後、「衣笠城合戦」で祖父の三浦大介義明は畠山重忠率いる平氏軍に敗れ、亡くなりました。
幕府内の政変や内乱で命を落としていくことが多かった三浦一族の武将たちの中で、三浦義村は執権北条氏と姻戚関係を結ぶなど常に主流派に属して、最後まで幕府の最有力御家人として生涯を全うしました。
三浦義村は、足利政権成立の立役者で、足利尊氏の死後は幕府の最高権力者となった佐々木道誉と似ているところがあるように私は思います。
(2)幕府草創期
1182年8月11日、源頼朝の正室・北条政子の安産祈願のため、安房・天津神明宮に派遣された使者として、三浦平六(三浦義村のこと)の名が見受けられます。
三浦義村の妻は、一条忠頼の娘、土肥遠平の娘などです。
子供はたくさんおり、三浦朝村、三浦泰村、三浦長村、三浦光村、三浦重村、三浦家村、三浦資村、三浦胤村、三浦重時、僧侶になった良賢、矢部禅尼、土岐光定の妻、毛利季光(大江広元の4男)の妻、千葉秀胤の妻などです。
1190年、源頼朝が上洛した際に、父と共に随行すると右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉になりました。
(3)梶原景時の変・畠山重忠の乱
源頼朝が死去したあと、「梶原景時の変」(1199年~1200年)では、和田義盛、安達盛長と相談し、有力御家人66人の連署にも記名するなど、梶原景時の鎌倉追放において、三浦義村が中心的な役割を果たしています。
その3日後、父・三浦義澄が死去すると、最大勢力とも言える三浦一族の棟梁として、北条義時との協力体制を取ります。
1205年、「畠山重忠の乱」では、「二俣川の戦い」の直後、無実の畠山重忠を陥れたとして、稲毛重成と榛谷重朝を鎌倉の経師谷で殺害しました。
(4)和田合戦・実朝暗殺
1213年、侍所所司で従兄弟であった和田義盛(1147年~1213年)(三浦義村の祖父・三浦義明の孫)と、執権・北条家の打倒を試みます。
和田義盛に味方した三浦一族は打倒北条の決起を行いましたが、鎌倉で「和田合戦」になると、突如、三浦義村は、北条義時に寝返りました。
この裏切により、和田義盛らは滅亡したため「三浦の犬は友をくらう」とも噂されました。
1218年、三浦義村は侍所所司に就任しました。
1219年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が公暁(源頼家の子)に暗殺されます。
この時、公暁は自らが将軍に就任しようと考え、三浦義村に迎えにくるように頼みました。
公暁の乳母は、三浦義村の妻であったからです。 なお父の三浦義澄の娘が公暁を産んでいた可能性もあるようです。
しかし、三浦義村は北条義時に報告しており、鎌倉の三浦義村の屋敷に向かい、塀を乗り越えようとした公暁を、殺害しました。
この公暁討伐により、三浦義村は駿河守を任官しています。
(5)承久の乱・伊賀氏の変
1221年、承久の乱では、後鳥羽上皇に味方した兄・三戸友澄や弟・三浦胤義を通じて、執権・北条義時追討を命じられますが従わず、三浦義村は北条義時に通報します。
鎌倉幕府の討伐軍として上洛し、同じ一族の三浦胤義、津久井高重らを討ちました。
また、兄の三浦友澄も、承久の乱で討死しており、三浦党における三浦義村の地位も、盤石となったようです。
戦後処理でも、三浦義村は活躍し後鳥羽、土御門、順徳の三人の上皇を流罪とし、さらに後鳥羽上皇に連なる子孫をすべて流罪、出家、臣籍降下させて、後鳥羽上皇の血筋に連なる人間の皇位継承を認めない方針を取りました。
その結果、皇位継承者が茂仁王しかいなくなったので、幕府は茂仁王の父で高倉天皇の第二皇子の行助入道親王を天皇即位を経ずに治天の君として院政を敷かせ、茂仁王を後堀河天皇として擁立しました。
天皇の臣下である武士が、ここまで皇室の人事に介入したことは、それ以前も以後もありません。三浦義村は抜群の政治力でこれを成し遂げたのです。
1224年、執権・北条義時が病死した際には、北条義時の後妻(継室)・伊賀の方が、自分の子・北条政村を執権に据えようとした「伊賀氏の変」が起こります。
三浦義村はこの陰謀に協力しようとしましたが、尼将軍・北条政子が単身で三浦義村の屋敷に赴いて説得したため断念しました。
(6)幕府宿老
1225年の夏、大江広元、北条政子と相次いで死去すると、12月に執権・北条泰時の元「評定衆」が設置され、三浦義村も加わっています。
この頃、鎌倉幕府での地位としては、執権・北条家に次ぐ地位が三浦家であり、1232年の御成敗式目制定にも署名しました。
和田義盛、梶原景時、畠山重忠、比企能員が滅んだ際には、いずれも討伐側にいた三浦義村であり、「権謀家」としては京の貴族にまで知れ渡っていたようです。
1239年12月5日、三浦義村は死去しました。『吾妻鏡』によれば「頓死、大中風」でしたが、その翌月、ともに北条泰時を支えた北条時房(北条義時の異母弟)も義村の後を追うように亡くなると、京の人々は2人の死を、後鳥羽上皇の怨霊の仕業であると噂したということです。
なお、義村の死後、家督は三浦泰村が継ぎましたが、のち「宝治合戦」(三浦氏の乱)(1247年)で執権・北条家との武力衝突に至っています。その結果、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党滅ぼされました。
この事件は、北条氏による「得宗専制政治」が確立する契機となりました。せっかく三浦義村が苦労して北条義時との協調関係を築いたにもかかわらず、これによって水泡に帰したのです。
2.三浦義村の人物評・エピソード
三浦義村の人物評・エピソードを見ると、「権謀術数を駆使した不可解な人物」であるとか、「裏切者」のイメージが強いですが、当時の彼や三浦一族を取り巻く政治状況を考えると、自身の保身や一族の安泰と繁栄を図るために「風見鶏」のように風を読んで、優勢な方に付くという至極当然の行動だったのではないかと思います。
みすみす負けるとわかっている方に味方するのは、犬死に・無駄死にであり、一族の滅亡をも招く愚かな判断です。北条義時も、戦国時代の「下剋上」の走りのように、将軍を傀儡にして「執権政治」を確立しました。
「源氏の御曹司で棟梁たる頼朝と姻戚関係を持つ北条氏には敵わない」とすれば、「次善の策として北条義時に味方した」のは十分に理解できます。
現代だけでなく鎌倉時代でも、その時代に生きた人々にとっては「先行きは予測不可能」なことは同じです。その中で三浦義村は的確な情勢判断・状況判断をしたと私は思います。
(1)藤原定家・永井路子による人物評
藤原定家は『明月記』の嘉禄元年(1225年)11月19日条で「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いており、義村の行動が同時代の人物の眼から見ても理解不能であったことをうかがわせています。
ちなみに「八難」は張良、「六奇」は陳平で、どちらも前漢の劉邦に仕えた軍師ですが、この二人に匹敵するほどの策略家として恐れられていたというわけです。
これを受けて小説家の永井路子も義村を「不可解な人物」としつつ、「権謀――といって悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を、振廻しつづけた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった」と綴っています。
(2)『古今著聞集』に記されたエピソード
橘成季が編纂した世俗説話集『古今著聞集』に記されたエピソードがあります。
某年正月、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総犬は、臥所を知らぬぞとよ」とつぶやくと胤綱はいささかも表情を変えず「三浦犬は友を食らふなり」と切り返したということです。
胤綱の発言は和田合戦での義村の裏切りを当て擦ったものですが、国語学者の森野宗明氏は「座席の順位すなわち席次は、序列での位置すなわち地位 status の表象であり、その人物の格付けが端的に表現される」とした上で「この出来事を通して、義村という人物には、長幼の序にこだわり年長者を立てようとする面のあることを垣間見ることが可能であり、そうした性格を具えた人物像と、この説話において描かれている」と、権謀家とされる義村の別の一面を指摘しています。
ただし、相手を犬に喩えたのは行きすぎで、森野氏も「相手を犬に喩えての義村の嘲罵は、天に向かって唾する行為でした。それは、同じく犬に喩えた強烈な嘲罵を胤綱が浴びせる材料を提供する格好になりました。この勝負、明らかに胤綱の勝ちである」と結論付けています。
(3)『吾妻鏡』に記されたエピソード
寛喜3年(1231年)9月27日、北条泰時の弟・朝時の名越の第(邸)に賊が押し入るという事件が起こりました。
この一報が入るや、泰時は評定中であったにもかかわらず名越の第に駆けつけました。これに対し、執権という重職にある身としては行動が軽すぎると諌める者がありました。泰時はその諌言を諒としつつも、「眼前に兄弟の殺害されるのを手を拱ねいていては人の誹りを受ける。武の道もまた人なればこそである。他人には小事であっても兄にとってはそうではないのだ」と答えました。
傍でこの言葉を聞いていた義村は感涙を拭い、御台所に伺候する男女にも語って聞かせたということです。
このエピソードを紹介した森野氏は論文の最後をこう締めくくっています。
「かつて一族の長老を裏切り、多くの同族を死に追いやった苦い経験のある義村は、どのような思いで泰時の言葉を聞いていたのであろうか。」
しかし泰時の死の前後、御家人たちに遅れて朝時が出家したことを、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不審を持って噂されており(『平戸記』仁治3年5月17日条)、この逸話も『吾妻鏡』が泰時を顕彰するための曲筆とする説もあります。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。