今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新納慎也さんが源頼朝の異母弟で下心を持った一癖も二癖もありそうな怪しげな僧侶の阿野全成を演じていますが、重要な役どころである予感がします。
彼はどのような人物だったのでしょうか?
ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、阿野全成のように武蔵坊弁慶のような「武家百人一首」の絵(下の画像)しかない場合は想像しにくいので、冒頭に新納慎也さんの画像を入れました。
1.阿野全成について
(1)阿野全成とは
「阿野 全成(あの ぜんじょう / あの ぜんせい)/幼名:今若」(1153年~1203年)は、源義朝の七男で、源義経の同母兄、源頼朝の異母弟です。阿野氏の祖。通称「醍醐禅師(だいごぜんじ)」、もしくはその荒くれ者ぶりから「悪禅師(あくぜんじ)」(*)とも呼ばれました(『平治物語』)。
(*)「悪禅師」の「悪」というのは、そのまま悪事を働く「破戒僧」を意味するのではなく、「豪勇」を意味します。つまり、全成は武芸に優れた僧であったということです。義朝の長男で「悪源太」(あるいは「鎌倉悪源太」)と呼ばれた源義平の「悪」も同様です。
頼朝の異母弟のうち、義経と源範頼は頼朝によって殺されていますが、全成は頼朝の死後も鎌倉幕府の有力御家人として残っていました。2代将軍・頼家の時代に失脚して誅殺されるのですが、それでも頼朝が生きていた間はうまく関係を築いていました。
(2)阿野全成の生い立ち
7歳の時の平治元年(1159年)、「平治の乱」で父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ、「隆超(または隆起)」と名乗り、ほどなく「全成」と改名します。
母は常盤御前で、同母兄弟には乙若こと義円、牛若こと義経がいます。
常盤御前は、義朝が平治元年(1159年)の「平治の乱」で敗死すると、今若、乙若、牛若の3人の子の助命を清盛に願い、仏門に入ることで助けられたとされています。
常盤御前による助命嘆願について、子どもたちを助けるかわりに常盤御前が清盛の妾になったというエピソードがよく知られますが、これは軍記物語による創作であると思われます。
南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる『義経記』は特に生々しくそのエピソードを語っています。
それによれば、六波羅に引き立てられてきた常盤を一目見た清盛は、子どもたちを火責め水責めにでもしてやろうという気でいたのがすっかり失せ、常盤が自分の意に従うならば、と子どもたちの命を助けることを約束したというのです。
いくつかの軍記物語によれば、常盤御前は近衛天皇の中宮・九条院のために集められた1000人の美女の中で最も美しかったので、清盛が一目見て妾にしようとしたという逸話でした。
(3)「以仁王の令旨」が出ると兄弟で真っ先に頼朝と合流
治承4年(1180年)、「以仁王(もちひとおう)の令旨」が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下りました(『吾妻鏡』治承4年10月1日条)。
「石橋山の戦い」で異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われました。
そして10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たしました。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜びました。
(4)北条政子の妹・阿波局と結婚し、御家人となる
頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ(『吾妻鏡』治承4年11月19日条)、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚します。
寿永元年(1182年)に頼朝待望の長男・頼家(万寿)が生まれると、頼朝の乳母であった比企尼(ひきのあま)の娘たちを乳母に、比企尼の養子の比企能員(よしかず)を乳母夫(めのとぶ/後見人のようなもの)にしました。
それから10年、建久3年(1192年)に次男の実朝(千幡)が生まれると、頼朝は政子の妹である阿波局を乳母に、そしてその夫の阿野全成を乳母夫にしました。(『吾妻鏡』建久3年8月9日条)。
頼朝は自分の子にそれぞれ比企氏・北条氏を近づけてやがては両氏を結び付けようとしたようですが、それを成し遂げる前に頼朝が亡くなってしまったことにより、悪い方に働きました。頼家を養育する比企氏と、実朝を養育する全成夫婦(プラス北条氏)。両者は後継者をめぐって争うようになるのです。
養和元年(1181年)以降、全成は『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月7日条と建久3年(1192年)8月9日条に見られますが、藤原公佐(全成の娘婿)や阿波局の関連で言及されているだけで、頼朝期には本人は一切登場しません。駿河国阿野荘を領有し鎌倉幕府の御家人として仕えたとされています。
(5)頼朝の死後、実朝を擁する舅・北条時政と結び、2代将軍・頼家一派と対立
正治元年(1199年)に頼朝が死去し、甥の頼家が将軍職を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と結んで、頼家一派と対立するようになります。
北条氏と比企氏の対立は、正治元(1199)年の梶原景時の変で梶原景時が討たれたころから表面化しました。よく思われていなかった共通の敵が片付いて、次の敵に目が向いたのでしょう。
頼朝亡き後に2代将軍となった頼家は、比企能員の娘・若狭局を妻にしており、二人の間に一幡という男子が生まれました。この状況は、千幡こと実朝を後見する北条氏にとってはよくありませんでした。
北条時政は今でこそ将軍生母の父つまり将軍の外祖父としてそれなりの立場を保っていますが、頼家から一幡に代替わりしたら、将軍の外祖父は比企能員になって将軍の姻戚として栄え、時政は今よりも幕政の中心から遠ざかってしまいかねないからです。
全成はこの時政やその子・義時らとともに頼家と敵対していました。
(6)謀叛人として常陸国に配流後に誅殺される
そんな中、『吾妻鏡』によれば、建仁3年(1203年)5月19日の子の刻(深夜0時頃)に、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成が謀反の疑いで捕らえられるという事件が起こります。翌20日、頼家は全成の妻の阿波局も捕らえようとしましたが、こちらは姉・政子の執りなしで助かっています。
全成が謀反とは突然のことで、その内容も明らかではありません。これは頼家の側近であった梶原景時を失脚させたことへの報復でもあったようです。
阿波局と嫡男の阿野時元はなんとか連座を免れましたが、全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。享年51。7月16日には三男の播磨坊頼全が京都の東山延年寺で源仲章によって殺害されました。
全成の墓は静岡県沼津市の大泉寺に嫡男(四男)・時元のものと並んで現存し、市の史跡に指定されています。
また、誅殺された場所は栃木県芳賀郡益子町の宇都宮家の菩提寺がある集落にあるとされ、その場所には従者のものと阿野全成のものとされる2つの五輪塔が遺されており、地元民によって管理されています。
2.阿野全成の子孫
武家としての阿野氏は時元の系統に受け継がれました。その子孫は南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っていますが、同じ河内源氏の系統に繋がる足利氏などと比べて、守護にも任命されることがない小勢力でしかありませんでした。
その一方、全成の娘は藤原公佐(滋野井実国の養子、実父は藤原成親)と結婚しており、その子実直は母方の全成の家名を称し公家・阿野家の祖となっています。
後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇を生んだ阿野廉子はその末裔です。また、幕末に活躍した玉松真弘(*)もこの阿野家の末流に連なる人物です。
(*)玉松 真弘(たままつ まひろ)(1810年~1872年)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者で、通称は操(みさお)、雅号は毅軒です。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。