赤塚不二夫原作のアニメ「天才バカボン」の主題歌の一節に、「西から昇ったおひさまが東へ沈む『あっ・たいへん!』 これでいいのだこれでいいのだ ボンボン バカボン バカボンボン♪・・・」というのがありました。
私が現役サラリーマン時代の同僚に熱狂的な阪神ファン(虎キチ)がいて、「巨人を打倒して阪神が優勝すること」や「大阪は東京に負けないこと」を「太陽は西から昇る」とたとえていました。
私が「落ちこぼれ」になっていた小学校6年生の頃、口の悪い40歳ぐらいの女の担任がいました。先生の質問に間違った頓珍漢な答えをした児童(私もその一人)に対して、「あんたは生きてるのか?死んでるのか?」「馬鹿者!目ぇ(を)噛んで死ね」とか「自分の頭を叩いておけ」などと叱責することがありました。今なら「教師の暴言」として大問題になっていたかもしれません。
このように「「不可能なこと」「あり得ないこと」をたとえた奇想天外で面白いことわざがあります。たくさんあるので2回に分けてご紹介します。
1.瓢箪から駒が出る(ひょうたんからこまがでる)
「意外な所から意外な物が出てくること」「冗談半分で言ったことが実現すること」あるいは「思いもよらないことが現実になる」という意味です。「駒」は「将棋の駒」や「独楽回しのコマ」ではなく「馬」のことです。次のような中国の伝説が由来です。
昔、中国の仙人「帳果老」が各地を白馬に乗り放浪していた時のこと、旅の疲れを癒すため休憩しようとして、大きな馬の存在に困り果て、馬を小さな瓢箪の中に入れてしまったという話です。そして、旅を再開する時、また大きな馬を小さな瓢箪から出したということです。
「瓢箪から駒」「瓢箪から乗掛馬(のりかけうま)を引出(ひきいだ)し」とも言います。
「灰吹きから大蛇が出る」と同様の意味です。
2.石臼を箸に刺す(いしうすをはしにさす)
箸で石臼を突き刺すといったような、無理難題を言って困らせること、わがままを言うことです。
3.擂り粉木で腹を切る(すりこぎではらをきる)
出来るはずがないこと、不可能なことのたとえです。
「擂り粉木」は擂鉢(すりばち)で物を擂(す)るときに用いる先の丸い棒です。擂り粉木を刀の代わりにしても、腹を切ることはできないことから。
「杓子で腹を切る(しゃくしではらをきる)」「連木で腹切る(れんぎではらきる)」「擂り粉木で芋を盛る(すりこぎでいもをもる)」とも言います。
「杓子」は「しゃもじ」、「連木」は「擂り粉木」のことです。
4.豆腐の角で頭を割る(とうふのかどであたまをわる)
絶対に不可能なことのたとえです。
「豆腐の角に頭をぶつけて死ね」とも言います。
私が小学生時代に担任の先生から浴びせられた言葉「目を噛んで死ね」も似たような発想だと思いますが、これは関西地方特有の言い回しのようです。怒ろうにも呆れて物が言えないほどひどい答えだったのでしょう。
5.煎り豆に花が咲く(いりまめのはながさく)
煎(い)った豆から花が咲くことはないので、絶対にあり得ないこと。また、とてもありそうにないことが稀に実現することです。
「煎り豆が生える(いりまめがはえる)」とも言います。
「焼き栗が芽を出す(やきぐりがめをだす)」も同様の意味です。
6.枯れ木に花咲く(かれきにはなさく)
「一度衰え果てたものが、再び栄えて華やかになること」「本来あり得ないことが、不思議な力によって実現するたとえ」です。
「老い木に花(おいきにはな)」も同様の意味です。
幹の一部が朽ちて割れ、枯れたような桜(ソメイヨシノ)の老木でも、春に見事に花を咲かせることがあります。
また、季節外れに花が咲く「返り咲き」「狂い咲き」というのもありますので、全くあり得ない話ではありません。
7.薬缶に注連張る(やかんにしめはる)
薬缶に注連縄(しめなわ)を張ろうとしても、滑って張れないことから、不可能なことのたとえです。
8.顎で背中を掻くよう(あごでせなかをかくよう)
出来ないことのたとえ、不可能なことです。
9.麻布の祭を本所で見る(あざぶのまつりをほんじょでみる)
麻布権現の祭礼を本所(東京都台東区)から見る意で、不可能なことのたとえです。
10.家鴨の木登り(あひるのきのぼり)
あり得ないこと、不可能なことのたとえです。
11.一昨日来い(おとといこい)
「もう二度と来るな」という意味で、不可能なことを言って、嫌な虫を捨てたり、人を罵り追い返す時に使います。
12.蚊の睫に巣をくう(かのまつげにすをくう)
極めて微小なこと、また不可能なことのたとえです。
13.かかとで巾着を切る(かかとできんちゃくをきる)
かかとで巾着を掏摸取る(すりとる)意で、不可能なことのたとえです。
14.川向いの立ち聞き(かわむかいのたちぎき)
大きな川の向こう側で話している内容を、こちら側で立ち聞きしても聞こえるはずがないところから、到底不可能で無駄なことのたとえです。
15.黄河の水の澄むのを待つ(こうがのみずのすむのをまつ)
常に濁った大河である黄河の水がきれいになるのを待つ意で、気の長いことや不可能なことのたとえです。
「百年河清を俟つ(ひゃくねんかせいをまつ)」とも言います。
16.盲亀の浮木(もうきのふぼく/うきぎ)
会うことが極めて難しいこと、めったにないことのたとえです。
仏または仏の教えにあうことの難しさのたとえに用います。
「浮き木に会える亀」「亀の浮木」とも言います。
大海の中に住み、百年に一度だけ水面に浮かび出る視力のない亀が、広い海の上を流れ漂っている浮き木のただ一つの穴に入ろうとするという「涅槃経」などに見える寓話が由来です。