平維盛とは?「光源氏の再来」「桜梅少将」と称された美貌の誉れ高き貴公子の生涯。

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平維盛

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、濱正悟さんが「平維盛」を演じています。

平維盛は、清盛の孫光源氏の再来と称されましたが、頼朝追討軍の総大将となったものの「富士川の戦い」で水鳥の羽音に驚いて敗走清盛に激怒されました

3月6日に放映された「決戦前夜」以降、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場していませんが、彼はどのような生涯を送ったのでしょうか?

朝廷と平家相関図

1.平維盛とは

平維盛・家系図

平維盛・歌川芳虎筆

平維盛(たいらのこれもり)(1159年~1184年)は、平安時代末期の平家一門の武将で、平清盛(1118年~1181年)の嫡子平重盛(たいらのしげもり)(1138年~1179年)の嫡男です。

美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称されました。「治承・寿永の乱」において大将軍として出陣しましたが、「富士川の戦い」で敗北し、「倶利伽羅峠の戦い」では壊滅的な敗北を喫しました。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水したとされています。

平家の世がもっと長く続き平氏の御曹司たちの貴族化がさらに進んでいれば、あるいは紫式部が『源氏物語』を書いた頃のように平安貴族華やかなりし時代に生まれていれば、彼は宮廷女性たちの憧れの的・ヒーローのような存在、あるいは光源氏のように多くの女性と浮名を流すプレイボーイになっていたかもしれません。

2.平維盛の生涯

小松三位維盛

(1)誕生と維盛の生母

平治元年(1159年)、平氏棟梁である平清盛の嫡男・重盛の長男として生まれした。母は官女(内裏女官)とされますが、出自など詳細は不明です

重盛には妻として平時信の娘で掌侍で内裏女房だった坊門殿がおり、維盛の母をこれに比定する説もあります。坊門殿は清盛の後妻の平時子の妹で、その兄妹には時忠や建春門院滋子がいます。維盛が坊門殿の子であれば、宗盛達や高倉天皇とは従兄弟という間柄になります。

(2)維盛の妻子、都落ちでの涙の別れ

正室は建春門院新大納言(藤原成親の次女)で、妾に建春門院新中納言(平親宗の娘)と藤原光忠の娘がいます。子には、平高清(平六代)と夜叉御前がいます。

平維盛の妻子との別れ・平家物語

平家物語』には、平維盛とその妻・北の方、そして10歳の六代御前、8歳の姫宮(夜叉御前)との涙の別れの場面が描かれています。

維盛は、妻の行く末を案じ、京に残り子どもを頼むと告げ、もし自分に何かあれば、遠慮なく再婚するよう言い残しています。

都には父もなし、母もなし。捨られまいらせて後、又誰にかはみゆべきに、いかならん人にも見えよなど承はるこそうらめしけれ。前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ底のみくづともならんとこそ契しに、さればさ夜のね覚のむつごとは、皆偽になりにけり。せめては身ひとつならばいかヾせん、すてられ奉る身のうさをおもひ知てもとヾまりなん、おさなき者共をば、誰に見ゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとヾめ給ふ物哉」と、且はうらみ且はしたひ給ふ。

袖にしがみつき、泣いて同行を願う妻と子。その嘆き悲しみはいかばかりか。それでも維盛は、振り切って馬上の人となります。そして平家は一門の館に火をかけ焼き払い、都を落ちて行ったのです。

ちなみに、都落ちにあたり、一門の中で妻子を残したのは維盛のみです。なぜ維盛は他の平家の人々と同じように、妻子を同行させなかったのでしょうか?

やはり「富士川の戦い」や「倶利伽羅峠の戦い」で大敗し、ただでさえ孤立気味の自分の立場を考えると、西国に連れて行っても肩身の狭い思いをさせると思ったのかもしれません。

あるいは、源氏の苛烈なまでの強さを感じていた維盛は、この後の平家の末路を感じとっていて、妻子を過酷な環境に連れて行くことができなかったのではないでしょうか?

少なくとも、他の平家一門はまだまだ捲土重来、西国での巻き返しに根拠のない自信をもっていたのに比べて、「平家の滅亡は必至」という現実の厳しさを肌で感じていたのでしょう。

なおこの後、維盛の妻・北の方は、源頼朝の信頼厚い吉田経房(1142年~1200年)に再嫁しています。また、嫡男の六代は、文覚の助命嘆願により斬首を免れ出家し、その命を長らえました。もっとも、その文覚が土御門通親襲撃を企てた「三左衛門事件」に連座して配流となり、その巻き添えで処刑されてしまいます。

(3)初期の官歴

維盛は仁安2年(1167年)2月7日に叙爵され、美濃権守となっていますが、異母弟資盛は前年の11月21日に叙爵、11月30日に越前守となっています。

九条兼実の日記『玉葉』の嘉応2年(1170年)7月23日条では、資盛を「嫡男」と記していることなどから、この時点では資盛が嫡子であったという説や、実際には資盛が年長であったという説もあります。嘉応元年(1169年)正月には、資盛とほぼ同時に従五位上に昇進しています

嘉応2年(1170年)7月、資盛は「殿下乗合事件」の当事者となり、以降の昇進が停滞します。事件が一応解決を見せた12月、父の重盛が権大納言を病のため辞したが、その際に維盛を右近衛権少将に推挙しています。

歴史学者の高橋秀樹氏はこの時期に維盛が嫡子にされたのではないかとしています。維盛12歳の時です。承安2年 (1172年)、藤原成親の次女・新大納言局を正室に迎えます。この年には従兄弟の平徳子が中宮となったのに伴い、中宮権亮となりました。

『玉葉』に維盛が登場するのはこの頃が初めてですが、「14歳であるというのに作法が優美で人々が驚嘆している」と兼実は記しています。

(4)後白河法皇50歳の祝賀の舞で賞賛を受ける

安元2年(1176年)3月、後白河法皇50歳の祝賀が行われました。この祝賀での維盛の様子は『玉葉』や『安元御賀日記』、『建礼門院右京大夫集』などで詳細に記されており、『平家物語』や『平家公達草子』でも広まり、維盛の名を大いに知らしめるものとなりました。

初日の3月4日には「萬歳楽」「太平楽」「陵王」「落尊入綾」を舞い、「けふの舞のおもてはさらにさらに是にたぐふ有るまじくみえつるを」と法皇から賛辞を受け、御衣を賜りました。

臨席した四条隆房はその様子を次のように評しています。

「維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」

3月5日には舟遊びが催され、優れた笛の演奏を賞されました。

3月6日には烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから「桜梅(の)少将」と呼ばれます。また『建礼門院右京大夫集』では「今昔見る中に、ためしもなき(美貌)」とされ、その姿を光源氏にたとえています。さらに平家を嫌う九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と評しています。

(5)父・重盛の死

治承3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し、叔父の平宗盛が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となります。

重盛の母方には有力な親族がおらず、「鹿ケ谷の陰謀」で殺害された藤原成親の妹が妻であったことで、重盛の後継者としての地位が生前から揺らいでいました。また、維盛自身も成親の娘を娶っていたことがいっそう影響していました。

そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国越前国を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛一族(小松家)の離反回避に努めていた清盛を強く刺激しました。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が「治承三年の政変」による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係があったと考えられています。

(6)平家の大将

治承4年(1180年)5月26日、「以仁王の挙兵」では大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣される。同行した維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清ら平氏家人の奮戦により、乱は鎮圧されます。この際、忠清は兵を南都(奈良)へ進めようとする重衡・維盛の勇み足を「若い人は兵法を知らない」と諫めて制止しています。

同年9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際して維盛は東国追討軍の総大将となります(富士川の戦い)。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の忠清で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れました。出陣する大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったということです。

東海道を下る追討軍は、出発が延びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままなりませんでした。

何とか兵員を増やしながら駿河国に到着、追討軍の到着を待って甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった平氏側の駿河国目代は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗します(鉢田の戦い)。

10月17日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に送ってきた書状の「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に伊藤忠清が激怒し、使者2人の首を斬りました(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。

10月18日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『平家物語』では7万の大軍となっていますが、実際には4千騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降するなどで、残兵は1千から2千騎ほどになっていました。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はありませんでした。

富士川の戦い・水鳥の羽音

維盛は引き退くつもりはありませんでしたが、伊藤忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失っている兵達もそれに賛同しており、維盛は撤退を余儀なくされます。富士川の陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走しました。

11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰りました(『山槐記』『玉葉』など)。清盛は維盛の醜態に激怒し、「何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥である」として維盛が京に入ることを禁じました。

養和元年(1181年)閏2月、清盛が病没します。3月、「墨俣川の戦い」で叔父の重衡らと共に大将軍となり、勝利を収めます。6月10日、右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれます。

維盛はこの年の12月に従三位に叙され公卿となりましたが、この前年には宗盛の長男・清宗が11歳で従三位に叙されています。

(7)「倶利伽羅峠の戦い」と都落ち

寿永2年(1183年)4月、維盛を総大将として木曾義仲追討軍が逐次出発し、平氏の総力を結集した総勢10万(4万とも)の軍勢が北陸に向かいます。

『平家物語』の「北陸下向」によると、遠征軍は進軍路で兵糧調達のため乱暴な取り立てを行いながら進軍しました。これは養和の大飢饉の後のため、兵糧米が京都付近では十分に調達出来なかったので、進軍路での兵糧調達「追捕(ついぶ)」を朝廷から許可されたためです。

また出発前に京でも兵糧調達のために乱暴したことが『玉葉』に記述されています。5月、「倶利伽羅峠の戦い」で義仲軍に大敗。『玉葉』によると、4万の平氏軍で甲冑を付けていたのは4、5騎で平氏軍の過半数が死亡、残りは物具を捨てて山林に逃げたが討ち取られたということです。

平氏第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(伊藤忠清の子)らは一人の供もなく敗走しました。敵軍はわずかに5千、かの3人の侍大将と大将軍(維盛)らで権威を争っている間に敗北に及んだということです。

同年7月、平氏は都を落ちて西走します。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男六代を都に残し、妻子との名残を惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛系一族の変心を、宗盛や知盛が疑うような場面があります。

(8)維盛の死の謎

寿永3年(1184年)2月、維盛は「一ノ谷の戦い」前後、密かに陣中から逃亡します。これ以降は文献により諸説があり、正式な死亡日とその死因は不明です。

『玉葉』の2月19日条によると、「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」とあり30艘ばかりを率いて南海に向かったということです。この時異母弟の忠房も同行していたという説もあります。

のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)したとされます(『平家物語』)。

維盛入水の噂は都にも届き、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいます。

「春の花の 色によそへし おもかげの むなしき波の したにくちぬる」
「かなしくも かゝるうきめを み熊野の 浦わの波に 身しづめける」
建礼門院右京大夫集

熊野の伝承では一ノ谷の戦い後に戦線を離脱し、小森谷渓谷(龍神村)に隠れ住んでいたということです。そこで地元に住むお万という娘と恋仲になりましたが、「壇ノ浦の戦い」で平家が敗れたことを知り、護摩壇山で平家の行く末を占ったところ凶が出たため、維盛は小森谷を出て那智の海に入水したとされています。

それを知ったお万は滝に身を投げたといわれており、小森谷渓谷には維盛の屋敷跡と伝わる場所があるほか、お万が白粉を流した「白壺の滝」、紅を溶かした「赤壺の滝」、身を投げたとされる「お万が淵」があります。

その一方、『源平盛衰記』に記された藤原長方の日記『禅中記』の異説によれば、維盛は入水ではなく熊野に参詣したのち都に上って後白河法皇に助命を乞い、法皇が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したということです。ただし『禅中記』のこの部分は現存していません。

『吉記』の寿永3年(1184年)4月の条に、維盛の弟忠房が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されていますが、忠房は同記に翌年の12月に鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと書かれており、矛盾するので前者の忠房は維盛の誤りとみることができます。

寿永3年2月、「一ノ谷の戦い」前後に屋島を脱走して4月ごろ相模で病死したとも考えられています。

(9)墓所

「入水した」とされるため、確定した墓所はありませんが、那智の補陀洛山寺には供養塔があります。

しかし前述の通り、それ以降の生存説があり、また全国各地に隠棲・落人伝説が残るため、各地に墓所とされるものが残っています。奈良県十津川村大字五百瀬の山中、静岡県富士宮市芝川町稲子、三重県津市芸濃町の成覚寺などに、維盛の墓所とされるものが残っています。

(10)平維盛の子孫

平正盛・家系図

平維盛には前述のとおり、「平高清(たいらのたかきよ)」(平六代、六代御前)(1173年?~没年不詳)という息子がいました。

なお幼名の「六代(ろくだい)」は、平正盛(たいらのまさもり)(?~1121年)から数えて直系の六代目に当たることに因んでと名づけられました。

1185年に北条時政の捜索によって維盛の遺児・平六代は捕らえられましたが、文覚は頼朝のもとへ弟子を遣わして助命嘆願を行い、六代を神護寺に保護しました

しかし平六代は結局、頼朝の死後に文覚が「三左衛門事件」に連座して流罪にされたときに再び捕らえられ、処刑されました。

この六代を最後として、清盛の嫡流は完全に断絶しました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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