山東京伝とは?江戸時代のベストセラー作家で、大人向けコミック・劇画で大人気!

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山東京伝像

山東京伝(さんとうきょうでん)という名前は、歴史の授業で「江戸時代の戯作者(げさくしゃ)」として習いますので、誰でも知っていると思います。

しかし、山東京伝の詳しい人物像や作品の内容についてはあまり知られていないのではないかと思います。

1.山東京伝というペンネームの由来

「東京」が入った名前なので、明治維新の時に「東の京(みやこ)」という意味で江戸が東京に改名されたのを先取りしたものと勘違いしている人もおられるかもしれませんが、そうではありません。

山東京伝というペンネームの由来は「江戸紅葉(もみじやま)のに住む屋(または住所地の橋)の蔵」からです。

2.山東京伝とはどんな人物だったのか

山東京伝

(1)山東京伝とは

山東京伝(山東 京傳、さんとう きょうでん)(1761年~1816年)は、江戸時代後期の黄表紙(きびょうし)・合巻(ごうかん)・洒落本(しゃれぼん)・読本(よみほん)作者で、浮世絵師・狂歌師でもあります。

簡単に言うと江戸時代の通俗小説(大衆小説)の作家で、今で言う「ベストセラー作家」であり、浮世絵師や狂歌師も兼ねる「マルチタレント」です。

戯作者としては、山東庵・山東窟・山東軒・珊洞散士・鼯鼠翁・臍下逸人・洛橋陳人・甘谷・菊亭・菊軒・菊花亭・醒斎・醒々斎・醒世老人と号しました。

浮世絵師としては北尾政演(きたおまさのぶ)と号し、葎斎(せいさい)・北尾葎斎政演・北尾京伝まさのぶ・山東政演とも号して寛政元年(1789年)まで活動しました。

作画期は安永7年ころから文化12年(1778年~1815年)前後でした。「寛政の改革」(1787年~1793年)における出版統制により手鎖(てぐさり)の処罰を受けました。

現在の銀座1丁目に喫煙用の小物販売店「京屋」を開き、彼がデザインした紙製煙草入れが大流行したそうです。

なお、狂歌師としては身軽折輔(みがるのおりすけ)と号しました。

(2)山東京伝の人物像と生涯

山東京伝は、質屋の岩瀬伝左衛門の長男として、江戸・深川木場に生まれました。

本名は岩瀬醒(いわせさむる)(または田臧[のぶよし])です。幼名は甚太郎、通称は京屋伝蔵(または田蔵)です。

弟に相四郎(後の合巻作者の山東京山)、妹によね(後の黄表紙・狂歌作者の黒鳶式部)がいます。

父が町屋敷の家主となるに従って京橋銀座一丁目(新両替町)に移りました。

後に同所東側の店「京屋」で煙管、紙製煙草入れなどを商い、その傍ら戯作も著述、後半生はこの方面で活躍しました。

若くして浮世絵を北尾重政(1739年~1820年)に学び、北尾政演(きたおまさのぶ)と号して、挿絵や錦絵を描きました

安永8年(1779年)、18歳で黄表紙『(お花半七)開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』(者張堂少通辺人作)にはじめて挿絵を描き、同9年『娘敵討故郷錦(むすめかたきうちこきょうのにしき)』に京伝の名で、黄表紙の作者に進出しました。

ちなみに「黄表紙」とは、黄色の表紙で絵と文章で構成され、吹き出しのようなものもあり、内容はしゃれ、滑稽、社会風刺を織り交ぜた大人向きの絵入り小説です。いわば「大人向けコミック・劇画」です。あちこちに仕込まれたダジャレや風刺などを読み解くのも楽しみのひとつです。喜多川歌麿、葛飾北斎など人気浮世絵師が挿絵を担当し江戸庶民に大人気でした。

天明2年(1782年)の『(手前勝手)御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が大田南畝に認められて出世作となりました。

そして天明5年(1785年)の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』がうぬぼれの強い若者の愚行を描いて世評高く黄表紙の中心作家となりました。

また、「十八大通(じゅうはちだいつう)」(*)の一人と言われた浅草蔵前の札差(ふださし)文魚と親交があり、吉原に遊んで家に帰るのは月のうち5、6日に過ぎなかったとも言われています。

(*)「十八大通」とは、江戸時代の代表的な通人(つうじん)と呼ばれた人々のことです。その多くは札差(金融商人)でした。ただし、「十八」という数は「八百万(やおよろず)の神々」「江戸八百八町」などのように、多数という意味、または吉数に因んだもので、人数にも諸説があります。

『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき』の主人公が、色男を気取る獅子鼻の道楽息子艶二郎だったために、当時吉原では色男を気取る自惚れ屋を艶二郎と呼ぶのが流行したそうです。

また狂歌界にも近づき、『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』(天明6年)などの狂歌絵本に華麗な絵筆を振るいました。

早くから遊里に親しんで吉原の名妓の容姿を描いた絵本『(吉原傾城)新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』(天明4年)があり、天明5年『息子部屋(むすこべや)』で洒落本に進出しました。

遊里生活体験の豊富な知識、温い人間性に裏づけられた鋭い洞察、繊細な美意識などが、『客衆肝照子(きゃくしゅきもかがみ)』(天明6年)にみられる浮世絵師としての感覚に磨かれた写実描写手法に支えられて、十六部の作品によって京伝を洒落本界の第一人者たらしめました。

『通言総籬(つうげんそうまがき)』(天明7年)・『古契三娼(こけいのさんしょう)』(同)などは天明期の遊里写実の極致を示しましたが、寛政期に入ってさらに遊里人間の普遍相に眼を向けて、『志羅川夜船(しらかわよぶね)』(寛政元年)・『繁千話(しげしげちわ)』(寛政2年)があり、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(同)は内面的心理描写の深奥にも至り得た佳作でした。

寛政2年(1790年)2月に、京伝は吉原扇屋の遊女・菊園を妻に娶りました。

やがて天明末から始まった松平定信の「寛政の改革」の推進に伴って、改革政治に取材した『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年)などがありましたが、この種の作品が当局の弾圧を受けると見ると、いちはやく心学の流行に便乗した教訓的意図をもつ『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』(同2年)を出して好評を博しました。

しかし同3年の『娼妓絹〓(しょうぎきぬぶるい)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』『仕懸文庫(しかけぶんこ)』の三部の洒落本は、かなり慎重な配慮のもとになされた作でしたが、禁令を犯したかどによって京伝は手鎖五十日の刑を受けました。

京伝の精神的な打撃は大きく、謹慎を旨としましたが、代わって門生の礼をとった曲亭馬琴が台頭してきました。

同5年(1793年)妻と死別した後、紙製煙草入れの商人京屋伝蔵として商いにも専念しましたが、やがて戯作の意欲を回復して、再び江戸小説界の先頭に立つことになりました。

しかしその黄表紙はかつての滑稽諧謔の本質を喪失して、理屈におちた教訓的なものが多く、やがて時流に従って敵討ちものも書き、合巻(ごうかん)の時期にも活躍しましたが生彩に乏しいものでした。

一方、同11年『忠臣水滸伝』によって読本(よみほん)作者として出発し、馬琴とならんで新しい江戸読本の確立に努め、やがてその全盛期をもたらしました。

享和3年(1803年)の『(復讐奇談)安積沼(あさかのぬま)』、文化元年(1804年)の『優曇華(うどんげ)物語』など当初は敵討ちものが目立ちましたが、やがて、演劇的素材や趣向に富む『桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのぞうし)』(文化2年)、『昔話稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(同3年)などによって独自の境地を開きました。

一方、説話の構成における欠陥も『本朝酔菩提全伝(ほんちょうすいぼだいぜんでん)』(同6年)などにみられ、馬琴との抗争にも次第に劣勢に立つことになりました。

その退勢を挽回しようとして、新しい読本を目ざした野心作『双蝶記』(同10年)も世評が芳しくなく、ついに読本の作を断念しました。

晩年の京伝はむしろ文化初年から興味を抱いた近世初期風俗の研究考証に生きがいを見出したようで、『近世奇跡考』(文化元年)に次いで、『骨董集(こっとうしゅう)』(同11年・12年)を未完のままに残しています。

錦絵はほぼ天明年間(1781年~1788年)に集中し、寛政3年(1791年)以降の京伝の作品はほとんど蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門が版元となっています。

寛政元年(1789年)(ちょうど「フランス革命」が起きた年)刊行の黄表紙『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』で作者石部琴好とともに画工として筆禍を得て、次第に画壇から遠のきました。

弟子には山東鶏告(さんとうけいこう)・山東唐洲らがいますが、後に曲亭馬琴の入門を断ったように弟子は取らなくなりました。

仲間と飲み食いをする際に当時は代表者1名が総額を支払うことが一般的であったのに対し、総額を出席者の頭数で均等に割って勘定を済ませることから、そのやり方は「京伝勘定」と呼ばれました。現在「割り前勘定(割り勘)」と呼ばれる支払い精算方式の祖と呼ばれています。

山東京伝の友人でもあった曲亭馬琴は、京伝が吝嗇(けち)であったり、金を惜しんだからではなく、仲間との間の金銭による「もつれ」をきらったこと、淡交を望んだためだと書き記しています。

1816年(文化13年)56才で死去しました。東京都墨田区両国の回向院に「岩瀬醒墓」(京伝)・「岩瀬百樹之墓」(京山)、「岩瀬氏之墓」(伝左衛門)があります。

法名は弁誉智海京伝信士。京伝が没した翌年、弟の京山が浅草寺境内に「机塚」の碑を建立しました。

40歳で娶った元吉原の遊女であった後妻・百合が残りましたが、やがて病死して、弟京山の息子が京屋伝蔵を継ぎました。

京伝の生涯については馬琴が『伊波伝毛乃記(いわでものき)』(文政2年・1819年)という伝記を書いています。

余談ですが、前に「鈴木儀三治 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その3)」という記事を書きました。鈴木儀三治は、山東京伝に作品の添削・出版の依頼をしてから何と40年後に弟の山東京山の尽力によってやっと出版にこぎつけたそうです。

現代のベストセラー作家の場合もそうでしょうが、有名な戯作者・読本作者の山東京伝や曲亭馬琴の元には、「原稿を読んで欲しい」「出版してほしい」という依頼が山のようにあったに違いありません。

彼らは自分自身の本業も忙しいので、全ての依頼作品をじっくり読んでいる暇はなかったのでしょう。それで、「放置しておけばやがて諦めるだろう」と考えたのでしょう。確かに「いらち」(せっかち)な関西人である私なら、しびれを切らして早々に見切りをつけて他を当たったでしょうが、鈴木儀三治はネームバリューのある山東京伝や曲亭馬琴に望みを託して、長年にわたって我慢強く待っていたのでしょう。

3.山東京伝の「黄表紙」の代表的作品のあらすじ紹介

黄表紙を読む女性・浮世絵

(1)『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき』(1785年)

江戸生艶気樺焼

これは、モテ男になりたい 金持ちブサメンの奮闘記です。

<あらすじ>

主人公は団子鼻がチャームポイントのブサメン・艶二郎(19歳)。金持ちのひとり息子の艶二郎の夢は「モテまくって世間の噂になりたい!」

悪友2人を相談役に、金にものをいわせて色男になるため奮闘する艶二郎。果たして夢は叶うのでしょうか!?

・色男になろう作戦(その1)

江戸生艶気樺焼2

彼女の名前を刺青しよう!(ただし、彼女はいない)いわゆる「一字命(いちじめい)」のことですね。

ちなみに「一字命」については、「葛飾北斎は、浮世絵や漫画を描いた絵師だが、川柳作者でもあった!?」という記事で、「千人の枕ににくい一字命」という川柳の解説に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

「モテる男って彼女の名前を刺青したりしてるよね!おれもアレやりたい!」「実在しない彼女の名前を刺青して、なおかつ違う女性から嫉妬されたい!」という理由で刺青を入れることにした艶二郎。

しかし彼女もいないし嫉妬してくれる女性もいない艶二郎。金の力で遊女を買って、刺青を見せたら嫉妬するよう頼みます。

・色男になろう作戦(その2)

金で熱狂的なファンを買おう!

色男には熱狂的ファンが付き物ということで、町芸者に50両(約500万円)を渡して熱狂ファンを演じてもらうことに。段取り通りに家に押しかけてきた艶二郎ファンを名乗る女性に家族は仰天しますが、艶二郎はニヤニヤするばかり、全部自分でやらせてます。

・色男になろう作戦(その3)

江戸生艶気樺焼3江戸生艶気樺焼4

心中をしよう!

色男の究極のラストっていえば心中だよね!でもホントに死ぬのはイヤだよね!ということで艶二郎は、狂言心中をやることになります。遊女を言いくるめ、大金をはたいて、いざ心中。

というところで、泥棒に身ぐるみはがれて2人はすっぽんぽん。 なお、この泥棒の正体は艶二郎を改心させようとした父親と番頭。

結局、色男にはなれなかった艶二郎ですが、すっかり懲りて改心するというラスト。心中ごっこに付き合ってくれた遊女と結婚もできたし一応、ハッピーエンドです。

艶二朗手ぬぐい

主人公の艶二郎は、どこか憎めないキャラクターが受け「うぬぼれ男」の代名詞となり江戸庶民の人気者になりました。今風に言えば「ブサかわいい」といったところでしょうか?

また、艶二郎の団子鼻は「京伝鼻」とも呼ばれ、手ぬぐいにグッズ化されたりしています。デザインはもちろん山東京伝。

(2)『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』(1791年)

箱入娘面屋人魚

ヒロインは人魚。というか人面魚です。

<あらすじ>

あの浦島太郎が乙姫さまにも飽きたので、鯉の娼婦と浮気した(鯉に恋をした!?)ところ、鯉は妊娠してしまったので、浦島太郎は保身のために赤ちゃん人魚を捨ててしまいます。捨てられた人魚の行く末やいかに…

漁をしていて人魚を釣り上げてびっくり仰天の漁師の平次。人魚「怪しい者じゃありません。人魚です。お嫁さんにしてください」

めでたく(?)夫婦になった平次と人魚ですが、とにかく貧乏で生活が立ち行かない。 そこで夫を愛する人魚はけなげにも遊女になる決心をします。女郎屋の主人は人魚に「魚人(うおんど)」という源氏名をつけ客を取らせようとしますが……。

箱入娘面屋人魚2

「この娘(こ)めちゃくちゃ生臭いんだけど!(怒)」と客からクレーム。

結局、初日で遊女はクビになり平次のもとへ戻された人魚。そりゃ人魚ですから生臭いのは当たり前ですよね。

箱入娘面屋人魚3

すると近所に住む学者が「人魚をなめると若返るって古い本に書いてあったよ」と教えてくれました。

それを聞いた平次、『寿命の薬 人魚御なめ所』という看板を出したところ大評判に。ひとなめ=1両(約10万円)の高額にも関わらず押すな押すなの大行列となりました。

箱入娘面屋人魚4

大金持ちになった平次は「もうちょっと若くなれたら、あとは言うことないのになぁ」と思い、嫁が人魚なのをいいことになめまくってたら、若返りすぎて子供になってしまいます。

これは困ったという状況でドロンドロン~と現れたのは、なんと人魚の父親である浦島太郎と母親の鯉。浦島太郎が平次に玉手箱を開けさせると、ちょうどいい感じの年齢に大変身。ついでに何故か人魚も人間に!2人は末永く幸せに暮らしましたとさ。

(3)『一百三升芋地獄(いっぴゃくさんじょういもじごく)』(1789年)

芋地獄

これは山東京伝が描く奇妙奇天烈(きてれつ)な地獄です。

<あらすじ>

主人公は、この世にあるという136の地獄すべてを巡った豪傑。地獄制覇を成し遂げこの世に戻ってきた男は、子供たちの歌う歌詞に初めて聞く地獄を知ります。その名も「芋地獄」。

好奇心旺盛な男はさっそく芋地獄を見物すべく旅立ちます…。

芋地獄はこの世で罪を犯した芋を罰する地獄で、芋地獄の長はなぜか閻魔ならぬ大タコ大王です。今日も地獄へ落とされた芋たちに罰を与えています。

芋地獄2

大タコ大王「精進料理でありながら、鰻の蒲焼風に料理されて和尚に精をつけさせたな!」と糾弾。現世での罪を映す鏡にはたしかに鰻が…。

賽の河原では小芋たちが石の代わりに里芋を積み上げ塔を作っています。チビッ子の小芋たちもなぜか怖いですね。

地獄に落ちたつくね芋たちが、ある者はワサビおろしですりおろされ、ある者はすり鉢ですられています。そう、ここは「とろろ地獄」!

芋地獄3

こんな感じで続く芋地獄の様子を見物していた地獄マニアの豪傑。しかし実はこの芋地獄、タコ大王がつくった偽地獄でした!

激怒した閻魔大王によってタコ大王は灼熱地獄で茹でダコにされてしまったとさ。めでたし、めでたし。

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