狂気の独裁者アドルフ・ヒトラーとはどんな人物だったのか?プーチンも似ている!?

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アドルフ・ヒトラー

20世紀最大の独裁者」あるいは「20世紀最悪の独裁者」と呼ばれるドイツの元首相アドルフ・ヒトラーですが、彼を狂気に駆り立てたものとは一体何だったのでしょうか?

「反ネオ・ナチ」を掲げてウクライナ侵略を始め、軍事施設以外の住宅・劇場などを無差別攻撃して兵士以外の民間人の大量殺戮を行っているロシアのプーチン大統領を見ていると、ユダヤ人を迫害し、後にユダヤ人600万人の大虐殺(ホロコースト)を行ったアドルフ・ヒトラーと何だかオーバーラップしてくるように感じるのは私だけでしょうか?

1.アドルフ・ヒトラーとは

アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)は、ドイツ(第三帝国)の総統(国家元首)兼首相であり、国家と一体であるとされた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」の指導者です。

1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく「党と指導者による一極集中独裁指導体制」を築いたため、「独裁者の典型」とされています。

ドイツ民族至上主義者」であり、その「冒険的な外交政策」と「人種主義に基づく政策」は、全世界を第二次世界大戦へと導き、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こしました。第二次世界大戦敗戦を目前にした1945年4月30日、自殺しました。

2.アドルフ・ヒトラーの生涯と人物像

(1)生い立ち

オーストリア・ハンガリー帝国の税関吏の子として1889年4月20日ブラウナウ(現オーストリア)に生まれました。

(2)青壮年期

若くして両親を失い画家になろうとして失敗(ウィーン美術アカデミーを受験していますが、結局は三度とも不合格)し、ウィーンの貧民街の公営施設を定宿として、絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活しました。

その間に下層社会や大衆の心理について体験したことが、後に政治活動をする上で役立ちました。

オーストリア・ハンガリー帝国内の民族闘争に巻き込まれて「ドイツ民族至上主義者」となり、国際主義的なマルクス主義を憎みユダヤ人とスラブ民族を憎むようになりました。

オーストリアで兵役につくことを嫌って1913年春にドイツのミュンヘンに逃れ、第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて一級鉄十字章を受けました。

軍隊内の戦友愛や規律、団結の精神が人生の規範となるべきだと考えるようになりました。

「ドイツ革命(1918年~1919年)」(*)の後にミュンヘンの軍隊内で、軍人のための政治思想講習会に出席して民族主義思想を固め、1919年9月、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党しました。

(*)「ドイツ革命」とは、第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、帝政ドイツが打倒された革命のことです。ドイツでは「11月革命」とも言います。

これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするワイマール共和国が樹立されました。

また、革命の指導者のクルト・アイスナー、ローザ・ルクセンブルク、エルンスト・トラー、オイゲン・レヴィーネ、 カール・リープクネヒトらがユダヤ人であったことから、ドイツ革命に反発した民族主義の右翼は、共産主義者とユダヤ人による「背後の一突き」でドイツを敗北へと導いたとする見方を広め、革命後のドイツでは反ユダヤ主義が高まっていきました。

ヒトラーは軍人から政治家に転身を考えていた時期に、「スパイ」の任務に就いたことがあります。この時のヒトラーの任務は革命政権を支持するドイツ労働者党の情報収集でした。

しかし、任務中に聴いたドイツ労働者党の党首であるアントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に魅了されます。

こうしてヒトラーは軍人を辞め、ドイツ労働者党の一員になったのです。ヒトラーはドレクスラーのユダヤ排斥論に強く共感し、後のナチ党にも大きな影響を与えました。

(3)ナチス党首

彼は人を惹きつける雄弁の才能を持っており、いつも演説会で聴衆を熱狂させました。「天才的なアジテーター(扇動家)」といったところでしょうか?

余談ですが、この点ではウクライナのゼレンスキー大統領に似ています。プーチン大統領は「嘘八百のプロパガンダ演説」に過ぎませんが、ゼレンスキー大統領は国民の愛国心に訴える熱弁を振るいますし、欧米や日本などの民主主義国には冷静に侵略するロシアの残虐で非人道的な戦争犯罪を訴え、支援を求めています。

そしてヒトラーは精力的に宣伝活動を行って党の勢力を拡張し、1920年3月末には軍隊を退いて政治活動に専念するようになりました。

1921年7月には党内独裁者となり、軍部や保守派と結んで強大なドイツの再建、ベルサイユ条約の打破、民主共和制の打倒と独裁政治の確立ユダヤ人排斥を説きましたが、そのほかに中産階級の保護、社会政策の充実、民族共同体の樹立を訴えて、中産階級を中心とする国民各層の支持を確保し、大衆集会を頻繁に開いて党勢を急速に拡大しました。

1923年11月8日から9日にかけて、「ミュンヘン一揆」を起こしました(「ヒトラー一揆」とも言う)。しかし、頼みとしていたバイエルン軍部と官僚の支持を得られずに失敗し、翌1924年12月20日までランツベルク獄中におり、獄中で『わが闘争』を執筆しました。

出獄後、党を再建し、合法運動によって民主共和制を内部から征服しようとしました。

わが闘争』を出版(1925年~1926年)して、ヨーロッパを征服して生存圏を東方に大拡張するプランを示しました。

1926年には「ヒトラーユーゲント( Hitlerjugend、略称 HJ、)」(ヒトラー青少年団)というナチス党内の青少年組織を設立しました。これは学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となりました。

余談ですが、この「ヒトラーユーゲント」は、ロシア国防省傘下の青少年団体「ユナルミヤ」とよく似ています。「ユナルミヤ」」は8歳から18歳までを対象とし、愛国教育や、ロシア軍の入隊前訓練などを行う組織で、85万人が所属しているとされています。ロシアは17から18歳の未成年者を、ウクライナ侵略に動員させる準備をしているとも言われています。

また党内のいろいろな傾向を巧みにまとめ上げて、国民の各階層、とくに中産階級の支持を確保し、1930年9月の総選挙に大勝してナチスを第二党に躍進させました。

連立内閣への誘いを断ってナチスの独裁支配を要求し、1932年春の大統領選挙では1340万票(36.8%)の支持を得ましたが、ヒンデンブルクに敗れました。

しかし同年7月の総選挙ではナチスが37.3%を得て第一党となり、支配勢力各層の有力者が彼を支持するようになったので、1933年1月30日、首相に任命されました。

そして保守派と一般国民の支持の下に反対派を弾圧し、「一党独裁体制」を確立しました(第三帝国)。

(4)総統

1934年8月にはヒンデンブルクの死とともに大統領を兼ねて「総統兼首相(総統と略す)」Führer und Reichskanzlerと称しました。

民主共和制時代に蓄えられたドイツの生産力や技術をフルに活用し、支配勢力の支持を得て国力を発展させました。失業者に職を与え、工業を再建して繁栄をもたらし、軍備を大拡張し、国力を発展させたので、外交上で矢つぎばやに成功を収める基礎ができました。

そしてドイツはヨーロッパ第一の強国となりました。「ドイツ労働戦線」「歓喜力行団」その他の勤労者団体の努力によって国民の生活水準も一応向上し、社会習慣の近代化も行われたので、国民の広範な支持が生まれました。

ラジオなどメディアを使った選挙活動をしていたヒトラーは国民に人気が高く、首相就任も支持されていました。しかし、ヒトラーはあえて首相就任を国民投票に委ね、8割を超える票を獲得しました。

しかし厳しい弾圧と統制、各種の奉仕活動、準軍事訓練、絶え間ない募金活動が日常生活を圧迫し、重苦しい不快感を与えたため、政府に対する民衆の小さな反抗が至る所で起こり、政治的無関心と個人生活への退却などの現象も広がりました。

第三帝国の前期には、保守帝政派を外相に任じて、支配勢力主流の要求する比較的協調的な外交政策を展開しましたが、国力が強化されるにつれて強硬外交を主張する者が国内で増大し、ついに1939年9月ドイツ軍をポーランドに侵入させて、第二次世界大戦に突入しました。

つまり「侵略主義」を推進して、ドイツを「全体主義国家」にしたのです。

彼は作戦に干渉し、その指令は対フランス戦においては効果をあげました。独ソ戦では、1941年末にソ連軍の反撃を受けて戦線が混乱したとき、退却を禁ずることによって敗北を小規模にとどめましたが、1942年11月~1943年1月「スターリングラードの戦い」における敗北の前後から、現実を無視した指令を出して敗戦を重ねました

1944年7月20日に、国防軍の反ヒトラー派による「ヒトラー爆殺事件」が起きましたが、奇跡的に切り抜けました。

大戦末期に至るまで、一般民衆の個人的人気は一応保っていましたが、1945年4月30日、ベルリン陥落直前に自殺しました。

(5)人物像

長く独身でしたが、姪(めい)のアンゲラ・ラウバルAngela Raubal(1908年~1931年)を愛し、彼女が自殺した後は、エヴァ・ブラウンEva Braun(1912年~1945年)(下の画像)を愛して、自殺の前日に結婚しましたが、エヴァもともに自殺しました。

エバ・ブラウン

菜食主義」で、「飲酒や喫煙をせず」、「極端な夜型人間」で夜は明け方の3時か4時ごろまで起きていて、側近と談笑したそうです。したがって朝は正午近くまでベッドにいました。

生涯を通じて芸術の保護者と自認しましたが、現代文学や絵画などは「ユダヤ的」「ニグロ的」と断定して、19世紀的芸術を推賞しました。

ヒトラーは若い頃ウィーン美術アカデミーを受験し、三度不合格になったことを根に持っており、首相就任後には多くのアカデミーを弾圧しました。また、当時先進的だったアカデミーら「世紀末芸術派」に対して、自身を時代に理解されない「古典派芸術家」であると語っています。

各種の政策決定には迷い抜いて、多くの決断は専門家(支配勢力の主流)に委ねたので、独断で決定した政策は世上で考えられているよりもはるかに少ないそうです。

いろいろな圧力団体や利益団体からは独立した立場にいましたので、「ドイツ労働戦線」の労働者本位の活動をある程度は許すなどの政策をとり、「公平な指導者」として国民に信頼されており、狂気でも、性的異常者でもなかったとも言われています。

ただし、私は個人的にはヒトラーは「パラノイア(偏執病)」(*)だったのではないかと思っています。

(*)パラノイア(paranoia)とは、偏執病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想のみを持ち続けている状態で、その際に妄想の点を除いた考え方や行動は首尾一貫しているものです。

幻覚や幻聴は伴わず、中年以降に徐々に発症し、男性に多い病気です。妄想の内容は、高貴な出であると確信する血統妄想、発明妄想、宗教妄想などの誇大的内容のものをはじめ、自分の地位・財産・生命を脅かされるという被害(迫害)妄想、連れ合いの不貞を確信する嫉妬(しっと)妄想、不利益を被ったと確信して権利の回復のための闘争を徹底的に行う好訴妄想、身体的な異常を確信している心気妄想などがあります。一般には、自我感情が高揚して持続的な強さや刺激性を示します。

第一次世界大戦の軍人時代、ヒトラーはヒステリーから失明状態に陥ったことがあります。また、強迫観念の症状もあり、それらを治療するために精神科で治療をしていました。

ヒトラーは他にも不眠症や頻繁放屁の症状があり、劇物に近い薬を大量に飲んでいたといいます。これらの薬は晩年のヒトラーに多少なりとも影響を与えたと考えられています。

ヒトラーは非常に危険な思想の持ち主だったため、実に42回もの暗殺計画が存在しました。しかし、彼はそのすべての計画から生還しています。

暗殺は国家レベルから個人レベルのものまで存在し、銃を使ったものから爆弾、薬品を用いたものまでが計画されました。

その中でも最も有名なのがズデーテン地方で計画された「陸軍のクーデター」です。この計画には陸軍関係者以外にも国立銀行総裁や裁判所判事、警察本部長から牧師に至るまで各界の要人や著名人が参加していました。

このクーデターはヨーロッパでの戦争勃発を危惧して計画されていましたが、政策によりヒトラーが戦争を回避したため実行には至りませんでした。これによりヒトラーは最も危険な暗殺計画を回避することができたのです。

3.ヒトラーの名言・迷言

・わたしは間違っているが、世間はもっと間違っている。

・偉大なうそつきは、偉大な魔術師だ。

・人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。

・嘘を大声で、充分に時間を費やして語れば、人はそれを信じるようになる。

・条約が有効なのは、私にとって有益な間だけだ。

・敵がいるのは良いことだ。それはいつか、人生の中で何かのために立ち上がったという証だ。

4.ヒトラーはユダヤ系少女と仲良しだった!?

ヒトラーは、ユダヤ系少女のローザ・ベルニール・ニナウさんとの友情を大事にしていました。5年後にナチス高官が介入して、やめさせるまでは。

2人の関係を1933年に記録した珍しい署名入りの写真は、米国でオークションにかけられました。

写真は、ヒトラー専属の写真家ハインリヒ・ホフマンが撮影したものです。

競売業者アレクサンダー・ヒストリカル・オークションのビル・パナゴプロス氏は英紙デイリーメール電子版に次のように話しています。

「ヒトラーはプロパガンダ目的で、しょっちゅう子供と一緒に写真を撮った。しかし、この作品は衝撃的だ。ヒトラーは本心からこの女の子に、親近感を抱いていたようなので。愕然とした」

<競売にかけられた「ヒトラーのユダヤ系少女との仲良し写真」>

ユダヤ系少女とヒトラーの仲良し写真

ヒトラーとユダヤ系少女との友情

ヒトラーと女の子は、誕生日が同じでした。それが出会いのきっかけでした。

競売サイトによると、ローザさんは1933年、母親のカロリーネさんと一緒に、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフを訪れました。別荘の外には、ナチス総統の誕生日を祝う大勢が集まっていました。

ローザさんの誕生日が自分と同じだと知ったヒトラーは、ローザさんと母親を別荘に招き入れ、写真はそのとき撮られたということです。

それからまもなくして、カロリーネさんの母親がユダヤ人だったことが判明します。ナチスにとっては、ローザさんもユダヤ人ということになりました。

しかしそれでも、ヒトラーは少女との友情を終わらせませんでした。一緒に撮った写真は、サインをして送っています。

「親愛なる、そして(思いやりのある?)ローザ・ニナウへ、アドルフ・ヒトラー、ミュンヘン、1933年6月16日」と、ヒトラーは書きました。

ローザさんは後に、この白黒写真に自分で花を足しているようです。

ローザさんは1935〜1938年の間に、少なくとも17回にわたりヒトラーと側近のヴィルヘルム・ブリュックナーに宛てて手紙を書いています。ヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンが、ローザさんと母親(ローザさんの父親は死亡していた)に連絡を控えるよう命令するまで続きました。

ボルマンが、ヒトラーと少女の接触をやめさせた翌年、第二次世界大戦が勃発しました。6年後の終戦までに、ユダヤ人600万人が虐殺されました。

ローザさんも戦争を生き抜くことはありませんでした。ポリオにかかり、ヒトラーと初めて会った10年後の1943年、17歳でミュンヘンの病院で亡くなっています。

なお、ヒトラーについては、前に「ユダヤ人差別主義者のアドルフ・ヒトラーは日本人差別主義者でもあった!」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。



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