今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、相澤智咲(あいざわちさ)さんが安徳天皇を演じています。
4月10日には平家とともに都から去った安徳天皇が登場しました。誰もが壇ノ浦での悲劇を知っているだけに「こんなかわいいお方が…これは泣く」「良いお顔してたなぁ。しんどいな」「『安徳天皇』というだけで胸がキュッとなる」「誰にとっても重くてつらい展開ばっかり」などと安徳天皇の悲劇を嘆く声がネット上にあふれていました。
5月8日放送はいよいよ「壇ノ浦の戦い」(『壇ノ浦で舞った男』)で、「源義経の八艘飛び」とともに「安徳天皇の最期」が描かれることになるはずです。
ところで、安徳天皇は二位尼に抱かれて入水(じゅすい)し、「三種の神器」とともに壇ノ浦の海底に沈んだと一般に思われていますが、「平家落人伝説」には「すり替え説」や「生存伝説」もあります。
このような伝説が生まれた原因は、ともに入水した母の平徳子(後の建礼門院)などが救助されたほか、入水した人々の遺体が浮き上がったにもかかわらず、安徳天皇の遺体が見つからなかったためです。
1.安徳天皇「すり替え説」
これは阿波国祖谷山(現在の徳島県三好市)に逃れて隠れ住み、同地で崩御したとする説です。
徳島県三好市の「祖谷(いや)地区」(「祖谷のかずら橋」で有名)に残る安徳天皇と、猛将として有名な平教経(たいらののりつね)(1160年~1184年または1185年)にまつわる落人伝説です。
平国盛(平教経)が祖谷を平定し、麻植郡に逃れていた安徳天皇を迎えました。天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏(はちぶせ)」、谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡(くりしど)」等、安徳天皇に由来すると伝わる地名があります。安徳天皇はこの地に隠れ住み、16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたということです(『美馬郡誌』)。
徳島県の剣山(つるぎさん)には、安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を納めたという伝説があります。神剣の奉納により太郎山から現称の「剣山」に変わり、山頂の剣神社本宮では素戔男尊と安徳天皇を祀ったということです。
2022年5月7日の毎日新聞(夕刊)に、平家落人の子孫である西岡孝明氏の話が掲載されていました。
「壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)」(現在の山口県下関市)の1ヵ月前のことです。「屋島の戦い(1185年3月22日)」(現在の香川県高松市)に敗れて滅亡が必至となった平家は、安徳天皇を生かすために別人とすり替え、教経に預けました。
教経は安徳天皇を守りながら祖谷へ至り、国盛と名乗って身を隠し、再起を期しました。しかし不慣れな山暮らしで病になった安徳天皇は幼いまま崩御しました。
「錦の御旗(にしきのみはた)」を失った国盛は、挙兵よりも平家の血を残すことを優先し、祖谷に土着したということです。
余談ですが、明治天皇についても「すり替え説」があります。これについては「明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?」「大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?」「影武者・替え玉やすり替えの話。平将門・武田信玄・徳川家康・明治天皇など」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
2.安徳天皇「生存伝説」
九州や山陰・南西諸島を中心に、近畿や北陸・東北地方など全国各地に残る「平家落人伝説」とともに「安徳天皇生存伝説」があります。
(1)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説
江戸末期の文化14(1817)年、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の「野間(のま)地区」の民家の屋根裏から発見された古文書は、平安の貴族で安徳天皇侍従の藤原経房(ふじわらのつねふさ)(1143年~1200年)が息子にあてた「遺書」でした。そこには壇ノ浦から安徳天皇を守って山里能勢まで逃れてきたこと、そして天皇はこの地で亡くなられたことが書いてありました。
「遺書」によれば、戦場を脱した安徳天皇と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸しました。しかし翌年5月17日早朝に崩御し、当地の岩崎八幡社に祀られました。
経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での崩御までが詳細に書かれています。
当時、読本作者・曲亭馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じましたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物としました。
経房遺書の原本は明治33年頃亡失したとされていますが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在します。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残しています。経路であった鳥取県の岡益の石堂や三朝町などにも今も陵墓参考地を残していますが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされています。
藤原経房の経歴が史実と異なるといった矛盾は指摘されていますが、経房の子孫と称する辻経雄氏は「明治時代には平安時代の鏡なども発掘された。能勢にこそ安徳天皇の陵墓がある」と主張しています。
(2)因幡国に逃れて10歳で崩御したとする説
安徳天皇は壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けました。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住みました。文治3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御しました。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられています。
鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残っています。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在します。
また、鳥取県東伯郡三朝町中津にも安徳天皇が落ち延びたという伝説が残っています。
(3)薩摩国硫黄島(現在の鹿児島県三島村)に逃れたとする説。(『硫黄島大権現御本縁』)
平資盛に警護され豊後水道を南下し、硫黄島に逃れて「黒木御所」を築いたとされています。安徳天皇は資盛の娘とされる櫛笥局と結婚して子を儲けたということです。
同島の長浜家は安徳天皇の子孫を称し、「開けずの箱」というものを所持しており、代々その箱を開くことはありませんでした。しかし、江戸時代末期、島津氏の使者が来島して箱を検分しましたが、長浜家にも中身を明かしませんでした。昭和になって研究家が箱を開けると、預かりおく旨を記した紙が出てきたため中身は島津氏によって持ち去られたとされています。
この箱の中には「三種の神器」のうち、壇ノ浦の戦いで海底に沈んだとされる「天叢雲剣」が入っていたのではないかという説もあります。
ところが、薩摩藩主である島津斉興の自筆による『虎巻根本諸作法最口伝規則』という文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵「玉里島津家文書」所収)の中に文政10年(1827年)硫黄島で「八咫鏡」が発見されて斉興によって上山城内に建てられた宮に安置されたと記されていることが判明しました(上山城は現在の城山ですが、現在は宮や安置された鏡の所在は不明です)。
硫黄島には昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦(長浜天皇)なる人物がいました。
(4)大隅国牛根麓にて13歳で崩御したとする説。
硫黄島から移って来た安徳天皇が同地で没し、居世神社に祀られているということです。
(5)土佐国高岡郡横倉山に隠れ住み、同地で崩御したとする説。
平知盛らに奉じられ、松尾山、椿山を経て横倉山に辿り着き、同地に「行在所」を築いて詩歌や蹴鞠に興じ、妻帯もしましたが、1200年8月に23歳で崩御。鞠ヶ奈路に土葬されたということです。
3.安徳天皇とは
安徳天皇(1178年~1185年)は、第81代天皇(在位: 1180年~ 1185年)。諱は言仁(ときひと)。高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)です。
歴代の天皇の中で「最も短命な天皇」で、「戦乱で落命した(ことが記録されている)唯一の天皇」でもあります。
源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ「三種の神器」とともに都落ちしました。この後1183年8月日に、後白河法皇の院宣を受ける形で「三種の神器」が無いまま後鳥羽天皇が践祚し、1184年7月28日に即位しました。正史上「初めて同時に2人の天皇が擁立される」ことになりました。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっています。
4.安徳天皇にまつわる興味深い話
(1)「虚弱体質」で、「皇女説」まである
『平家物語』をはじめ、『源平盛衰記』や『吾妻鏡』などおおかたの書物が、「御年のほどよりはるかにねびさせ給ひて」と、年齢よりはるかに大人びていたと書いています。
安徳天皇は、虚弱であったようです。安徳天皇誕生の後、「頼豪(らいごう)という僧の呪いで、白河院の皇子が早死した話」など、「御悩(おのう)」(病気)という言葉がしきりに出て来ます。安徳天皇が短命であったことを示唆しているとともに、虚弱であった印象がぬぐえません。当然、身体が大きかったとは思えませんが、大きく見えたとみな書いています。
また、誕生時の逸話として、皇子なら甑(こしき)を棟から南へ落とす宮廷のしきたりを、役人が間違えて女子のように北へ落としたと『平家物語』などが伝えていて、安徳皇女説は、けっこう根強くあります。確かに肖像画(冒頭の画像)を見ると童女のようにも見えますね。
(2)「安徳天皇生存説」を強く裏付ける『玉葉』と『吾妻鏡』
壇ノ浦での安徳生存説を最も強く印象付けるもののに、『玉葉』と『吾妻鏡』の記述があ
ります。
鎌倉方の記録である『吾妻鏡』では、「先帝、海底に没し御す。」とまず最初に書いて、その後「海に入る人々」、「生虜の人々」などと続けていますが、さらに身投げした後、助けられた「生虜の人々」の中に「按察局(あぜちのつぼね」という人がいて、この人は安徳天皇を抱いて海に飛び込んだとされています。
にもかかわらず〈先帝ヲ抱キ奉リテ入水ストイヘドモ存命ス〉と、不審げに書いています。大人の按察局が助けられて、それより軽い幼帝が浮かび上がらないのは、どうしたことだという疑いが、この一行の中に読み取れます。
さらに、当時の関白九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』(『玉海(ぎょっかい』ともいう)では、壇ノ浦の直後の4月4日のくだりに、「去る二月二十四日午刻、長門国団浦に於て合戦す、正午より哺時(午後四時頃、ここでは夕刻の意)に至る。伐取らるる者、生取らるるの輩、その数を知らず…」に続いて「…但し旧主の御事分明ならず」(安徳天皇のことはよくわからない)とあります。
当然、水死となるはずなのに、所在はよく分らないとされたことで、安徳天皇生存説は当時から人々の間でかなり信じられていたといいます。そのためか安徳潜幸伝説が、各地に伝わっています。
(3)安徳天皇の死亡を裏付ける「赤間神宮」(山口県下関市)の伝説
人は水死すると遺体は膨張して一旦水面に浮かび上がります。そのまま流されて沖の方に行ってしまうと発見するのは困難になりますが、波に乗って陸に打ち上げられる場合もあります。
安徳天皇の遺体は波に流されて、下関市の岸に流れ着き、その土地の者の手で引き揚げられたと伝わっています。
そして、その亡骸は現在の「赤間関神宮小門御旅所」のある場所に安置されたそうです。ただし、これはあくまでも伝説です。
なお、上にご紹介した「すり替え説」が正しいとすれば、この遺体は安徳天皇ではなく「替え玉」の遺体ということになります。
5.「三種の神器」の行方
安徳天皇や二位尼とともに母の建礼門院(平徳子)も入水しましたが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられています。この際、三種の神器のうち「神璽」(「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」)と「神鏡」(「八咫鏡(やたのかがみ)」)は源氏軍が確保しました。
『平家物語』「先帝身投」の描写では、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかけます。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせます。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされています。
神器の「宝剣」(「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ」)はこの時失われたとする説がありますが、宝剣に関しては異説も多くあります。
原型か「形代(かたしろ)」(レプリカ)かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確実です。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣としました。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。