百人一首(ひゃくにんいっしゅ)は、「100人の歌人の和歌を、一人につき一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)」で、百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われます。
鎌倉時代初期に藤原定家が京都小倉山の山荘で揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが後世歌がるたとして広く用いられ、特に小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)として定着しました。私も高校時代に百人一首を暗記しました。
江戸時代は、寺子屋に入門して、「いろは歌」などの読み書きをマスターした時、次に学習すべきテキストとして名前が出ることの多かったのが「百人一首」です。
江戸時代の子供たちは、鎌倉時代初期の頃までの歌人たちが詠んだ百首の歌を通じて、昔のみやびな世界に親しんでいたのです。
なお、次にご紹介する笑い話を収めた「醒睡笑」が成立(1623年)した江戸時代の初期には、現在みられるような「百人一首を描いたカルタ」(冒頭の画像)は出回っておらず、書物に文字だけで記された百首の歌(下の画像)でした。
また百人一首をベースにした「○○百人一首」というタイトルの参考書も数多く出版されていました。主に女の子向けで、日常の暮らしの知恵なども併せて収められていました。
無学の人は、「ひゃくにんひとくび」と読んで、「妖怪話」か「怪談話」と勘違いしたかもしれませんね。
1.『醒睡笑(せいすいしょう)』より「不文字」
教養のない父親と優秀な息子の話です。
ある人の息子が、お手本に向かって「百人一首」をスラスラと読んでいたところ、その父親が横から口を挟みました。
「おいおい、あわてないで読んでくれよ。そういうのは返り点とかが、難しいんだからな」
和歌は「和の文で詠まれた歌」ですから、漢文スタイルの返り点などあるはずもないのです。
ところが父親は、なまじっか漢文の用語などを聞きかじって多少知っていて、むやみに口を挟んだために、本当はよくわかっていないことを息子に見抜かれてしまったのです。
親は子供の質問に対して「知らない」と答えるのは「親の沽券(こけん)にかかわる」とでも思うのでしょうか?
私にもこんな経験があります。私が小学生の頃、「百人一首のカルタ取り」は正月の遊びの定番でした。
ある時、私が「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」という歌の「われならなくに」の意味を父に聞いたところ、父は「我なら泣く(の)に」という意味だと答えました。
後に高校生になってから、百人一首の注釈の参考書を読んで、全くデタラメの説明だったことが分かりました。
やはり、父親も全能(オールマイティー)ではないのですから、正直に「その意味はお父さんもわからないので、先生に聞くか本で調べてごらん」とでもアドバイスしてほしかったと思います。
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり(論語「為政篇」)」という言葉があります。
自分が本当に知っていることを「知っている」とし、まったく知らないことは当然として、中途半端に知っていることも「知らない」と認める、これが知るということだ、と孔子も言っています。
2.『聞童子(きくどうじ)』より「学文」
江戸時代には、「百人一首」の四文字のうちの「一」を外した「百人首」の三文字で呼ばれたり使われたりすることも多かったようです。
八兵衛が、懐に本を入れて師匠のもとに習いに行く途中、道端で仲間に声を掛けられました。「おい、八兵衛。品のいい格好をしてどこに行くんだい?」「ああ、俺は学問をしに行くんだ」「学問?そりゃまたオツなもんだねえ。で、何を習ってるんだい?」「おお、『百人首』を読んでるんだよ」「何だって、バカバカしい。医者になんかなれるわけ、ないのに」
八兵衛の有人が「百人首」と取り違えたのは、「百人衆(ひゃくにんしゅう)」です。当時の医者は、急いで往診に出かける時に、今のタクシーのように駕籠(かご)を使うことが多く、その際には彼ら「百人衆」のたまり場から駕籠かきを手配することがよくありました。
上の話では、仲間の耳には「ヒャクニンシュウ」と聞こえたので、駕籠かきとの連想から医者になるつもりと早合点したというわけです。
3.『時勢話綱目(いまようはなしこうもく)』より「おぼこ争ひ」
男の子も覚える訓練をしていた「百人一首」ですが、より熱心に暗記に努めていたのは女の子だったようです。
そのような娘たちが何人か集まっている時、生半可な知識しかない「百人一首」について、好き勝手に話す笑い話もあります。
娘たちが集まって、明かりをともしながら楽しく過ごしていた時、一人の娘がこう話しました。
「町人って、歌を詠まないんだよね。だって『百人一首』の中に、町人って一人もいないから」「何を言ってるの?町人がいないわけ、ないでしょ」「だったら、誰が町人なの?」「そりゃあ百人とも全部、町人なのよ」
「あら、それって変。『百人一首』はどれもお公家さんとお坊さんと、お姫様ばかりで、町人は一人もいませんよ」「いいえ、みんな町人ですから。嘘だっていうなら、本を出して見てくださいよ。刀を差している武士なんて、一人もいませんから」
この話を収めた本が出版されたのは1777年(安永6年)のことです。このころには「百人一首」のカルタも定着し、平安貴族や僧侶たちのイラストを載せた教科書・参考書も出回っていました。
4.百人一首にまつわる怖い話
江戸時代の怖い話ではありませんが、「百人一首」にまつわる怖い話があるのをご存知でしょうか?
前に「藤原定家はなぜ悲運の人を選んだのか?百人一首のミステリーを解き明かす!」という記事を書きました。
百人一首に選ばれた歌の特徴として、「賀の歌」(めでたい歌)がひとつも選ばれていないことがあります。
世をはかなんだり、嘆き悲しんだり恨んだりするような歌が多く、恋の歌でもかなわぬ恋を嘆くような歌が多いのです。
このように定家が不幸な人の歌を多く選んだ理由は、依頼してきた蓮生法師も悲運の人であったので、彼に寄り添い彼の気持ちを慰める意図があったとも考えられます。
つまり百人一首は、有名な歌人の秀歌を集めたものではなく、藤原定家が多くの悲運の人の歌を集めて、知人の蓮生法師の悲運を慰めるのが目的だったのではないでしょうか?
放送作家・エッセイストの織田正吉氏の『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』によると、「駄作」「愚作」も多いそうです。
彼は、「藤原定家が後鳥羽院と式子内親王への鎮魂の思いを込めて歌を選び、それがわからないように時代順に並べ替えたものである」とする新説を提唱しています。
百人一首を英訳し、日本翻訳文化特別賞を受賞した東京大学非常勤講師・ピーター・J・マクミラン氏の「現代風に超意訳 本当は怖~い百人一首」には、上の記事でご紹介した以外にも、次のような人が例として挙げられています。
(1)右近(うこん)(生没年不詳)
平安時代、鷹の調教師の娘に生まれ、皇后さまにお仕えした右近は、今風に言えば「粘着女子」。
彼女は執着心が強くて、過去の恋愛相手のことをいつまでも引きずる女性だったのです。
若い頃、右近は、イケメンエリートの藤原敦忠(ふじわらのあつただ)に口説かれましたが、実は敦忠は有名なプレイボーイ。
「神に誓って、君を愛し続けるよ」
などと言いながら、「ごめ~ん、右近ちゃん。新しい彼女できちゃった」と右近を捨て、他の女性と交際を始めたのです。
そんな元彼に対して送った歌がこちら。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
(忘れられた私の事はいいが、愛してると誓った)
人の命の 惜しくもあるかな
(命を失うと思うと、惜しいわね)
元彼の敦忠は、その後 38歳という若さで亡くなったと伝えられています。
右近の呪いかも知れません…。
当時は、生霊やもののけの存在が信じられていたため、男性が死んだ理由も天罰だと噂されたのでしょう。
(2)右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)(936年?~995年)
政界の実力者・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)と結婚し、息子にも恵まれた美人で教養の高い女性・右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)。
しかし彼女には、ある悩みが…。
それは夫の浮気癖、手当たり次第といった有様。
そんな浮気夫に送った歌がこちら。
嘆きつつ 独りぬる夜の 明くるまは
(悲しみながら、独り寝る夜が朝まで続く)
いかに久しき ものとかは知る
(どれ程長いものか、わかりますか?)
実は道綱母(みちつなのはは)は浮気夫に対し、こっそり21年間も行っていた復讐がありました。
それは、夫に対する恨みつらみを「日記に書き続けた」、今流行の「だんなデス・ノート」です。
右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)の歌には、激しい怒りの感情が表現されています。
「嘆きつつ」の「つつ」は、繰り返し嘆いていると強く訴えた言葉です。
「いかに久しき」の「いかに」は、どれ程長いものか!と怒りの程度を強調した言葉なのです。
しかし兼家(かねいえ)は、家に帰ってきた後、懲りずにすぐ別の女性に向かったそうです。
彼女の著書「蜻蛉日記(かげろうにっき)」を見ると、夫の手紙入れから、他の女性に宛てた手紙が見つかったというエピソードが書かれています。
しかもその手紙の最後に「私は全部知っている」と、わざわざ書き足したそうです。
他にも、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」には、召使いに旦那を尾行させたとも書いてありました。
(3)小野小町(おののこまち)(生没年不詳)
絶世の美女として知られる小野小町。
実は高慢な女性で、しかも悲惨な末路をたどったと言われています。
若い頃の小野小町は、自分の容姿を武器にして男性をもてあそぶ、ちょっと困った女性でした。
小野小町は、家柄の良い御曹司・深草少将(ふかくさのしょうしょう)に言い寄られた際に、あるおねだりをしたという伝説があります。
それは「100日間、毎日通い続けたら結婚してあげる!」というもの。
しかし、二人の屋敷は8キロ近く離れていて、当時としたら遠距離恋愛でした。
それでも彼は、遠い道のりをせっせと行き来し、結婚できる日を夢見て通いつめたのです。
しかし99日目、無理が祟ったのか、道中で力尽きて死んでしまったのです。
そんな良くない噂が残る小野小町が、齢(よわい)を重ね、年老いて詠んだ歌がこちら。
花の色は 移りにけりな いたづらに
(花の色があっけなく、色あせてしまった)
我が身世にふる ながめせしまに
(私が長い年月、物思いにふける間に)
絶世の美女も、寄る年波には勝てず、最後は人知れず野垂れ死にした、との言い伝えが残っています。
京都にあるお寺には、小野小町が朽ち果てる様子を描いた想像図が保管されています。
最初は白い肌をしていますが、徐々に体がふくらみ、肌が黒くなっていきます。やがて皮膚が裂けると、オオカミや鳥が群がりはじめ、次第に白骨化していく様子が生生しく描かれているのです。
(4)儀同三司母(ぎどうさんしのはは)(?~996年)(*)
忘れじの 行く末までは 難(かた)ければ
(「いつまでも忘れない」とあなたはおっしゃいますが 将来の事はわからないので)
今日(けふ)を限りの 命ともがな
(幸せな今 死にたいわ)
「人の心は変わるかも知れないから、幸せなまま死にたい」という熱烈な愛の歌です。
その後、その男性の正妻になり、3人の子どもに恵まれたそうです。
(*)(ブログ管理人の注)
儀同三司母は高階成忠の娘で、名は貴子(きし)。平安中期の歌人で、円融天皇の内侍(ないし)です。
藤原道隆の妻となり、伊周(これちか)(=儀同三司)や、後に一条天皇の中宮となった定子(ていし)を生みました。清少納言の「枕草子」で有名な中宮定子です。