江戸時代の「百五十五歳の老人」の長寿の悲哀と、明治時代の元気過ぎる老人の話

フォローする



祝百寿

2021/9/15時点で日本全国の100歳以上の高齢者は86,510人で、51年連続で過去最多を更新しました。最高齢は118歳の女性で、男性の最高齢は111歳です。

このように、今や日本では「人生100年時代(人生百年時代)」が現実のものとなりましたが、江戸時代に書かれた書物にはこれをさらに上回る「百五十五歳の老人」の話が残っています。

1.弘前藩士の雑話随筆『深山雑話(みやまざつわ)』

弘前藩士である『深山雑話』の著者の知人の竹内勘六が、かつて廻国していた頃の経験談です。

道中の茶店で休んでいると、その亭主が「珍しいことがある、この配符をご覧なさい」と言います。「配符」とは「役所からの通達書」のことです。そこには加賀宰相(金沢藩主)家来、新木幸吉、百五十五歳が、公儀のご用が済み帰国するので、宿継ぎの人馬を差し出すようにとあります。

間もなく一行が到着、駕籠から降りてきたのは六十歳ばかりに見える小柄な老人です。勘六は前に進み出て、「拙者事は津軽越中守家来」と挨拶し、ご酒を一つ差し上げたいと、茶屋に命じて拵えさせた重箱と盃を出しました。老人は快く受け、三献飲んで盃を置きました。

勘六がそのお盃を頂戴したいと言うと、老人は語り始めました。定めて年齢にあやかりたいとのお考えであろう。拙者はこのたび公儀のご用で出府、公儀より生涯のうち三千石を下されることとなった。元来、加賀守よりも知行三千石を頂き、合わせて六千石となった。しかれども、これを語り合い、ともに悦(よろこ)ぶ者は一人もいない。近い親戚や朋友は皆死に果て、今は遠い親類に養われている。

長く生きているので嬉しい事も数々あったが、皆忘れた。一方、子や孫たちを先立てた悲しみと天変地異に驚いた事だけはよく覚えている。されば、めでたいのは八十八歳くらいまでで、その余の長命は無益に候。

この話を提供した竹内勘六とは、筆者の配流幽閉先、川原平村の隣村にある銅や鉛を採掘する尾太鉱山を請け負った御用商人として知られています。諸国を渡り歩いたいわゆる「山師」で、豊富な話題の持ち主だったようです。

ただこの話は、「百五十五歳の老人」という年齢が、現代でも信じがたい上、老人の話す内容が「ほら吹き男爵」のような眉唾なので、この老人は「詐欺師」だったのかもしれません。

2.「105歳の老人の二百里の徒歩旅行」についての明治時代の新聞記事

明治33年(1900年)の読売新聞に次のような記事が出ました。ただしこれは家族に皆先立たれた「長寿の悲哀の話」も含まれますが、どちらかと言えば三浦雄一郎さんのような「元気過ぎる老人の話」です。

宮城県仙台市立町百一番地士族田村鶴翁といへるは本年百五歳の高齢なるが、この翁は仙台の旧藩士にして書画を能くする由なるも、不幸にして家族はいづれも死亡し、曾孫某が京都に在るのみなるを以て、鶴翁は某の許に頼り行かんことを志し、老たる身をも顧みず徒歩旅行にて先頃郷里を出発し、一昨日府下荏原郡品川に到着し、一泊の上翌朝草鞋踏みしめて京都に向ひ発足したるが、其の健脚は遠く壮者の及ばざる処なりとぞ。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする