皆さんは「透視能力」などの「超能力」や「超常現象」を信じますか?
「超能力」や「ポルターガイスト」(*)のような「超常現象」に関しては、「現代の科学でも説明できない不思議な能力や現象があると信じる人」と、「科学的に説明できない能力や現象は存在せず、超能力もマジックのようなトリックを使ったものや、全くのインチキで、超常現象と呼ばれるものも地球の磁場など何らかの科学的に説明できる原因があると考える人」に分かれます。
(*)「ポルターガイスト(独: Poltergeist)」(ポルターガイスト現象)とは、とは、特定の場所において、誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こるとされる、通常では説明のつかない現象のこと。いわゆる 心霊現象の一種ともされています。
1.「千里眼事件」とは
「千里眼事件(せんりがんじけん)」とは、明治末の社会状況・学術状況を背景として起きた公開実験や真偽論争などの一連の騒動のことです。
「千里眼」・「念写」(*)の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者と共に巻き起こしました。
(*)「千里眼」とは、千里先など遠隔地の出来事を感知できる能力または能力を持つ人のことで、「透視」と呼ばれることもあります。仏教における天眼通(てんげんつう)。広目天(こうもくてん)がこの能力を行使出来たとされるほか、媽祖(まそ)に使役されている鬼に、この能力を持つ千里眼と呼ばれる鬼がおり、順風耳(じゅんぷうじ)と呼ばれる鬼と共に一対で仕えているとされます。
「念写(ねんしゃ)」(thoughtography、projected thermography)とは、心の中に思い浮かべている観念を印画紙などに画像として焼き付けるという超常現象のことで、いわゆる「超能力」の一種であり、「超心理学」として研究・実験が行われました。
(1)御船千鶴子の出現
熊本生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、明治42年(1909年)、23歳の時のことです。
その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていました。
明治30年代半ば(1900年)頃の日本では、「催眠術ブーム」が起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在しました。
最初に千鶴子を取り上げたのは、明治42年(1909年)8月14日付の『東京朝日新聞』です。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じています。
実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉です。
明治43年(1910年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得ました。
同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれましたが、この時は失敗しました。しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中しました。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになりました。
同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれました。
しかし、その結果は、試験物のスリ替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなりました。
翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出ましたが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調に終始しました。
その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、ふすま越しに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手元が臨席者の目に触れることがなかったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭(ふっしょく)することができなかったことが挙げられます。
結局、千鶴子は熊本に帰った後、明治44年(1911年)1月19日に自らの命を絶ちました。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまいました。
2014年に起きた小保方晴子さんの「スタップ細胞事件」を連想させるような話ですね。
(2)長尾郁子の登場
長尾郁子は、香川県丸亀市の判事であった長尾与吉の夫人であり、当時40歳でした。郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったということです。それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのです。
福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは明治43年(1910年)11月12日のことです。郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点です。さらに、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられました。
それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりです。福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みましたが、不成功に終わりました。郁子の場合は、福来のあらかじめ示してあった文字を念写することに成功したため、福来らはもっぱら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなります。
明治44年(1911年)1月4日から、物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれました。8日には、助手として参加した東京帝国大学物理学教室講師藤教篤が、実験物である乾板を入れ忘れるという事件が起きています。
山川からは、長尾側が透視する文字を書く場所に特定の部屋を要求したり(山川がその部屋で体を盾にして書いた文字を長尾は透視できませんでした)、山川側が一度開ければわかるように細工しておいた透視用の封筒に開封の跡が発見されるなど、不審な点があまりにも多いことが指摘されました。
山川博士らの実験は一つ一つ意味を持っており、透視が当たった時と当たらなかった時はどのような条件であったかがわかるように計画を立てていました。こうして透視が当たった時は、全て袖で隠さずに書いた時か、封を空けた跡が見られた時など、前述のような不審な点が見受けられたときだけでした。
また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまいました。そうして、同年2月26日に長尾郁子が病死しました。しかし、これさえもマスコミは長尾家への非難の材料として取り扱いました。
山川博士らは、同年のうちに写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、手品の一つに過ぎないと結論付けました。
(3)学者たちの批判的見解と終焉
この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表しました。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなりました。その結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされる機会は失われました。
同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となってしまいました。千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末でした。
福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになります。
以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のような科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味のことを公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなど「オカルティズム」への傾斜を加速度的に深めて行くこととなります。
2.透視能力者とされた御船千鶴子や長尾郁子
(1)御船千鶴子とは
御船千鶴子(みふねちづこ)(1886年~1911年)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された女性です。
熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)に、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれました。
生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったそうです。繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われます。また、観音菩薩を篤く信仰していましたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったということです。
22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙と結婚。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしました。それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻りました。
実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなりました。その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどしたそうです。また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたということです。中でも清原は千鶴子に人の人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みました。
評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、明治42年(1909年)から翌年の明治43年(1910年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めました。
明治43年(1910年)4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立ち会いのもと、透視実験を行います。人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせましたが、この方法では不的中に終わりました。今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたということです。
千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表しました。これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となりました。千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れました。
明治43年(1910年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行いました。千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚します。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行きました。
透視実験において、医院で接する患者には正面から向き合っていたにもかかわらず、上記の通り実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視です。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていました。いずれの実験も条件としては不十分で、中には千鶴子を別室に入れて行ったものまであります。
さらに、福来の著書「透視と念写」においてでも、最初の実験で送った19通の封印つき封筒のうち、「透視」が成功して帰って来たのは7通のみで、3通はうっかり火鉢に落として燃えた、残りは疲れてできないということでした。福来は単純に結果に驚愕したと書いていますが、燃えたものはともかく、疲れてできない分は返送されていません。これは火鉢の湯気を当てて封を剥がし、綺麗に戻せたものだけを返送したと考えられています。
そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったとされ、明治44年(1911年)1月18日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡しました。
一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれますが、地元では自殺の原因は「父親との金銭的なトラブルによるもの」だと見られていたそうです。
(2)長尾郁子とは
長尾郁子(ながお いくこ)(1871年~1911年)は、透視能力と念写能力を持つ超能力者として福来友吉に紹介された女性です。
裁判所の判事長尾与吉の妻で、1男2女の母親でした。観音信仰が篤く、御船千鶴子に関する報道に刺激されて精神統一して修練を積み、透視ができるようになったということです。的中率が高いと評判になり、讃岐実業新聞(現四国新聞)が報道して福来友吉の目に止まりました。
福来友吉は地元の協力者で丸亀尋常中学校(現香川県立丸亀高等学校)教頭だった菊池俊諦を通じ、京都帝国大学医学博士の今村新吉を誘って実験に入りました。
能力上は当初御船千鶴子に劣りましたが、対面して透視を行なえたので詐術の疑惑を受けにくいと判断されました。また未現像の写真乾板を送って透視してもらい透視結果を出してもらってから現像するという方法で不正疑惑を避けようとしました。数回の実験では的中しました。
また、カブリが発生していたことから、福来は念写の可能性を考え始めました。何度も実験するうちにだんだん念写がはっきりし、また複雑な文字なども可能になり、「念写」(Nengraphy )と命名し数多くの実験結果を学会に発表しました。
この少し前、京都帝国大学の三浦恒助という学生も長尾郁子の能力を実験し、念写について精神作用ではなく物理現象によるものとの見解を発表し、念写を起こす光線を「京大光線」と命名した。これにより、心理学界と物理学界の間で大きな波紋を起こすことになりました。
このことから、どちらかと言えば当初より福来友吉の実験に反対の立場であった山川健次郎がリーダーとなって、透視と念写の実験に訪れ、福来がオブザーバーとして立ち会うことになりました。しかし長尾郁子は、少しでも疑われたり邪心があったりすれば精神統一ができないと実験に以下の条件をつけ、学者の反感を買いました。
- 実験者が予め作った問題を直接実験室に持ち込まないで、まず準備室に置くこと。
- その問題は、全員が実験室に集まった後、長尾郁子の許可を得て持ち込むこと。
- 外部からの問題持ち込みの際、封印や糊付はしないこと。
- 準備室で書く時、書き直しは認めない。
- 写真乾板に念写する文字は長尾郁子が指定し、脳裏に浸透させるため一夜前に申し込むこと。
不穏な空気の中で行なわれた実験でも長尾郁子側に内密のまま不正開封発見のために入れた鋼鉄線がなくなる、封印が破られているなど不正手段を使ったと思われる状況がありましたが、不正発見手段は内密に行なわれたことで公表できなかったため、ひとまず「成功」として報道されました。
しかし続いて行なわれた実験で、山川健次郎側が写真乾板を入れ忘れて念写を依頼する手違いがあり、山川健次郎が謝罪して何とか実験が続行されることになりましたが、長尾郁子の超能力を疑う学者の中から一方的に「透視と念写は全くの詐欺である」旨の見解を報道陣に発表しました。
これにより、長尾郁子側は以後の実験を全く拒否し、2ヶ月後に急性肺炎で急逝しました。
3.「千里眼事件」で透視能力の実験を行った学者
(1)福来友吉とは
福来友吉(ふくらい ともきち)(1869年~1952年)は、岐阜県高山市出身の心理学者、超心理学者です。東京帝国大学助教授(後に、高野山大学教授)。文学博士(1906年)(学位論文「催眠術の心理学的研究」)。「念写」の発見者とされています。
福来友吉は、岐阜県高山市の商家に生まれ、見習い奉公に出されましたが商人になることを嫌い、学問に志を立てて猛烈に勉強し斐太中学校から優秀な成績で第二高等学校 (旧制)に進学しました。実家が事業に失敗し学費に困りましたが、仙台の資産家町田真秀が援助し、明治32年(1899年)東京帝国大学哲学科を卒業。さらに同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、明治39年(1906年)、「催眠術の心理学的研究」で文学博士の学位を授与されました。明治41年(1908年)、東京帝国大学助教授。
大正2年(1913年)、福来は満を持して『透視と念写』を刊行しますが、「透視は事實である。念寫も亦事實である」との説が学界で受け入れられることはなく、同年10月27日付けで文官分限令に基づき東京帝国大学の休職を命じられます。理由は、「官庁事務ノ都合ニ依リ」とされていますが、マスコミによるスキャンダル報道等により学問の権威を失墜させたことに対する事実上の処分であったと見られています。
その後の福来は、復職することなく大正4年(1915年)に東京帝国大学を退職。福来の追放をもって、変態心理学という学問分野自体が学界から排除されたとも言われ、以後、アカデミズムにおいて超能力の研究はタブー視されることとなります。同8年、福来は自ら超能力を得るべく高野山で修業を開始し、同15年高野山大学教授に就任しました。密教の研究を元に、実験で得られた結果を解釈する思想体系を構築しようと努め、その成果は『心霊と神秘世界』等の著作にまとめられています。昭和27年(1952年)年に肺炎で死去しました。
(2)今村新吉とは
今村新吉(いまむら しんきち)(1874年~ 1946年)は、石川県金沢市出身の精神医学者で、フランス語学者・今村有隣の長男です。
1897年帝国大学医科大学卒。ウィーン留学後京都帝国大学医学部教授となり、精神医学教室を創設、初代教授となりました。1904年医学博士。渡辺久吉の「日本心霊学会」にかかわり、「人文書院」と改称した時の命名者です。
妄想性精神病、神経症など精神病理学の研究で知られました。「千里眼事件」では、福来友吉らとともに御船千鶴子の売り出しを行いました。