1.「生類憐みの令」とは
「生類憐みの令」とは、江戸時代前期に第5代将軍 徳川綱吉が出した動物愛護に関する法令のことです。
この令によって今の中野区全体には御囲という犬専用のスペースができるなど、一時期は人より犬の方が偉くなってしまいました。
しかし、この法令は綱吉が死去し、次の将軍徳川家宜になるとわずか7日で廃止されました。
ただしこの「生類憐みの令」は、一本の法令ではなく「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称です。
この「生類憐みの令」は庶民の生活にも大きな影響を与え、「天下の悪法」と評価されることが多く、綱吉への評価を下げる原因となりました。現在でも極端な理想主義の法律・法案などに対する批判として「現代の生類憐れみの令」のように揶揄の対象にもなります。
しかし、近年では「儒教に基づく文治政治の一環」であるとして、再評価する向きもあります。
また、生類憐れみの令の後に出された「捨て子禁止令」(1690年)が綱吉の死後も続いたことから、生類憐れみの令は、子どもを遺棄することが許される社会から許されない社会への転換点となったとも評価されることもあります。
2.「生類憐みの令」を取り上げた浮世草子と随筆
(1)井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』より「才覚を笠に着る大黒」
京の富商大黒屋の惣領新六は、算用なしの色遊びを始め、店の大金を使い込み、怒った親仁(おやじ)に勘当されます。
冬空に裸同然で追い出された新六は、江戸に向かう途中で、大きな黒犬の死体を貰い受けます。
そんなものを何にするのかと思うと、これを枯草で燻して、「狼の黒焼き」(冷えの妙薬)と称して東海道を売り歩き、ようやく江戸の入り口、品川にたどり着きました。
「これまでの口を過ぎ(生活をし)、銭二貫三百(約6万円)延ばし、売り残せし黒焼きを磯波に沈めて、それより江戸入りを急ぎしに」とあります。
残った黒焼きも江戸で売ればよさそうなものですが、わざわざ海に沈めた理由は、江戸市中でそんなものを売ることは難しかった上に、ましてや実体が犬ですから、それがバレると死罪になりかねないからです。
逆に江戸以外の東海道筋では、「狼の黒焼き」を売っても大丈夫だったことがわかります。
西鶴一門による俳諧連句集『西鶴五百韻』に「江戸は法度(はっと)の強い山風」という句もあります。
(2)藤井懶斎の随筆『睡余録』
藤井懶斎(ふじいらんさい)(1628年~1709年)は、「生類憐みの令」と同時代の江戸前期の儒者です。
『睡余録』で、次のように世人の不満を代弁しています。
貞享元禄の間、東武(=幕府)、狗(いぬ)を殴ることを厳禁す。もし誤りてこれを殴りて狗死せば、すなわちその刑は殺人の罪の如し。蓋(けだ)し殿下(=将軍)の本命(ほんみょう)(=干支)はこれ戌(いぬ)なるが故なり。人皆この禁を楽しまず、反って以て怪しとなす。
これは「幕府批判」に通ずる言説で、当時「版本」での掲載は難しく、「写本」だからこそ可能でした。