NHK朝ドラ「ちむどんどん」で話題の詩人・中原中也とは?

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ちむどんどん・鈴木保奈美

現在放送中のNHK「連続テレビ小説」の「ちむどんどん」で、ヒロイン・比嘉暢子(黒島結菜)の幼馴染で結婚相手となる青柳和彦(宮沢氷魚)の母親・青柳重子(鈴木保奈美)が息子・和彦への想いを重ねるように中原中也の詩を読み上げるシーンが何度も出てきますね。

この「ちむどんどん」で話題の詩人・中原中也とはどんな人物なのでしょうか?

1.中原中也とは

中原中也

中原 中也(なかはら ちゅうや)(1907年~1937年)は、山口県出身の詩人・歌人・翻訳家です。東京外国語学校(現東京外大)卒。30歳の若さで亡くなりましたが、生涯に350篇以上の詩を残しました。

高橋新吉の影響で、短歌から詩に転じました。富永太郎や小林秀雄を通じてフランス象徴派詩人の影響を受け、《四季》《歴程》の同人となり、音律にすぐれた抒情詩を発表しました。

ランボーやベルレーヌに傾倒し、象徴的手法で生の倦怠や虚無感などを歌い、独自の世界を築きました。

1930年代半ばから詩壇に認められ、1934年には処女詩集『山羊の歌』を刊行しました。

1936年9月には第二詩集『在りし日の歌』の原稿を清書し、小林秀雄に託しました。この詩集は彼の没後の1938年に刊行されました。

『在りし日の歌』にある「思えば遠く来たもんだ  此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであろうけど」という「頑是ない歌」の一節は有名です。

「思えば遠くへ来たもんだ」は、武田鉄矢(海援隊)の歌のタイトルにもなっていますね。

1936年11の長男の死にショックを受け、精神が不安定になり,翌1937年に結核性脳膜炎を発病して31歳で亡くなりました。

2.作風

中也の詩は、上京後は「朝の歌」に見られるようにランボー、ヴェルレーヌといった象徴派的な詩風でした。その後宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、不思議な宇宙観と口語による響きに魅かれます。1935年(昭和10年)、賢治の没後一周年に刊行された『宮沢賢治全集』について『作品』1月号に掲載された推薦文では「僕は彼の詩集『春と修羅』を十年来愛読している」「此の我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩が、此の殉情的な国で、今迄読まれなかったなぞといふことは不思議だ」と評価しています。

3.評価

生前の中也は『山羊の歌』の詩人として、小林秀雄、河上徹太郎らの友人から高く評価され、また室生犀星、草野心平、萩原朔太郎らも独特な歌の世界を貴重なものとして見ていました。

没後は『文學界』『紀元』『四季』などが相次いで追悼号を企画、中也の評価が続きました

戦後は、復員した大岡昇平の編集解説で『中原中也詩集』が創元社より1947年(昭和22年)に刊行、大きな反響を呼びました。1949年(昭和24年)には『ランボオ詩集』、そして1951年(昭和26年)に『中原中也全集』全三巻が刊行されました。その後、中也の詩は各種文庫や詩歌全集に収録されるようになり、広汎な読者層を獲得しました。

4.エピソード

(1)人柄・性格

中也の性格について、中也の弟呉郎の解釈によれば、「農から出て立志した父の“荒い血”と封建の臣として淘汰された母方の“静かな血”の混血から成るもの」ということです

中也は自分の名前は森鴎外につけてもらったと称していました。鴎外は父の謙助が軍医学校在籍時に校長を務めていました。しかし母のフクによれば、旅順の軍医大佐「村六(中村緑野)」からとったものだそうです。

中也の代表作「サーカス」は本人にとっても自信作であり、中也と初めて会った人間は大抵朗読を聞かせられました。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のオノマトペを、仰向いて目をつぶり、口を突き出して、独特に唄ったそうです

中也の遺族によれば、帰郷すると東京の交友関係を大げさに吹聴していたそうでそうです。小林秀雄は三代続いた江戸っ子、青山二郎は青山と名の付く町全部の大地主、といった具合です。これは両親に仕送りを続けさせて東京に在住するためと大岡らに説明していました。

『白痴群』時代の服装は、五尺(151.5cm)に満たない体を黒いルパシカ、冬は黒い吊り鐘マントで覆い、頭には「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていました。のちに黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わりましたが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着しました。

中原中也

大岡昇平は1976年月刊『ポエム』創刊号誌上での正津勉との対談の中で、「中原の道化はわざとしているような感じで、一種の抗議者の役目を自分に振り当てている。ふざけて面白がっているところが随分あり、人に毒づいているときは結構楽しそうだった」と語っています。

また、2人は「喧嘩をする割には会う機会が多く、皆最初は中原をあがめてたが、『白痴群』をやめるころから重荷になり始めた。こじれると妙に勘繰るところがあり、ありもしない下心を探られ、ますますこじれた」とも語っています。

大岡は「中原の中には、疑うべくもない魂の美しさとともに、何とも言えない邪悪なものがあった」と書いています。

嵐山光三郎が大岡昇平に聞いたところによると、現在中也の肖像として広く知られている黒帽子の写真は、複写・レタッチを繰り返したため中也本人とかなり違うものになっているそうです。大岡曰く「皺が多いどこにでもいるオトッツアン顔だよ」とのことです。

(2)酒乱

22歳の時、『白痴群』の同人の村井康男、阿部六郎と酒を飲んだ帰り、沿道の家の外灯を傘で叩き壊しました。家の主人の町会議員は3人の後をつけ、交番に突き出しましたが、村井と阿部は教師だったため5日で釈放されました。しかし身分がはっきりしない中也は15日間も留置され、警官への恐怖が後まで残ったそうです。

装丁家・美術評論家の青山二郎は死別した夫人の弟にバー「ウィンゾア」を出店させていました。常連は小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平ら若い文人たちでしたが、中也が毎日顔を出し、誰かれかまわず絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまいました。

坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合いました。中也はお気に入りの女給が安吾と親しいのが気に入らず、いきなり殴りかかりましたが、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回しているだけだったので、安吾は大笑いしたそうです。

大岡昇平は『白痴群』の同人会で酔った中也に殴られたことがありました。他にも中村光夫は「お前を殺すぞ」と言われビール瓶で殴られたことがあるそうです

吉田秀和は著書の中で、レコードを購入した後に余った金で酒を飲もうとする中也を無理やり自宅へ連れて帰り、共に音楽に耳を傾けたエピソードを記しています。

太宰治は同人誌「青い花」を創刊するにあたり、檀一雄や中也を誘いました。東中野の居酒屋で飲んでいると中也は「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡みだし、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろしたそうです。

「青い花」は1号で終わり、太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とても付き合えた代物じゃないよ」と中也を拒絶するようになりましたが、中也の死に対して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原道造は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と才能を惜しんでいます。

5.中原中也の生涯

(1)生い立ち

1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)の中原医院で生まれました。両親の柏村謙助・フク夫妻は結婚後6年あまり子供に恵まれず、フクの実家である中原家当主の政熊にも実子がいなかったため、長男の誕生を大いに喜びました。

当時、父の謙助は軍医として旅順にいましたが、手紙で「中也」と名づけるよう送ってきました。10月、生後6ヶ月で母・フクと祖母・スヱと共に関東州の旅順に渡りました。中也を手元で育てたいという謙助の希望によるものでした。

翌年の夏、謙助は山口に転任となり、一家は山口の中原家に戻りました。翌年には広島に異動。

1911年4月、広島女学校付属幼稚園に入学。謙助はよく中也を連れて釣りに出掛けましたが、自分たちと階層の違う近所の子供とは遊ばせなかったそうです。1912年9月、謙助は三等軍医正(少佐)に昇進して金沢に異動。翌年から中也は北陸女学校附属第一幼稚園(現・北陸学院幼稚園の第一幼稚園)に通いました。

1914年、謙助は朝鮮の竜山に栄転しますが、学齢に達していた中也はフクとともに中原家に戻り、地元の下宇野令小学校に入学。成績優秀で「神童」と呼ばれました。

1915年、謙助は上司に申し出て山口に転任、中原家と養子縁組、中也の苗字も「柏村」から「中原」に変わりました。この年、弟の亜郎(つぐろう)が脳膜炎で死去。中也は後年『詩的履歴書』に、詩作をはじめたのは「亡くなった弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である」と記しています。

政熊が軽い中風に倒れたのをきっかけに、謙助は予備役編入を願い出て許可され、1917年に中原医院を継ぎました。

1918年、中也は山口師範附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)に転校。ここでも成績優秀で、戦闘的でありながら剽軽(ひょうきん)なところがありクラスの人気者だったそうです。

中也の両親は教育熱心で、フクが予習復習を受け持ち、謙助は納屋に閉じ込めたり煙草の火を踵に押し当てるなど厳しい懲罰を与えました。湯田温泉の風紀がよくないのを心配して外で遊ぶのを禁じ、溺れるのを恐れて水泳もさせませんでした。

小学校6年のころから短歌を作り始め、フクとともに『婦人画報』に投稿、1920年(大正9年)2月号で次選になり掲載された。また『防長新聞』(戦後に存在した同名紙とは別の新聞)にも短歌を投稿、入選しています。

1920年4月、12番の成績で山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に入学しました。しかし読書に耽り、成績は80番にまで下降、教師が家に注意したので、小遣いがもらえなくなり、立ち読みをしたり、図書館を利用するようになりました。

2学期の成績は50番まで持ち直しましたが、2年生ではどん底の120番まで落ちました。このころ、中也は両親に隠れて、防長新聞の短歌会「末黒野の会」に出席していました。この会で知り合った吉田緒佐夢、宇佐川紅萩と歌集「末黒野(すぐろの)」を1922年5月ごろ刊行。中也は「温泉集」と題した28首を収めました。飲酒や喫煙を覚えた「不良少年」となっており、成績はさらに下降しました。

1923年、3年生の原級留め置き(落第)が決定。通知を受けた謙助は落胆し、数日間往診に出ませんでした。一方中也は級友を勉強部屋に集め万歳をして答案を破りました。祖母スヱが「この位のこと何です」と部屋を掃除したそうです。

(2)京都での出会い

落第したことで中也が山口中学にいたくないという意思を示し、謙助も世間体が悪いということで転校させることになりました。1923年4月、京都の立命館中学校3年に編入、中也は一人で下宿生活を送ることになりました。秋、高橋新吉(1901年~1987年)の『ダダイスト新吉の詩』を読んで衝撃を受け、「ダダイスム」(*)に傾倒、詩作を始めました。

(*)「ダダイスム」とは、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動です。「ダダ主義」あるいは単に「ダダ」とも呼ばれます。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされたニヒリズム(虚無主義)を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とします。

1923年16歳の時に3歳年上の女優・長谷川泰子(*)(下の写真)と知り合い、翌年4から同棲します。泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優として月給をもらっていましたが、解雇されてからは中也の居候となってしまいます。帰省した中也が痩せているのを案じた中原家は仕送りの額を増やしています。

長谷川泰子

(*)長谷川 泰子(はせがわ やすこ)(1904年~1993年)は、日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残しています。中原中也と小林秀雄(批評家) との三角関係は有名です。

富永太郎

1924年7月から11月まで京都に滞在した6歳年上の詩人、富永太郎(1901年~1925年)(上の写真)と親交を結びます。富永太郎は連日中原の下宿を訪ねて語り合いました。富永太郎が頼ってきたのは京都帝国大学文学部国文科在学中で立命館中学の非常勤講師を務めていた冨倉徳次郎でした。

作文の時間、詩を書いてきた中也は冨倉の家に呼ばれるようになり、やがて大学生グループと展覧会を見に行ったり酒を飲んだりするようになります。中也は「ダダさん」の愛称で呼ばれました。12月初旬、富永太郎は東京に戻りました。喀血したことを医師に診断してもらうためです。

(3)上京

1925年、中学を4年で中退した中也は、大学予科受験を理由に泰子と上京します。日本大学や早稲田大学を希望していましたが、書類不足や遅刻で受験できず、予備校に通うという条件で仕送りを受け、東京住まいを始めました。富永太郎の紹介で東京帝国大学文学部仏文科1年の 小林秀雄と知り合います。11月富永太郎が結核で死去。同じ頃長谷川泰子が中也のもとを去り、小林秀雄と同棲します。

1926年、日本大学予科文科(戦後の日本大学文理学部)に入学するも1科目も試験を受けぬまま9月退学しますが、実家には知らせませんでした。その後アテネ・フランセに通いフランス語を学びます。

富永太郎や小林が参加していた同人雑誌『山繭』に「夭折した富永」を寄稿しました。東京で中原の書いたものが活字になったのはこれが初めてです。翌年の10月、高橋新吉を訪問。また自分の詩集の刊行を考え始めます。

1928年5月4日に前衛音楽グループ「スルヤ」の第二回発表演奏会で、諸井三郎が中原の「臨終」「朝の歌」に曲をつけて歌いました。中也は前年知り合った文芸評論家・音楽評論家の河上徹太郎を通じて、詩を持ち込み曲をつけてくれと頼んでいたのです。

無名の学生詩人の詩に職業作家が曲をつけることは前代未聞の出来事でした。以降、中也の詩に曲をつける作曲家は後を絶たず、「汚れちまった悲しみに……」などは、桑田佳祐やGLAYなど、近年のアーティストでも曲の題材にしていたりします。

3月に往診先で倒れた謙助は病床で印刷された歌詞を読んで涙を流したそうです。5月16日謙助が死去。中也は謙助が倒れてから月に1度見舞いに帰省していましたが、母のフクは世間の目を気にして葬式には帰らせず、喪主である中也は病気であるということにして取り繕いました。謙助の一周忌には、中也が中学2年の時に書いた「中原家累代之墓」を墓碑に刻みました

この頃、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に感じるところがあり、大岡昇平によると渋谷の夜店にあったゾッキ屋(雑誌や本などの見切品を安く一手に引き受けて売る店)で1冊5銭で投げ売りされていた同書を複数買い込んで、大岡を含む知人に配ったそうです。中也は、のちに賢治の最初の全集が刊行されたあとに「宮澤賢治全集」など賢治に言及した文章を3つ残しています。

(4)同人と雌伏

1929年4月、同人雑誌『白痴群』創刊します。同人は中也の他に河上徹太郎、村井康男、内海誓一郎、阿部六郎、古谷綱武、安原喜弘、大岡昇平、富永次郎が参加。後に『山羊の歌』に収録される詩や翻訳を毎号発表しました。

しかし中原が大岡、富永次郎と争ったり、原稿の集まりが悪くなったりしたことで、翌年4月に6号を出して廃刊となりました。以後「雌伏」の時期となり、詩作が止まります。

1930年、9月に中央大学予科に編入学。12月、小林秀雄と別れた長谷川泰子が築地小劇場の演出家山川幸世の子を出産。中也はその子に「茂樹」と名付けました。種痘を勧めたり、あせもや小さな傷を気遣う手紙を書いたり、時には一日預かるなど可愛がりました。

1931年、中大予科に籍を置いたまま、東京外国語学校専修科仏語部(現・東京外国語大学)に入学。授業は午後5時から2時間だけの夜学でした。中也はフランスに留学するため、外務書記生の試験を受けようと考えていました。

9月26日、4歳下の弟恰三(こうぞう)が肺結核で死去。父の死に目に会えなかった中也は恰三を見舞ったあと、母のフクに「もし恰ちゃんが死んだら、こんどは死に顔をぼくに見せてから焼場へ連れてってください」と伝えて上京。フクは言われたとおり恰三が亡くなると中也を呼び戻し、死に顔を見せてから焼場へ連れて行きました。中也は泣きませんでしたが「恰三のことがかわいそうでならぬといったふう」だったそうです。

1932年6月に初の詩集『山羊の歌』の出版を計画。1口4円で150口、600円集まれば200部印刷する予定でしたが、申し込みは知人10名ほどで、7月にもう一度募集を出しましたが、申し込みはありませんでした。

中也と親しい大岡らは払い込んでもどうせ飲んでしまうに決まっているとの判断でした。フクからも300円送ってもらいましたが、製本まで資金が足りず、刷り上った本文と紙型を安原喜弘が預かっています。このころノイローゼになり、強迫観念や幻聴がありましたが、年末から年明けの帰省で回復しました。

1933年3月に東京外語専修科を中程度の成績で卒業。外務書記生の道は諦め、近所の学生にフランス語を教えて小遣いを得ていました。『山羊の歌』を出版するべく、出版社に持ち込みましたが、うまく行きませんでした。

1933年12月に『ランボオ詩集〈学校時代の歌〉』の翻訳を三笠書房より刊行。この翻訳がはじめての商業出版です。本が売れたことで中也は小林秀雄とともにランボーの代表的訳者として名を残すことになりました。無印税でしたが、中也はこの訳詩集を中原本家はもちろん遠い係累にまで送りました。

同じく12月、遠縁にあたる6歳下の上野孝子と結婚。中原思郎著『兄中原中也と祖先たち』59頁によると、「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である。見合いは吉敷の親戚中村家で行われた。上野孝子は下殿中原家の親類筋にあたる。中原系族間の結婚である。」ということです。

中原家地元の温泉旅館「西村屋」で身内だけの結婚式と盛大な披露宴を行ったあと上京します。

(5)『山羊の歌』出版と夭折

1934年10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から出版されることが決まります。装丁は高村光太郎、四六倍判、貼函入り、背表紙は題、著者名が金箔押しという美装豪華本です。12月10日、3円50銭で市販されました。

この後帰省し、文也と対面しました。翌年3月まで郷里に留まり、ランボーを翻訳しますが、長門峡に遊んだ際吐血しています。

1935年3月末単身上京します。前年出版された『山羊の歌』は好評であり、詩壇とも交流、原稿依頼も来るようになりました。また1月から小林秀雄が『文學界』の編集責任者となり、中也は4月以後毎号新作の詩を発表しました。

しかし詩だけで家族3人が生活していけるだけの収入は得られず、フクは月100円以上の仕送りをしていました。中也は文也を可愛がっていましたが、一緒になって遊ぶというより、文也が遊んでいるのを見守るという接し方でした。

1936年、親戚で日本放送協会の初代理事・中原岩三郎の斡旋で、協会文芸部長との面接に出かけます。定職についてほしいというのがフクの希望でしたが中也にその気はなく、入社することはありませんでした(面接で履歴書に「詩生活」とのみ記していることを問われ「それ以外の履歴が私にとって意味があるのですか?」と不思議そうに返したという。当然不採用)。

6月25日、山本文庫より『ランボオ詩抄』刊行。生涯初めて印税を受け取ります。11月、2歳の文也の容態が急変、入院させます。中也は3日間一睡もせず看病しましたが、文也は小児結核で死去。葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フクがなんとかあきらめさせて棺に入れました。

四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れませんでした。12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれましたが悲しみは癒えませんでした。幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡。フクと思郎が上京しました。

1937年1月9日、フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山(山ではなく丘)にある中村古峡療養所に入院させました(療養所は「中村古峡記念病院」として現存)。

ここで森田療法(精神疾患に対する心理療法・精神療法として有名)や作業療法を受け、2月15日帰宅。騙されて入院させられたと孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれました。

文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ヶ谷の寿福寺境内にあった借家へと転居します。5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。7月、小林秀雄や三好達治ら友人たちの間で第二詩集出版の話が持ち上がります。しかし中也は心身を休めるため山口への帰郷を考えていました。

9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されています。9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々でした。23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に渡しています。

夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えました。歩行困難もありステッキをついて歩いていました。

5日に鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(現・清川病院)に入院。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断されました(今日では、結核性の脳膜炎とされています)。

15日、フクと思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していました。明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めました。河上徹太郎は毎日東京から病院に通いました。22日午前0時10分、鎌倉養生院で永眠。苦しむことなく安らかな死でした。

中也の死から約3ヶ月後の1938年1月、次男愛雅が病死。同年4月には『在りし日の歌』が創元社から刊行されました。



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