ベトナム戦争が始まった背景、原因・経過・結末とは?その後についても紹介

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ベトナム戦争

皆さんは「ベトナム戦争」についてどの程度ご存知でしょうか?

団塊世代の私は、中学3年の1964年に「トンキン湾事件」を契機として、アメリカによる「北爆」が始まり、ゲリラ部隊である「ベトコン」との壮絶な泥沼の戦争が私が大学を卒業して社会人4年目になった1975年まで続き、南ベトナムの首都サイゴンが陥落して、北ベトナムが統一を果たしたのを新聞やテレビの報道でつぶさに知っています。

ベトナム戦争・北爆・南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾

しかし、ベトナム戦争について知らない人も増えており、ロシアによるウクライナ侵略の行方や朝鮮半島情勢の今後を考える上でも参考になるため、今回ご紹介したいと思います。

1.ベトナム戦争とは

ベトナムは、第二次大戦前はフランスの植民地でした。欧州戦線でフランスがドイツに降伏すると日本軍はフランス領インドシナ(仏印)に進駐します。しかし、日本の敗戦により、1945年9月にホー・チ・ミンが、ベトナム北部にベトナム民主共和国(北ベトナム)を樹立して独立を宣言します。

これに対してフランスは、南部に傀儡政権(南ベトナム)を建国して対抗します。(第一次インドシナ戦争)この戦いは8年続きましたが、フランスの敗北に終わります。

1954年7月のジュネーブ協定により、北緯17度線を境にベトナムは南北に分断されることになります。南ベトナムは、アメリカを後ろ盾とするゴ・ディン・ジエムが大統領となり、国名をベトナム共和国とします。

しかし、南ベトナムは汚職まみれで国民の支持を得られず、武力統一を目指す北べトナムの「ベトコン」の攻撃を受けて内戦が始まります。東南アジアが次々と共産化することを恐れたアメリカが介入しますが、泥沼化し、結局社会主義国家によってベトナムが統一されました。

ベトナム戦争・戦車

2.ベトナム戦争前史

(1)第二次世界大戦終結までのベトナム

清仏戦争

ベトナムは「清仏戦争」(1884年~1885年)後の1887年から「フランス領インドシナ」としてフランスの植民地となっていました。

しかし、フランスは第二次世界大戦中の1940年にドイツに降伏してしまいます。

フランス領インドシナの地域は当時「南方戦略」といって南に軍を進めていた日本のものにするために日本軍が進駐することになりました。これが「仏印進駐」です。

しかしベトナムでは、共産主義者でベトナムの独立指導者であったホー・チ・ミン(1890年~1969年)(下の写真)が「べトミン」(ベトナム民族同盟)を結成し日本から独立を勝ち取るために抵抗運動を始めました。そして1945年には日本が降伏します。

ホー・チ・ミン

日本軍がいなくなったベトナムではホー・チ・ミンが1945年9月に独立宣言をおこない、共産主義国であるベトナム民主共和国が誕生しました。

(2)第一次インドシナ戦争(1946年~1954年)

新しい国としてスタートしたベトナムでしたが、これが面白くないのがフランスでした。

フランスはインドシナにまた介入し、「南ベトナム共和国」というフランスの傀儡国を作り上げました。

これ以降南側にはベトナム共和国、北側にはベトナム民主共和国という2つの国が誕生し、ベトナムは分断されました。

ホー・チ・ミンたち北ベトナムはあくまでも交渉でなんとか国を統一しようとしますが、フランスが妥協しないということが分かると交渉は決裂。北ベトナムとフランスの間で「第一次インドシナ戦争」(1946年~1954年)が勃発しました。

フランス軍はベトナムに侵攻しますが、土地勘があり、ゲリラ戦を展開している「ベトミン」に苦戦します。8年間にも及ぶこの戦争は北ベトナムの勝利で終わりました。

この時国連は「北緯17度線」を「停戦ライン」としてベトナムを南北に分け、ゆっくりと統一を目指していくという流れとなりました。

(3)北ベトナムによる南ベトナム侵攻(1960年)

ベトナムは北側の社会主義国である北ベトナムと南側の資本主義国である南ベトナムに完全に分断されてしまいました

このころ、世界では「冷戦」(社会主義国と資本主義国との対立)が起こっており、ベトナムはそんな対立の最前線となっていました。

ベトナム戦争は、「東西冷戦の代理戦争」という一面とともに、「ベトナムの独立のための戦争」という側面がありました。

南ベトナムではゴ・ディン・ジエム(1901年~1963年)(下の写真)がアメリカをはじめ、ざまざまな資本主義国から援助を受け大統領となりますが、彼がかなりひどい人物で、独裁政治を敷き、自分に刃向かうものに対して容赦のない弾圧を行なっていました。

ゴディンジェム

これに対して怒りの声を上げたホー・チ・ミン率いる北ベトナムでは、南ベトナムを独裁政治から解放させるために南ベトナム解放民族戦線』(通称ベトコン)が誕生し、1960年12月には南ベトナムへの攻撃を始めました。

この動きに対してアメリカは南ベトナムに軍を送って、「ベトコン」の動きを食い止めようとします。

実はアメリカの考えとして「ドミノ理論」というものがあり、ある国が共産主義国になるとその周辺の国も共産主義国となると考えられていました。

実際、その後ラオスやカンボジアが共産主義国になってしまったため、あながち間違っていませんでしたが、この考えがアメリカのベトナム政策に大きく影響します。

1945年9月に北ベトナム政府を樹立したホー・チ・ミンは、中国共産党の力を借りてベトナム共産党主体の政府を樹立し、社会主義国家としてスタートを切りました。

ソビエトは、当初中国の動きに任せていました。ソビエトが本格的に介入したのはベトナム戦争が始まる直前の話です。

それまで情勢を俯瞰していたソビエトは、ホー、毛沢東、そしてスターリンの三者会談の結果、軍事派遣を開始しました。その結果、ベトナム戦争にはソビエト・中国の社会主義の大国が関わるようになったのです。

背景には当然のことながら、アメリカの優勢がありました。自分たちが世界の中心になることを画策していたソビエトにとっても負けられない戦いだったのです。

(4)ベトナム戦争の原因となった「トンキン湾事件」の勃発(1964年)

そしてついに1964年8月のトンキン湾事件という北ベトナム軍のアメリカに対する軍事攻撃によってベトナム戦争が始まりました。

日本はベトナム戦争には直接関与はしませんでした。日本の立場はあくまでも「アメリカの援助」という形にとどまっています。

日米安保条約に基づいて、佐藤栄作首相は沖縄や横須賀の基地をアメリカ軍の駐留基地として開放し、アメリカ軍のベトナム戦争への参加を支援していました。国内でも、アメリカの支持する南ベトナムの独立を支援する民間運動がありました。

3.ベトナム戦争の経過・結末

ベトナム戦争(1964年~1975年)は「第一次インドシナ戦争」の延長として捉えられており、「第二次インドシナ戦争」と呼ばれることもあります。

(1)「北爆」の開始(1965年)

ベトナム戦争・爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52戦略爆撃機

戦争の初期の頃はアメリカは「ベトコン」の徹底的なゲリラ戦術に大変苦戦します。

ベトナムにはたくさんのジャングルがあり、「ベトコン」はアメリカ兵士に対してノイローゼになるまで執拗な攻撃をし続け、アメリカを圧倒していきます。

ベトナム戦争・渡河

これに対してアメリカはこの現状をなんとかするために、「ベトコン」が潜んでいるジャングルごと焼き払おうと北ベトナムに大規模な爆撃を行います。この爆撃のことを「北爆」といいます。

アメリカは北ベトナムを完膚なきまで潰そうと、北ベトナムに対してなんと250万トンもの焼夷弾や爆弾を投下していきます。ちなみに太平洋戦争で日本に落とされた爆弾の総量が13万トンでした。

250万トンという量は、アメリカがいかにベトナムを潰しにかかっていたかを如実に示すものです。この「北爆」を指揮していたカーチス・ルメイ(1906年~1990年)(下の写真)は、あの東京大空襲を指揮した人物でもありました。

カーチス・ルメイ

(2)泥沼化する戦争

北爆を開始してから3年が経過しました。

その後もアメリカは北爆をし続けていましたが、ベトコンは粘り強く抵抗し、アメリカを押し返していました。

これに対してアメリカ国内の世論はどんどん戦争のあり方について疑問視していきます。

さらに北ベトナムによる「テト攻勢」によって南ベトナムの首都であるサイゴンが陥落されかけます。

アメリカはこの時ジョンソン大統領でしたが、大統領選挙の結果、1969年には大統領はジョンソンからリチャード・ニクソン(1913年1994年)(下の写真)へと変わります。

ニクソン大統領

ニクソン大統領はどんどん戦争に批判的になっている国民をなだめるために北ベトナムへの北爆をやめ、軍事支援を縮小します。

一方、ベトナムにおけるアメリカ軍ではとんでもない兵器を使いベトナムを潰しにかかります。それが「枯葉剤」でした。

枯葉剤によってジャングルの木を枯れさせ、「ベトコン」に被害を与えようとしましたが、これはジュネーブ協定違反であり、これによってベトナムは深い傷を負うことになりました。

(3)ベトナム戦争の終結(1973年)

ベトナム戦争に対する批判は日に日に強まり、当時起こっていた学生運動も相まって世界各地で大反戦運動が起こります。日本でも「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」の略称)という形で反戦運動が起こっていました。

ニクソンは全然負けない北ベトナムを孤立させるために同じく共産主義国であった中華人民共和国を訪問し、中国にベトナム戦争への介入をやめさせようとします。この動きを「ニクソンショック」といいます。

しかし、この動きをしても北ベトナムは全然負けません。アメリカはもうこれ以上ベトナムに介入しても意味はないと判断して、1973年1月に「パリ和平協定」を結び、1973年3月にアメリカはベトナムから完全撤退しました。

(4)アメリカ撤退後に北ベトナムが南ベトナムを制圧(1975年)

アメリカではその後「ウォーターゲート事件」(1972年~1974年)(ワシントンD.C.の民主党本部での盗聴侵入事件に始まったアメリカの政治スキャンダル)が起こり、ニクソン大統領は辞任し、アメリカの国内は大混乱しました。

北ベトナムはアメリカがベトナムから撤退すると南ベトナムに対して総攻撃を開始し、1975年に首都サイゴンを陥落させました。

その結果、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わり、ベトナムは1976年に北側の主導でついに統一しました。

こうしてアメリカ側の戦死者・行方不明者170万人、北ベトナムの戦死者・行方不明者180万人というおぞましい爪痕を残し、ベトナム戦争は終結しました。

ベトナム戦争において、アメリカの明確な敗北宣言はありませんでした。しかし、勝利宣言もなく終結したため、事実上アメリカが敗北した戦争でもあります。

4.ベトナム戦争のその後

(1)ベトナムのその後

ベトナム戦争後、統一したベトナムはサイゴンをホーチミン市に改名。北ベトナムによる共産主義化が進められました。

北ベトナムはベトナム戦争による深い傷から立ち直るために「ドイモイ政策」(1986年からベトナムで実施された社会主義体制を維持しながら、市場経済を導入する政策)を開始し、ベトナムはどんどん発展していきました。

ちなみにアメリカとの国交回復は1990年まで待たなければなりませんでした。

(2)アメリカのその後

ベトナム戦争はアメリカが初めて対外戦争において敗北した戦争でした。

アメリカはベトナム戦争に最大54万人を投入するとともに、莫大な戦費を使い果たしました。

アメリカはこれ以降、経済が低迷しはじめ、西側諸国における一極的な立場がなくなってしまいました。

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